潰えた絆2
迫りくる戦慄に金色の瞳から光が失われていく。
だが希望だけは投げ出すものかと金色の瞳が険しく吊りあがった。
素早く視線を戻し、先の見えない前を見据えた。
遠ざかっていくラフィの背がある。
今はただ、その背を見つめる以外ハニーにはできない。
その背の脇でラフィに横抱きに抱えられているエルが見えた。
じっとハニーを見つめる青い瞳と視線がぶつかった。
何かを訴えかけるような瞳が深い闇の中で一際異彩を放つ。
光はハニーに無限の力を与える。
「………エル……」
焦燥に駆られた瞳が押し寄せる闇を跳ねのけた。無情な闇の中を燦然と輝く。
その視線の先で、ラフィが長く続く牢の群れを離れ、狭い角を曲がった。
(今だ!)
心で叫んだ。
同時にハニーは自分のすぐ側に設置された松明を支える黒い鉄の台に手をかけた。
台に組まれた薪が申し訳程度に赤く光っている。
細々とした炎のくせに、松明から散る火の粉がハニーの華奢な手を甚振る。
だが、焼け爛れそうな痛みさえ吹き飛んでしまいそうなほど、ハニーは緊張に身を高揚させていた。
ドクン――来たるべき時を前に鼓動が跳ねた。
ドクン――ハニーの中の熱き思いがその時を知り、暴れ出す。
ドクン―――………ラフィの姿が完全に見えなくなった瞬間、ハニーは余裕ない顔の中で、不敵な笑みを浮かべた。
「この城の仕組みを聞いていて、本当によかった。まさかこんな風に役に立つなんて……」
呟くが早いか、ぐっと腕に力を込めた。そのまま力の限り台を下へと引く。
石に根を張っているはずの黒い台がヒラヒラと朱色の火の粉を吐き出しながら、石の壁を滑り落ちていく。
一瞬、音も時も止まった。
後ろから迫る爆風も凪ぎ、松明の爆ぜる音すらしない。
ゆっくりと目の前を踊る炎をハニーは食い入るように見つめた。
宙に赤色の弧を描く松明が冷たい石の床に落ち――……跳ねた。
瞬間、ドンッと地を割るような衝撃が上からも下からも迫ってきた。
止まった時がその遅れを取り戻そうとするように、急速に動き出す。
ガシャンガシャンッとけたたましい音が回廊に響く。
圧迫されるような衝撃にハニーは思わず身を竦めた。
まるで天井が崩れ、この地下世界が崩壊していくような激しさだ。
このまま全て崩れて、全てが地下世界の配下に下っていくような、圧迫感がその場の空気すら奪っていく。
先ほどラフィが通り抜けた辺りで土埃がパラパラと降り落ちた。
それは今から起きる事象への前奏のようだった。
徐番から激しく駆けあがり、全力に奏でられるそれは激しく地を打つ豪雨のようだ。
床を跳ねる松明の火の粉を踏みこえ、ハニーは懸命に駆けた。
立ち込める土煙りを振り払い、その向こう側に行こうと足掻く。
傷に沁みる埃に目を細めた。
暗く、そして色褪せた狭い視界の中でも、何かが変わっているのが分かる。
ズズッと何かがずり落ちてくる音と共に、更に土煙りが濛々と立ち込める。
「なっ!なんだ!」
思わぬ轟音に驚いたらしいラフィが頓狂な声を上げた。
土煙り越しのラフィの姿がハニーにはひどく褪せて見え、まるで別世界にいるようだ。
まるで二人の間には越えられぬ壁があるように思えた。
だが諦めばかりを考える自分の思考に釣られ、足を止める訳にはいかない。
強張ったラフィの顔を見つめ、ハニーは渾身の力を込め回廊を駆けた。
(…………まだ、間にあうかしら?無理?でも………)
イチかバチかの賭けだった。いや、寧ろ初めから勝ちなど望めないほど愚かしい行為であった。
それは始めから操作した者が助からないように設計されているのだ。
操作した者は、迫りくる敵に最後まで立ち向かい、時間を稼ぐ。
残酷であり、しかし真に王家に殉ずる騎士の覚悟が生み出した勇壮な仕掛けである。
それでも命運を託さずにはいられない。
運命のルーレットに賭けたのは、己の命。
今まさにベッドは払われた。
激しく回るルーレットの上で、小さなハニーの命が転がる。
それは中身のない紙の球体のように、風に飛ばされ、振り回される。
それでもハニーは懸命に回るルーレットにしがみ付いていた。
ルーレットの中から落ちさえしなければ、結果は最後まで分からない。
息苦しさと引き攣る様な体の痛みに、どれだけ力を入れても失速してしまいそうになる。
膝ち力が入らず、今にも崩れてしまいそうだ。
だがまだ諦めるには早い。
そう言い聞かせてハニーがラフィ達の方に駆ける。
後ろから迫りくる死の天使。
前には重低音のうねりを上げて牙を剥く地下迷宮の門番。
他に逃げ場はない。
門番が噛みしめる牙の向こうにラフィがいる。
後少し。
後数歩の距離だ。
なのに――――………後一歩が届かない。
懸命にラフィ達の方へと腕を伸ばした。
同じように、通路の向こう側から駆けてくるラフィがハニーの手を掴もうと手を伸ばしてくる。
そのラフィに抱えられたエルは自分こそハニーを救うのだと言わんばかりに激しくその身を捻じっている。
今にもハニーの方へ飛び出さんとしている。
迫りくる石の壁がハニーの視界を一気に奪っていく。
石の壁は落ちるにつれその速度を増す。
伸ばした手がラフィに触れる、その前に石の壁は二人の視界を遮った。
あっという間にハニーの膝頭辺りまで迫りくる。しゃがみこんでも間に合わない。
「ま、間に合わな……」
目に見える落胆に駆ける膝から力が抜けていくような感覚がした。
急速に落ちてきた壁がハニーとラフィ達を隔てる。
薄汚れた石の壁とけぶる粉塵を見つめ、ハニーはぐっと歯を噛みしめた。
そして抱えていた宝剣へと視線を落とす。
どんな環境にあろうと輝きを失わない暁の獅子の輝かしい瞳がハニーをじっと見つめていた。
その獅子の瞳にそっと口を寄せると、ハニーは宝剣を素早くその隙間に投げ捨てる。
間一髪―――。
石の壁の僅かな隙間を縫って、宝剣が隔てられた向こう側へと滑って行く。
僅かな隙間をすり抜けた宝剣が遠くでキラリと輝きながら跳ねる。
カランカランという乾いた音が妙に耳に付いた。
「早く先を進んでっ!」
もう、閉じかけた壁の向こうは見えない。
ハニーは耳の奥に響く重低音に負けじと声を張り上げた。
ゴゴゴゴゴゴゴッ―――と体の芯に響く重低音の中、ハニーの甲高い声が駆ける。
だが、すぐに立ち込める土煙りと衝撃に飲み込まれてしまった。
ハニーの視界はもう闇に解けた茶褐色の煙しかない。
「何、ふざけたこと言ってんだっ!」
切羽詰まったラフィの声がひどく近くに感じた。
だが、すでにハニーとラフィ達を遮る石の壁はお互いの声を遮るほど迫りつつあった。
もうハニーには進む道がない。
しかし、それでも生まれいずる太陽ほど眩しい金色の瞳は、希望を失っていなかった。
迫り落ちてきた壁に背を向け、使命に殉じる騎士のごとき貴き眼差しで差し迫る敵を迎え撃たんと佇む。
人は私利私欲を捨てた時、どこまでも強く、そして高潔な存在になる。
鳴りやまない轟音の中、ハニーは力の限り叫んだ。
「早く行ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
ズドンッと身を震わせる音が地鳴りとして響き、地下牢すら木端微塵になるほどの衝撃が足先からハニーの体を駆けのぼった。