潰えた絆3
あまりの衝撃に、ハニーはバランスを崩してその場に蹲った。
地面が液体の様に弧を描いて揺れ、ハニーの根幹全てを揺さぶられる。
何とか震動に耐えたハニーは自分の進んできた方に視線を向けた。
濛々と立ち込める土煙りの向こうに黒い影が揺らめく。
激しく高鳴る鼓動が迫りくる恐怖に制御不能になっている。
だがそんなことはもう慣れっこだ。
どれだけ体が凍りつこうと、息が詰まろうと、生きていることに変わりはない。
ならば、成すことは同じだ。
自分を叱咤し、大きく息を吸う。
勢いのまま土煙りを吸いこんで、激しくせき込んだ。肺まで地下の腐臭に侵されていく。
だが肺が腐ろうが、腕が捥げようが、もうどうでもよかった。
我が身が傷付く以上に、壁を隔てた彼が傷つくところを見たくなかった。
ハニーは固く閉ざされた壁の向こうに聞こえるように叫ぶ。
「早く行って!あなた達がわたしの希望!わたしは絶対に生き残る。だから先を進みなさい!」
涙の代わりに血が流れていくような気がした。
どこかを切ったのか、口の中で錆付いた鉄の味が広がった。
閉じられた石の壁に背を預ける。
石の向こうからは何の気配もしなかった。
ハニーの意思を汲んで、ラフィが通路の先を進んでくれているのだろう。
そう思うと僅かに安堵が広がり、肩の力が抜ける。
今は見えない先にいる彼らの無事を祈るしかできない。
「お願いよ。あなた達が全てなの……」
切実な思いが込められた呟きだった。
その悲痛な祈りの声をかき消さんと大鎌が空を激しく切り裂く音が回廊を震わす。
少しでもは距離を取ろうと冷たい石の壁に背を添わせた。
ハニーの進む道を奪った壁が、俄かにハニーの体温をも奪っていく。
それでもハニーは冷やかな感触に不思議な安堵を覚えた。
(これでラフィ達は無事だ。後はわたしがなんとか生き残らないと………)
これは強がりだろうか。
ならば自分らしくていいのかもしれない。
怯えているばかりなど、天の邪鬼な自分には似合わない。
だが、不意に彼女の心にさざ波がたった。
「ハニィィィィィィィィィィィィィィッィィィイイイイイィィィー!!僕の名を呼んでぇっっっっっ!!!」
慣れ親しんだ声はまるで心の奥に刻まれているかのように、ハニーの胸の中で反響する。
いつもはハニーに穏やかさと優しさと、少しばかりにときめきを与えるその声が常になく緊迫して耳朶に響く。
研ぎ澄まされた神経がぶれた。
この声を今聞くなど思いもせず、注意力が散漫になる。
弾かれたように後ろ振り向いても、そこにあるのは何者をも通さぬ冷え切った石の壁だ。
背中越しにエルが石の壁を叩いているのが分かった。
細かな震動がハニーの胸を揺さぶる。
「ハニー!お願いだ。僕を求めて!名前を呼ぶだけでいいんだ。一度でいい。エルと呼んで!!」
「何をしているの?早く行きなさい!」
厳しい叱責の声を上げる。
(お願いだから早く安心させて!)
声にならない叫びに血が混じる。
喉が裂けて叫びたい言葉が形にならない。
それでも訴えずにはいられなかった。
いくら壁があるから大丈夫と言っても、それは時間の問題でしかない。
背を壁に寄せ、ハニーはエルに叫び続けた。
早く逃げてくれ。
ただそれを聞き入れてくれるだけでいい。
なのに、エルは頑なに受け入れない。
分かってほしいのに何故受け入れられないのだろう……それがハニーは悲しかった。
「なんで………逃げて………」
呻くように零れた言葉と共に、金色の瞳から清浄な雫がつぅっと流れた。
ハニーの頬を優しく撫で、顎をなぞり、そのまま雫は冷たい床に吸い込まれていく。
床にぶつかり雫が弾けた。
そしてそれと同時に、カツンッと石の床を叩く硬質な音がハニーの耳元に響く。
「やっと見つけた―――血に濡れた女王………」
鈴の音のように愛らしくも、まったく感情のない声がすぐ側でした。
ハッと弾かれたように視線を前に向ける。
その存在を忘れたいとは思っても、忘れることはできなかった。
闇の中で漆黒マントが金色の瞳を覆うように揺れる。
その中で一際目を引くのが鮮やかな赤の花十字。
それは限られた者のみが纏うことを許された、特別にして栄誉ある色―――絶対不可侵の聖なる国から来た者の証だ。
「……ぁ……アシュリ…………」
ついに迫った死の天使の、息の根をも止める死の囁きにハニーは戦慄した。
耳ではなく、脳に直接語りかけられているような感覚に、体が麻痺して自由が利かない。
後の壁に背を預けたまま、ハニーは前に迫ってきたアシュリを見つめた。
それ以外どうすることもできない。
紺の長い髪を揺らし、儚げなアイスブルーの瞳が無感情にハニーを見つめている。
足首まである長いドレスの裾をはためかせ、片手に大鎌を抱えた彼女は、死神そのものだ。
「ハニー!お願いだから、僕の名前を呼んで。僕を求めて!!それでいいんだ!!早く!!」
背を預けた壁越しに逼迫したエルの声が聞こえる。
さっきまであんなにも近くで聞こえたのに、今は繭で覆われているように頼りない。
遠くからくぐもったように聞こえる。
それでもハニーは壁越しでも今エルがどんな顔でどんなことを考えて叫んでいるか想像に難くなかった。
あの愛らしい顔を悲痛に歪め、ガムシャラに叫んでいる姿が背中を通じて見える。
その痛い気な気持ちに胸の奥が熱くなる。
どれだけエルが幼くても今の状況がどれだけ危険か分からない訳がない。
それでも自分の安全を引きかえにハニーを助けんと小さき子がなけなしの努力をしているのだ。
これほどまでに深い思いをぶつけられたことがあっただろうか。
だが、応える訳にはいかない。
ハニーは前を見据えたまま、力の限り叫んだ。
「あなたを呼ぶ名はないわ。もうあなたとここで話すことはない!!わたしはあなたを必要としない!だから、先に進みなさいっ!ねぇ分かって!わたしの愛しい天使っ!!!」
壁の向こうで小さな気配が身じろぎした。
微かな息遣いを空気越しに感じた。
ハニーは壁に背を預けたまま、思いを伝えるように冷たい石の一つを撫でた。
きっと、同じようにこの石に縋りついているエルの頭を撫でるように、優しく手が石の壁を添う。
放っておけばこの子は、その小さな手を血だらけにしてでもこの石を抉ってこちら側にやってこようとするかもしれない。
小さな子どもがそんなこと出来るはずない。
それは常識で考えうることだ。
だが、エルなら当たり前にその方法を選び、そしてやり抜いてしまう。
そんな気がした。
それだけは阻止しなければならない。
エルを巻き込むためにあの仕掛けのレバーを引いた訳じゃない。
ハニーの覚悟はそんな未来を想定してなどいない。
ハニーは思い通りにならない現実が導く最悪の未来を打ち消さんと激しく顔を振った。
赤い髪が嵐のように闇をうねくる。それは生の躍動だった。
「早く!わたしはもうあなたの顔も見たくない!早くここを去りなさい!わたしが望むのはそれのみ!従いなさい!!」
「いやだよ、ハニー………。貴女の側以外僕の居場所はない。だって僕は…………だから………」
冷え切った石の壁越しのやり取りに、ハニーは胸を締め付けられた。
次第に尻窄みになっていく声が痛々しくて、これ以上聞いてられなかった。
今にも全てを投げ捨て泣き叫びたい。
うまくいかない現実。自分の意思に反して自分を求めるいたいけな少年の熱い思い。
全てがハニーの中で暴れて、ハニーの思考を乱す。
(でも、これじゃダメなのよ………)
常にハニーのことを一番に思ってくれた、心優しい少年は嘘などつかない。
誰よりも純真で、誰よりも真っ直ぐ、そして誰よりも一番にハニーのことを考える。
これは理想ではなく、事実だ。
そしてそれはハニーの望む未来を導かないことも分かっていた。
ハニーは彼に同じ立場の友人でいてほしいと望んだ。
彼がどれだけハニーの「命令」を乞うても、ハニー自身「お願い」以上のことを望んだ覚えはない。
彼はハニーの身分からかハニーの従者のような立場を望んでいた。
だがそれはハニーの本意ではない。
だが「命令」の一言で彼が退いてくれるなら、心を偽ってでも彼を突き離す術は他にない。
そしてハニーが確信しているとおり、エルはきっとハニーの「命令」には背けない。
最後まで言いたくはなかった。
だが、いつかこの言葉を口にする瞬間があるのだと、ハニーはあの神殿から朧げながら感じていた。
そして、今、その瞬間が訪れた。
「エル……言ったでしょ?これは命令よ?」