潰えた絆9
「え―――?」
金色の瞳が驚きに見開かれた。
その瞳の中で、傷だらけの少女が困惑に揺れていた。
それが自分の姿だとアシュリはまざまざと見せつけられた気がした。
だがそれは認められない。
「早く行けっ!敵からの施しなどいらんっ!」
なけなしの気迫で叫ぶと、その場に落ちていた短刀を傷ついた右手で掴んで、頭上高く振り上げた。
三本の指ではうまく短刀を支えるなど出来る訳がない。
もちろん、その小刻みに震える手ではどうあってもハニーに傷付けることも叶わないはずだ。
それでもアシュリは震える手を下ろすことなく、ハニーを睨みつける。
先ほど大鎌を振り上げるアシュリに恐怖しか感じなかった。
だが、今の彼女の姿は悲愴で、憐みの情しか湧いてこない。
手負いの獣に歩み寄る距離間を測るよう、ハニーは途中まで手を差し出して躊躇した。
何物をも受け入れないと身を固くするアシュリに、なんと声をかければ、その固い甲冑の中の柔らかな心に届くのだろうか。
「アシュリ………」
「見くびるな!私は……死の天使だ」
そう言うとアシュリがふと、厳しくつり上げていた瞳を和ませた。
一文字に引き結ばれた口元が僅かに綻ぶ。
「―――お前の言うとおり、使命を全うする前に死を願うなど愚かなことだ。お前がどれだけ遠くに逃げようと、必ずお前を殺す為に相見える。その時、後悔しても遅いのだぞ?何故、あの時殺しておかなかったのかと………」
静かで、そして他言を挟ませない自信にあふれた声だった。
そのアシュリの顔はまるで早春に固い蕾がようやっと開き、中から白い小さな花びらが震えるように顔を覗かせている、そんな儚い生の躍動を思わせた。
ハニーは一瞬飲み込まれたように目を見張る。
彼女はこんなにも柔らかな顔をする人だったろうか。
ただ愛らしいと評するには彼女は多くのものを失いすぎている。
自らの肉体の一部、死の天使として何者にも負けず、施しを受けるはずもないという自負―――それは彼女を成り立たせていた全てだ。
全てなくなり、今初めて分かることもあるのかもしれない。
死の天使と呼ばれ畏怖の対象である者の背にも柔らかな天使の翼が生えていることに。
それは己の弱さや汚さを優しく包み、そして更なる高みに連れて行ってくれる。
アイスブルーの瞳が真っ直ぐに金色の瞳を見返す。
今にも砕けそうな、それを必死に押し留めている瞳には、言葉以上の思いが込められていた。
「私はこれしきのことでは死なない……」
アシュリは緩んだ頬を引き締め、精悍な眼差しで目の前で戸惑っている女王を見つめた。
忘れようとしても、ズンズンと脳の奥底に響く疼痛は誤魔化せない。
それは己の肉体の欠損ゆえか、それとも目には見えぬ傷の存在に気付かされたからか―――。
痛みを押し殺した、なけなしのプライドで持ちこたえているアシュリが、最後の力を振り絞って、叫んだ。
「早く行け……私は、けして死なない。お前の助けを乞わなくても、この城にいるのは私の味方ばかりだ………」
疑い深いハニーの瞳が、アシュリの瞳の中に真実を見出すように覗きこんだ。
確かにこの城はもうハニーの知っている城ではない。
全てが変わり、城にいるのは女王を追う騎士だけだ。
聖域の司教の紋章を背負う彼女を無下にする者など存在しないだろう。
だが、この誰の気配もない場所に置き去りにしていいのだろうか。
ハニーは僅かに躊躇し、短く問うた。
「ほんとに?」
「くどいっ……」
吐き出すようにアシュリは応えると、ぎりりっと歯を食いしばった。
険しい瞳のままハニーを睨み続ける。
アシュリは我慢の限界であった。全身が力み、血管がブチ切れそうになるのを懸命に堪える。
「―――分かった。あなたを信じるわ」
ハニーはそう言うとアシュリに背を向けた。
その瞬間、右手から握りしめた短刀が零れ落ちた。
カランっと軽い音を立てて、白銀の兇器が暗く沈んだ床を跳ねる。
二三跳ねて、動きを止めたそれの後を追うように、赤い雫が点々としていた。
だがハニーは振り向かなかった。
ただ固く拳を握り締め、激しく胸を蠢く感情をやり過ごした。
震える唇が何とか意味を成す吐息を零す。
「絶対に生きて会いましょう」
言い終らないうちにハニーは狭い回廊を駈け出した。
そしてもう二度と後ろは振り向かなかった。
薄暗い回廊に燃えんばかりの赤い髪が揺れる。
その後ろ姿を見つめ、アシュリはポツリと呟いた。
きっと前を見つめているハニーには聞こえないだろう。
それぐらいにささやかな声だった。
その声は切ない響きを以て、回廊に薄らいでいく。
「……馬鹿馬鹿しい。誰がこんな私を助けに来るというのだろう?サリエか、ハールートか。それともイオフィエーラ……」
力なく薄汚い回廊の壁に背を預け、アシュリは自嘲気味に口元を引きつらせた。
そっと視線を床に添わせ、無造作に足元に転がる短刀を見つめる。
その一つの柄に鮮やかな鳥の羽根が一枚張り付いていた。
その羽根を見つけてもアシュリの瞳は何一つ変わらなかった。
相変わらず透き通った瞳はそんなものは些細なものだとばかりに、ハニーの駆けていった方へと向けられた。
もう死んでしまうのではないかと思うほどに体が重い。
だが、心は何故か軽やかだ。
このまま、自分の生を捨ててしまうのがもったいない気がした。
そんな自分が信じられない。アシュリは泣き出しそうな顔を惨めに歪めた。
「本当に馬鹿馬鹿しい。なのに……何故こんなにも心かき乱されるのだろう?」
ハニーは駆けた。これが最後の踏ん張りだった。
始めは何もない荒野だった。どこまでも続く枯れた大地だった。
しかし、いつの間にか天に届くほどに聳える城にまで至った。
もうこの先はない。ハニーを待ち受けているのは、城の頂きにある天上の楽園か、それとも頂きから落ちた先にある天下の失楽園の二つだ。
でも、もう堕ちるところまで堕ちた。ならば後は這い上がるのみ。
闇を退け生まれる、神聖な陽光に似た瞳が一寸先も見通せぬ闇を切り裂いた。
「待っていて――エル………今、全てを終わらせる」
城に舞い戻った女王は今、自らの運命を自分の手で切り開く。
城を追われた時と同じ、たった一人の身。だが、その気高い瞳はもう揺れることはない。
たった一つの望み――真実を求める女王の進む道は果たして天使の奇跡か、悪魔の幻想か。