潰えた絆7
その勢いのまま、ハニーは反対側に盛大にぶつかった。
バランスを崩して、その場に崩れ落ちる。
それは熟した果実が耐えきれずに落ちて、無様に破裂する様子に似ていた。
グシャリとつぶれ、そのまま立ち上がれない。
したたかぶつけた腰に思わず、うめき声を上げる。
「あっ…………」
咄嗟にアシュリが傷ついた右手を差し伸ばそうと身じろいだが、すぐに動きを止めた。
それは痛みの為か、それとも死の天使が聖域の敵に情けをかけてしまったことへの後悔なのか、己のことで精一杯のハニーには分からない。
痛みに顔をしかめながら頭を上げると、今にも泣き出しそうな雪の瞳があった。
手に取ると儚げに溶けていく、雪の結晶のような色合いは泣きそうなほど綺麗だ。
「……だ、大丈夫、大丈夫よ。ちょっと、力み過ぎた……」
ハニーは努めて明るい声であげた。
本当は手が震え、足にも力が入らない。
だが、そんなことを気取られないように奥歯を噛みしめる。
アシュリは目の前にいる。
それは分かっているのに、彼女が手も届かない雪原の大地に取り残されているように思えた。
このまま彼女を真っ白な原野に残しておけない。
ここで彼女を置き去りにすれば一生後悔する気がした。
ハニーは痛みに麻痺する手足を何事もないように動かすと、のろのろと立ち上がった。
そしてまた躊躇なく自分の着ている服を裂き、アシュリの手に巻きつける。
「この短刀は抜かない方がいいわね。きっと抜くと、もっと血が出てくるはずだもの」
短刀ごとアシュリの手をきつく縛っていく。
見る度に色褪せていくアシュリの頬から力が抜けていくのを感じながら、ハニーは急かされる思いに揺れていた。
ひどい出血だ。
早く医学を心得た者の治療が必要なのは火を見るよりも明らかだ。
だが今ここにはハニーしかいない。
早くここを出なければ……そう思うが、焦れば焦るほど、うまく手足が動かない。
自分の器量のなさに悔しげに顔を寄せるが、しかし自分を奮い立たせるようにアシュリに語り続ける。
「………最後は足ね。短刀はドレスに刺さってるだけだから、なんとかなりそう。ねぇ、ドレスがどれだけ裂けたって文句言わないでね。まぁわたしほどひどい恰好にはならないわよ?」
軽口と共に笑みを浮かべてみると、アシュリは言葉なく目を剥いた。
感情など存在しないはずの美しい瞳は口よりも表情豊かだ。
ハニーの胸に棲みついていた深い森の死神が、急に不器用な少女に姿を変えていく。
深淵の闇より深い髪が、今は柔らかな夜の帳に見えた。
ハニーはその場にしゃがみこみ、一個、一個、刺さった短刀を抜きにかかる。
どれも深く突き刺さっており、ハニーは一本抜く度に、その場に無様に転がった。
全部で5本も刺さっていた全てが抜けた時、アシュリの身がガクリッと崩れた。
磔の刑に架せられていた肉体は自身を支える短刀を失った瞬間、まるで糸の切れた操り人形のようにその場に落ちた。
ハニーは慌ててアシュリを支えんとその背に手を回し、その顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫?」
やはり血が出過ぎたのだろうか。
だが、今ハニーに出来ることは励ますことぐらいだ。
助けを呼んでやりたいが、ハニーは孤立無援である。
ハニーの頼みを聞いてくれる者などこの城にはいない。
色を失ったアシュリの頬に恐る恐る触れると、真っ直ぐにハニーを見上げるアイスブルーの瞳と視線がぶつかった。
その瞳にはハニーに対する嫌悪感も、また痛みに対する恐怖もない。
どこか年相応の幼さを垣間見せる。
脆い美しさを孕んだ硝子玉のような瞳が不思議そうにハニーを見つめている。
「何故……」
「え?」
「………何故、私を、助けた?このまま、逃げるのが、普通であろ、う」
痛みに言葉を切りながらも、アシュリのまっすぐな瞳はぶれない。
真摯にハニーに向けられている。
「っ……だ、だから言ったじゃない。わたしは捨てたくなくて、揺れたくなくて、そんでもって立ち止まらないんだって!」
澄んだ瞳に飲みこされそうになり、ハニーは思わず自分の中で言葉に出来ない状態のまま、無意識で叫んでいた。
それがハニーを突き動かす全てではあるのだが、如何せん言葉が足りなくて答えになっていない。
もちろんアシュリに理解できるはずもなく、色を失った繊細な顔が曇り、眉に陰りが生まれる。
「分からない……。私は死の天使。なのに、何故逃げない?今まさに私はお前に襲いかかるかもしれないぞ?武器は大鎌だけではない……」
地面に転がった、先ほどまでアシュリを石の壁に縫い付けていた短刀に視線を漂わす。
そのまま視線を伏したまま、言葉を続ける。
鈍い銀色の光を放つ刃越しにハニーを見つめているアシュリは、その歪んだ残像にハニーの真実を求めているようだった。
「指が無くなろうと、それこそ手首がもげても、私はこの短刀でお前を傷つけることは造作もない。私は死の天使と呼ばれる異端審問官だ。異端を裁き、死を与える存在。そして、お前を狩る為にここにいる――――」
まるで自分に言い聞かせているような口ぶりだ。
彼女が敬愛してやまない教皇聖下の言葉は絶対だ。
それが真実であるのは、アシュリ自身よく理解している。
なのにあえて今、それを言葉にしたのか。
目の前の女王自身、アシュリが何故ここにいるのかよく知っているはずだ。
森で一度大鎌を向けたこと忘れている訳がない。
森で一度出会ったからこそ、この地下の回廊で相見えた時、女王はアシュリに恐怖していたのだから……。
アシュリ自身、何故、敵である女王相手に自分の使命を確認するようなことを言っているのか理解できなかった。
ジンジンという激しさと狂ってしまうほどの熱さが体中の血管という血管を巡る中、それ以上の激情がアシュリの脳裏を覆い尽くしていく。
自分は何故、死の天使としてここにいるのか。
何故、血に濡れた女王を狩らなければならないのか――。
それは今まで、人の命令に疑問を抱いたことのないアシュリにとっては自分自身すらも否定しかねない、危険な命題だ。
でも、その複雑怪奇な解の先に何があるのか、アシュリは知りたいと思ってしまった。
使命の実現以外、何の感情も、欲も、生きる目的さえも見出せない少女は、奇妙な自分自身に落ち着かず、焦がれるほど眩い金色の瞳から慌てて眼を逸らした。
その視界の端で、柔らかい金色がふわりと瞬いた。
「わたしは血に濡れた女王。真実を明らかにするためにここにいる」