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潰えた絆4

 壁越しに、向こう側の温度が下がった気がした。

 息を飲む音と衣擦れの気配にする。

 きっとエルが一歩後づさったのだ。

 お互いが見えなくても触れ合う石越しに思いを伝えあっていた二人に別れの時が来た。

 もうハニーにはエルの気配が分からない。


(それでいい。どうか、わたしの心ない言葉に傷ついて、早くこの場を去って。あなたはわたしの希望なのだから!早く!)


 気配の感じなくなった向こう側に焦りばかりが先走る。

 エルはハニーの言葉を受け入れたのか、それともまだここに留まっているのか。

 どうかこれだけは受け入れてほしい――そう神に祈らずにはいられない。

 この深い地底から、どれだけ天上の楽園が離れているか見当もつかない。


(でも、これだけは!!!)


 ハニーは祈るように叫んだ。


「エル!命令よ!早く行きなさい!……お願いだから、わたしの言葉を聞いてぇぇぇぇ」


 最後に零れたのは、偽りなき本心だ。

 掠れる吐息は立ち込める土煙りに飲まれてしまった。

 エルにまで届いたか分からない。

 だが、それがタイムリミットだ。

 運命のルーレットは待ってなどくれない。

 カツン――硬質な音が場に静寂を齎す。立ち込めた土煙りが不意に薄れ、終焉の時を告げる。

 動きを止めたルーレットからちんけな球が転げ落ちた。

 人一人通れるのがやっとの地下の回廊。

 天井は低く、湿気った黴臭い空気が立ち込めるそこは、人のいる場所ではない。

 その回廊をまるで自分の領域だと言わんばかりに黒衣の少女が堂々と足を進める。

 もしかしたら彼女は人ではないのかもしれない。

 感情や生気など一切感じさせない、凍りついた瞳がハニーを射抜く。


「ご機嫌よう。女王陛下―――。またお会いできて光栄だ。お前を地獄に送れる栄誉を得たのだから………」


 足音同様固く引き結ばれた声に、ハニーは総毛立った。

 死の天使は大鎌を片手に握り、悠々とこちらにやってくる。

 その儚げな美は初めて出会った時となんら変わりない。

 今にも砕け散りそうな、危うげな強さを孕んだ瞳が逸らされることはない。

 その足が不意に止まる。

 彼女とハニーの間には、十数歩の距離があった。

 それが大鎌を操る彼女の間合いなのかもしれない。

 ハニーに息つく間も与えず、アシュリは悠然と大鎌を構え、その首を擡げた切っ先をハニーの方へと向けた。


 遂にその時が来た。

 死の天使が宣言通り、ハニーを地獄に誘わんとしているのだ。

 アシュリにとって、ハニーを殺すことなどあまりに簡単なことだろう。

 アシュリがその大鎌を振り上げ、一歩踏み出すだけでハニーの喉元は大鎌の腹の中だ。

 後はゆっくりとその手を引くだけで、ハニーの首から鮮血と共に頭が飛ぶ。

 それは数刻後の自分の姿である。

 そうと分かっていても、ハニーは現実として受け入れることができなかった。

 無謀と分かっていても最後まで迫りくる死に抗い続けよう。

 そう自身に言い聞かせ、差し迫る運命をなんとか切りぬこうと眼光強く、アシュリを睨みつめた。


「アシュリ………」


「名を覚えていただいて光栄だ。だがもう直に、そんな些細なことなどどうでもよくなる」


 アシュリはキンッと冴えかえる大鎌の刃を翻した。それは闇夜に輝く下弦の月のようだ。

 その冷やかな月の中に歪んだハニーが映り込む。それは真実を映し出す鏡なのかもしれない。

 今にも泣きそうで、それでも泣くのを懸命に耐える、ちっぽけな乙女がそこにいた。


「何故――……わたしがここにいると分かったの?」


 何の時間稼ぎにもならない。

 そんなことは百も承知だ。

 だが、聞かずにはいられない。

 この会話の間に、何か勝機を見つけなればならない。

 焦る思考を何とか落ち着かせ、ハニーは忙しなく視線を漂わせた。

 アシュリは律義にハニーの問いに答える。


「理由はない。勘とでも言えばいいのか。女王は必ず城に帰還する。森で見たお前を思い出した時、不意にそう思った―――今、その勘が正しいことを理解した」


 一歩アシュリが歩を進める。

 ジャリッと床に降り積もった塵を踏みにじる音がした。

 抑揚ない瞳はじっとハニーを見つめたままだ。

 そのまま音もなく大鎌を振り上げる。

 ハニーは鈍く輝く刃に目を奪われた。

 美しいと思ってしまった。

 しなやかな弧を描く鎌に圧倒され、無意識に喉を鳴らす。

 ただ本能は、死の恐怖を感じているのか、進みようがないのに後ろに下がろうとする。

 固い石の壁に背中がぶつかり擦れてもまだ、後ろに下がろうと食い下がる。

 もう来ないで――引き攣る喉から声なき叫びが漏れる。

 だが、狭い回廊に響いたのは、喉を引き攣らせた嗚咽のみだ。

 そんなハニーにアシュリが更に一歩踏み出した。薄い唇で抑揚なく宣言する。



「もう話すこともない。来るべき時まで神の温情を願い、冷やかなる死の淵に落ちていろ――……………」


 アシュリが駆けた。

 電光石火の勢いだ。

 こんな暗闇の中、何故こうも全力を出し切ることができるのか。

 うねり声を上げる風の中で白銀の刃が鈍く輝く。


(このままじゃ、全て終わってしまう……このままでいいの?ハニー……でも、このままじゃ確実に………)


 アシュリが迫るにつれ、ハニーの思考は混乱を極める。

 そんな頭がまともな答えをはじき出す訳などない。

 アシュリと距離が近くなればなるほど、心臓は張り裂けそうなほど暴れ出し、体中の血が引いていく。

 もう後はない。

 そう現実を受け止めた瞬間、一際大きく心臓が跳ねた。

 恐怖にではない。

 その後に訪れたのは諦めでも現実逃避でなく、驚くほどまっさらな自分だった。


(どうせ失う命なら………)


 咄嗟にそう思った。

 ぐっと奥歯を噛みしめると、そのまま迫りくるアシュリを睨みつける。

 大きな鎌の刃はもうハニーの脳天目がけて振り下ろされん場所にまで差し迫っていた。

 旋風を切り裂き、アシュリの鎌が襲いかかる。

 その前にハニーも行動に出ていた。


「ぃぃぃいいいぁぁぁああややややややややぁぁぁぁぁぁぁ……………」


 どうせ失うなら、止まったまま諾々と現実を受け止めてやるものか。

 もがいて、最後まで前に進んで、骨が折れても、血が滴っても、腕が飛んでも、足が捻じれても、それでも心の動く限り、運命に抗い続ける。

 限界を超えた先しか、まだ見ぬ未来はない。


(わたしはエル達と永遠の別れをしたくて、ここに残ったんじゃない。もう一度、出会うためにここにいるっ!!)



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