血に濡れた女王10
少年を抱き締めたまま、ハニーは隻眼の青年に厳しい眼を向けた。
彼はハニー達を狙う狼を撃退した命の恩人だ。
だがハニーに向けられた蔑む視線を感じてもなお、手放しに恩人だと歓喜する程ハニーを包む現実は穏やかではない。
串刺しになった狼を挟んで相対したまま、二人は言葉なく見つめ合った。隻眼の青年は悠々とした態度で腕を組み、その痩身を広間の壁に預けている。
まるで虫けらでも見ているようなその眼の色にジリッと首筋が疼いた。
(なんて冷めた眼なの)
隻眼の青年の瞳は深遠の闇よりなお深い、曇りなき黒曜石の輝きを湛えていた。その冷酷な瞳がハニーの身を凍りつかせ、身震いさせた。
彼の足元で卒なく控える影すら禍々しい気配を纏って見える。
(あれは人殺しの眼……。狼を殺すことに何の躊躇もないように、わたしを殺すことに何の迷いもない)
濡れたように美しい黒髪は無造作に後ろにかきあげられ、まとまりきれなかった幾筋もの髪がはらはらと形のよい額にかかっている。
氷の華のような美貌、怖いほどに美しい姿。
その面立ちは一見女性と見まごうばかりの繊細な優雅さを秘めている。猛々しい騎士というより柔和な貴族然とした容貌だ。
だが、彼が纏う触れれば千切れ飛んでしまいそうな空気はまったく別物だ。白皙の顔の真ん中にある瞳は金剛石のように強烈な煌めきを放つ。研ぎ澄まされた絶対零度の美と妖しく心をかき乱す麗が完璧な姿でハニーの目の前にある。
彼はその艶やかな顔に好奇を浮かべ、じっとハニーに眼差しを注ぐ。
青年は軽く遠出しに来たような軽装だった。姿形、服装、その優美な態度さえもハニーを追う他の騎士達とは一線を引く。
黒い詰襟の服を着、その上に黒いマントを羽織っている。マントの右肩には先が花のように開いた赤い十字架が大きく染め抜かれていた。
(あっ…あれは聖十字騎士団の紋章……そして黒に赤の花十字は……聖域にいる限られた司教だけが羽織れる特別なもの)
その紋章に目を見張った。
国ごとに羽織る色が違うが、その肩に染められる紋章は同じだ。
聖十字騎士団とは、唯一の神に害をなす蛮族に共に立ち上がる為、聖域にいる教皇の呼び掛けにより各国から召集され結成される騎士団のことだ。
初めて結成されたのはもう六百年も前になる。それ以来この騎士団は神の栄光を恐れぬ者や異教の民との戦いの為、幾度となく結成された。
大陸に居並ぶ列強の国々も聖域の決定には非を唱えることなどできない。聖域がこの世界の秩序で、全てだ。
ハニーは元々大きな瞳を零れ落ちそうなほど見開いた。
声にならない驚愕に、ハニーはただただ相対するその青年を見つめるしかできない。
ここに聖十字騎士団の紋章を背負った者がいるということは即ち、ハニーは聖域から神に害をなす存在と認められたということだ。
そう、今ハニーを追っているのは自国の騎士だけではない。聖騎士団のシンボルである花十字を掲げる者全てがハニーを狩らんとしているのだ。
「お察しの通り。俺は聖十字騎士団の一人だ。……しかし俺はただ数だけ集められたような、お粗末な騎士団の者じゃない」
青年はくっと乾いた笑いを洩らした。禍々しい黒の瞳が血に濡れた女王を侮蔑するように細まる。
広間には相変わらず色褪せた光が降り注ぎ、雄大な時がゆったりと流れていく。それがじれったく、妙にもどかしい。
ハニーはごくりと喉を鳴らした。無意識に少年を包む腕に力が入る。
けぶる光のカーテンが幾重も重なる向こう――狼よりもまだ深い闇を纏う男の言葉をただ静に待つ。
薄い唇から紡がれる声は朗として高らかに古の広間に響いた。まるで迷える羊を導く指導者のように穏やかに、ハニーに死を宣告する。
「俺は教皇直属の異端審問官だ」
「教皇……直属。それって……」
教皇は聖域の頂点に君臨するもの。
聖域が世界の旋律を奏でているのならば、教皇はその中心で指揮を執る要だ。その存在なくして音は調和しない。調和のない音はただの混沌だ。
闇の中から民を導いた神の子ユーティリア。彼の亡きこの世で彼に代わり、秩序を見出せる数少ない存在が聖域であり、ひいては聖域の要である教皇が担っているのだ。
その一番神に近い存在が一番の信頼を置いていると謂われる直属組織の異端審問官。
「そう。ただの異端審問官ではない。審判を行う権利と共にその罪人を速やかに裁く権利を有する数少ない異端審問官。俗にいう死の天使だ」
(死の天使!)
死の天使は言葉とは対照的なほど優美な笑みを浮かべて、ハニーに現実を突きつけた。
突如、足元が崩れ落ちる。今まで自分が当たり前に歩んできたもの全てが意味を失い、瓦礫と化す。必死に掴まり、抗い、でもどうすることもできない。
ハニーは愕然と目の前の異端審問官を見つめた。
死の天使と呼ばれる異端審問官がいることをハニーも知っていた。
元々異端審問官とは、聖域とは違う見解を持つ危険思想者を審判にかけ、審議する者のことだ。
だが教皇直属の異端審問官は死の天使と呼ばれ、教会によって保たれている世界の均衡や法の秩序に仇をなす者全てを神の名の下に速やかに裁く権利を持つ。審議の場も償いの機会もあたえず、死をもって罪を購わせる冷酷な死の執行官なのだ。
噂でしか聞いたことのない死の天使の存在に目の前が歪んだ。
(そんな……)
異端を裁く権利がある彼が今この場にいるということ――――それが答えだ。
神の代弁者がハニーを世界の敵と認めたのだ。そう――ハニーは全てから見放されてしまった。
もう、言葉も出てこない。絶望が嘲笑を上げてハニーの肩を掴んだ。
隻眼の異端審問官は愉悦に浸っているのか、冷たい笑みを浮かべてただただハニーを見つめるのみ。ハニーの命をその手で転がすように焦らす。
薄ら嗤いを含んだ視線がハニーの心を更に逆撫でた。その顔は嗤っているのにどこまでも冷めていて、感情の欠片が何一つ感じられない。
異端審問官は自らの形の良い唇をゆっくりとなぞると、その口を開いた。
「いい加減、鬼ごっこにも飽きた頃だろ?」
その凛とした声が切っ掛けだった。その静かな呟きを飲み込むように、暗闇の通路を駆ける音が押し寄せた。
二つ、三つではない。
轟音となった幾重にも重なる足音、ガチャリガチャリと擦れる鎖帷子と甲冑の音がハニーの命の灯を揺らすカウントダウンを始める。
刻一刻とその時は近付く。暗闇のトンネルの向こうから荘大なレクイエムが聞こえる。
迫りくる死の足音に、彼女は固唾を飲んだ。
この運命からはどう足掻いても逃れられない……!!
辺境の地の若き女王。
悪魔と呼ばれ追われる身となった女王の決死の逃亡劇はまだ始まったばかりである。
彼女の行く先に待ち受けるのは天使の頬笑みか、それとも悪魔の嘲りか―。