掴めぬ真実1
ハニーは駆けていた。
地下の回廊を抜け、地下と地上を結ぶ通路の切れ目を越え、城の1階部分に至ってもまだ、全力で長い廊下を走り続けた。
薄暗い廊下にハニーの淡い赤の髪が激しく揺れた。
陰鬱とした道で、その色合いだけがハニーの心に温かさを与えてくれた。
彼女の身を包むのは変わらず襤褸切れだ。
薄汚れ、擦り切れたそれはハニーが初めから着ていたものである。
ラフィから借り受けたシャツやベストはもうない。
全てアシュリの腕に巻きつけてきた。
借り受けた靴の一足は、いつの間にかなくなっており、もう片方は地下へ続く階段の前にわざとらしく置いてきた。
気が付いた誰かが不審に思い、地下へ降りていくかもしれない。
それが、今のハニーが出来る精一杯だった。
それが結果自分に害をなすことになっても、不審者の痕跡を残さずにはいられなかった。
駆ける度に足の裏がピリピリと痛んだ。
きっと白銀の兇器の欠片や土埃を踏みつけたままになっているのだろう。
足先や肌越しに感じる空気は身を切り裂くほどに冷え切っていた。
石造りの城はどこも冷え冷えとしていて、まるでハニーの存在を否定されているかのように思えてならない。
だがそんな取りとめもない感覚をもって、この足を止める訳にはいかなかった。
目指すはまずウヴァルの下である。
死の淵にいるエルも気になるが、何をおいても真っ先に彼と直接会って、この馬鹿げた騒動を終わらせたかった。
それが牽いてはエルの為なのだ。
(早く終わらせなきゃ。全て終われば、全部元に戻る。歪んだ真実も、わたしたちの運命も……)
ねえ、そうでしょ、とハニーはエルに語りかけた。
必死に頭を動かして誰かに話しかけていないと、自分を保ってなどいられなかった。
もう限界だったのかもしれない。
被っていた女王の仮面が剥がれそうになる。
それを懸命に自らの顔に張りつける。
そして凛とした強気の瞳を輝かせ、前を見据えた。
長い廊下には所々燭台が置かれ、赤くくすんだ色の絨毯が隙間なく引かれていた。
灰色の石の壁には所々にタペストリーが飾られており、また小さな窓には厚手のガラスが嵌め込まれていた。
窓からの灯りと燭台の炎に照らされ浮かびあがった廊下は陰鬱で、地下よりも禍々しい気配に息が詰まりそうになる。
もともと明るい城ではない。
石造り故の冷やかさは仕方ない。
だがそれでも、廊下に敷かれた温かな絨毯や壁に掛けられたタペストリーに人の息吹を感じる城であった。
その場所が陰鬱として空気が澱んでいるように感じる。
あの深き森も、その奥にある神殿もここまで薄ら寒いとは思わなかった。変わり果てた城に身の毛がよだつ。
(たった三日離れただけ……なのに何が変わったの?)
不安に揺れる華奢な体を両手で包み、俯いた。
何が変わったのか明確には分からない。
でもここはハニーの知っている場所ではなかった。
俯いた所為で赤い髪がはらりと落ち、頼りなげに揺れた。
その視線の先で、髪と一緒にキラリと何かが揺れた。
それは銀で拵えた三日月のネックレスだった。
誰よりも愛しい存在から借り受けた友情の証だ。
『貴女は僕の全てだ。空に輝くあの月のように、どんなに姿を変えようと、時には消えて見えなくなろうと貴女に僕の全てを注ぐ。何かあればいつでも名前を呼んで。僕は貴女の心に応えるから、愛しいハニー………』
真剣な眼差しでそう言ってくれたエルの顔が浮かんだ。
その顔が愛おしくも心苦しく感じるのは、先ほど縋りついてくる彼を手酷く突き放したからだ。
あの悲痛な声が未だに脳裏に響く。
(ごめんね、エル。でも、あなたの存在がわたしを強くする)
ハニーは小さな微笑みが側にいなくても自分を導いてくれているように感じた。
ふと足を止め、胸元でゆれる小さな月を握りしめ、硬く目を閉じた。
祈るようにしばしそうしていたが、大きく息を吐くと眩い金色の瞳で先を見つめた。
きつく口を結ぶ。
これ以上弱気な心を外には出さないと決めた。
全て終わるまで、後少し―――今はただ、自分の信念に従うのみだ。
城の中は外ほど警備が厳重ではなかった。
だがハニーにとって必ずしも安全な場所ではない。
時折聞こえる警備の騎士の声や、ガシャンと剣の揺れる音にハニーはビクリと身を竦ませた。
その度に息を潜め、物陰に隠れて辺りを窺った。
城の外にこそ危険な存在が潜んでいると思っている彼らは、すぐ近くに彼らの追う対象がいるなど思いもしないようで、辺りに神経を張り巡らせていなかった。
ハニーのすぐ側を無表情のまま通り過ぎていく。
彼らの気配が去るとはハニーはホッと胸を撫で下ろし、先を進んだ。
どこまでも続く赤い絨毯は足音すら吸収してしまうほどに柔らかく、ハニーはその点だけは気を払わず済んだ。
所々に置かれている燭台の灯りが彼女を導くように長い廊下をぼんやりと浮かび上がらせている。
人の気配すらしない長い廊下はシンッと静まり返っていた。
(まだ外の三人に気付いていないみたいね)
その静けさこそがハニーに安堵を齎す。
ハニーは知っていた。
今は静かに息を潜めるこの城が目覚めた時、凶悪な牙を剝き出しにして烈火のごとく迫り来るのだと。
不安定な静寂が燻り続ける間は、誰もハニーの存在はおろかラフィ達にも気付いていない。
それだけが唯一の心の拠り所だった。
そう確信しなければ、別れてしまった彼らのことが気になって先には進めなかった。
知らず知らずの内に、抱えていた不安と共に吐息を吐いた。
知らぬ景色に生温かい吐息が広がる。
しかし急速に熱を帯びた吐息が凍りついていく。
もしラフィ達一行が見つかるようなことがあれば自ら騒ぎを起こすつもりだった。
ハニーが大々的に捕らわれたら、しがない一行よりこちらに眼が向くというものだ。
だが今はあまりにも離れ過ぎていて、彼らがどうなっているのか想像もつかない。
無事を願っているのに、頭に浮かぶは最悪のシナリオばかりだ。
ハニーはゴクリと唾を飲み込み、つうっと額を流れる冷や汗を拭った。
(大丈夫。ラフィがいるじゃない。彼は見た目に反して頼りがいがあるわ)
そう自分に言い聞かせ、先を進む。
(今はわたしに出来ることをしなければ……まず、ウヴァルに会う!彼に逢わないと何も始まらない……)
ぐっと顎を引き、決意に満ちた眼で前を見据えた。
ハニーの視線の先で、長い廊下が直線に折れていた。
その角を曲がった先に2階に通じる階段があり、そしてその階段を真っ直ぐに抜けた先にあの広間がある。
ウヴァルがどこにいるか皆目見当もつかなかったが、何故だかあの広間にいるような気がした。
それは最後に彼を見た場所だからだろうか。
ハニーは目指す先をあの広間に定め、先の見えない角を曲がろうとした。
だが、折れた先に足を進める前に、素早く身を引いた。
息を潜め、壁際にへばりつく。
今にも表に出てしまいそうな心臓の音を懸命に抑えつけた。
廊下を曲がった先に数人の騎士が屯しているのが見えたのだ。
彼らに気付かれぬようハニーは身を隠したまま、廊下の先の様子を窺った。
彼らは話しこんでいるのか、中々その場を離れそうになかった。
そのままこちらに進んでこられても困るのだが、そこに居続けられるものいただけない。
ハニーははぁっと短く嘆息した。
(まったく!なんて心臓に悪いのかしら?早くどっかに行きなさいよ!そこを通らないと広間に行けないのに……)
引き攣る喉をなんとか抑え、息を整えるように胸を撫で下ろす。
ハニーは逡巡したように眉を寄せた。
進む先にいるのは白銀の髪に青銀の瞳を持つエクロ=カナンの騎士だ。
彼らは城の警備を任されているのか、その腰には重々しい剣を佩いていた。
(そうだ。ここで思い切って自分の存在を明らかにしてみようかしら?そして驚く彼らを脅してウヴァルのところまで案内させようかな?血に濡れた女王の呪いと言えば、恐れ慄いて、わたしの言葉に従ってくれるかも?今はきっと、正攻法じゃ無理だし……)
このまま隠れながら進むのにも限界があると早々にハニーは気付いていた。
城のどこに配置されているか分からない騎士達の視線を掻い潜りウヴァルのところに乗り込むのは、森の中を駆けこの城に行きつくよりも難しい。
今のところハニーが仕える武器は『血に濡れた女王』という汚名しかない。
逃げるところを取り押さえられるよりもこちらから先制攻撃を加えるほうが手段の是非はあるとしても、先に続く可能性がある。
(一か、八か……賭けに出るなら早い方がいい)
思いついたら即行動とばかりに頷き、ハニーは意を決した。
ピンっと背筋を伸ばすと、一気に角を曲がろうとした。
先手必勝。
後手後手に回り、ただ現状に流されるのはもう嫌だった。
それはあの時、あの広間で十分感じたことだ。
何もできず、ただ目の前の現実を受け入れるしかない。
そんな生き地獄はもう二度と味わいたくない。
ハニーの傷だらけの足が角の向こうに伸びた。
だがハニーは気付いていなかった。
彼女の、その背後にずっと怪しい影がついて来たことを。
彼女と付かず離れずの距離を保っていたそれが、彼女の背で不意に大きな翼を広げた。
ハニーの冷え切った足先がゆっくりと赤い絨毯に触れるその寸前、ハニーの体をその黒い翼が包み込み、闇に引きづり込んだ。