女王の帰還5
キャメルとハニーの再会のやり取りを黙って見つめていたラフィとエルの顔もに緊張が走る。
どうやら二人のやり取りに貰い泣きをしていたらしいラフィが慌てて目頭を自分の薄手のシャツで拭うと、唸り声のした方へと顔を向けた。
驚くハニーらと違ってキャメルは落ち着いたものだ。
ハニーに落ち着かせようと、大きく頷いてみせた。
「姫様、ご安心ください。あれも捕らわれた哀れな者です。昨夜、ここに運ばれてきました」
そう告げて、自分の横の壁を見つめるキャメルは痛々しそうに目を伏せた。
壁の向こう側など見通せるはずはない。
だが彼女には横の房に囚われた者の苦しみが見えるのだろう。
「彼が何者か私にも分かりません。ただ満身創痍で、意識もなくここに運ばれたことは確かです。どうやらかなりの暴行を受けたようで、ずっと魘されたように呻き声をあげるのです」
「………おじょ……さ………」
唸り声が意味を成して、闇に響く。
ハニーはビクリと身を震わせた。
その声に聞き覚えがあったのだ。
だが、その声をここで聞くなど思いもせず、すぐに現実と受け入れることができなかった。
だが居ても立ってもいられず、ハニーはキャメルのいる牢を離れ、隣の牢へと駆け寄る。
ガシャンと勢いよく鉄格子を掴んだ。
その中を見つめ、ハニーは言葉を失った。
そこにいたのは、ずんぐりむっくりした男だった。
息も絶え絶えといった様子で、石の床に身を横たえている。
「おいっ、ハニー。どうした?」
慌ててハニーの側に寄ったラフィが心配げにハニーの肩を掴んだ。
しかしハニーは何も言わない。
ただ息を潜め、目の前のものを信じられないとばかりに見つめるだけだ。
ハニーは混乱していた。
ラフィに肩を掴まれていることすら分からないほどに。
ハニーは分からなかった。
何故この者がこんな場所にいるのか。
何故こんなにも体全体に傷を負っているのか。
「……なんで……なんでこんなことに…………」
そう呟くのが精いっぱいだった。
知らない訳がない。
ウォルセレンの馬丁をしている男だ。
名前も知っている。ロロンだ。
だが今の彼は彼女が知っている顔ではなかった。
目も当てられないほどに腫れた顔は人の物とは思えない。
粗末ながらもしっかりした着衣は至るところが破け、もう服と呼べないほどだ。
それ以上の傷を体中に追い、彼は生きているのもやっとな姿である。
「………おじょさん~………に、逃げるのね~」
彼は繰り返し、繰り返し、それだけを呻き続ける。
彼は今正常な精神状態ではないのだろう。
意識もないまま、まるで壊れたぜんまい仕掛けのおもちゃのように、それだけを言い続ける。
「ロロン………」
ハニーは体中から力が抜け、その場にうずくまった。呆然と鉄格子の向こうを見つめる。
まさか遠い地ウォルセレンで馬丁として幸せに暮らすはずだった彼すらも自分の運命に巻き込んでしまったのだ。
そう思うと、もう立つこともできなかった。
込み上げる嗚咽を必死に押し留める。
だが抑えきれない感情がハニーの体から溢れ出んとして、その身を震わせ、考える余裕を奪っていく。
「おじょさん~ロロンはいいから、早く逃げるのね~あいつが……化け物がくるのね~……」
そう言う彼の意識はない。
もう大丈夫だから……その一言を伝えたいのに、どれだけ涙を流してもハニーの声はロロンには届かない。
涙の滲んだ金色の瞳を彼に向け、ハニーは力の限り叫んだ。
誰かが聞き咎めてここに来るかもしれない。
でもそんなことなどどうでもよかった。
この哀れな馬丁の心に届くならば、彼の心を占める不安を取り除けるならば、なんだってよかった。
「大丈夫よ!もうあなたに危害を加えるものはいないわ。あなたのおじょさんは無事よ。もう心配はいらない。だから……今は自分のことを一番に考えて……お願いよ……もうあなたにも誰にも傷ついてほしくないの!だから!!」
「……おじょさん、無事……」
ずっと呻いていたロロンがふと表情を緩めた。
ハニーの言葉が彼に通じたのか、はたはた疑問であるが、それでも彼はホウッと息を吐いた。
「おじょさん、無事……よかった………おじょさん、ロロン、約束を破ってないのね。おじょさんが帰ってくるまで、おじょさんから預かった剣を守ったのね………」
そう弱々しく呟くと、ロロンの体からガクリと力が抜けた。
「ロロン!!」
鉄格子に駆け寄り、ハニーは必死に手を伸ばした。
ガシャンガシャンと鉄の震える音が無音の闇に広がる。
どれだけ手を伸ばしても届くはずがない。
牢の奥に横たわる彼とハニーの前には僅かに届かぬ空間があった。
だが無駄と分かっていても、哀れな馬丁に駆け寄らずにいられない。
誰が傷つけたのか、誰が彼を弱き者と蔑むのか。
ここにいるのは誰よりも強い意志を持った、ウォルセレン王女の騎士だ。
彼は王女の命を忠実に受け止め、どれだけ嬲られても腕に抱く命を手放しはしなかった。
その姿がさらにハニーの心を締め付ける。
「大丈夫だよ、ハニー。ただ気を失っただけ」
優しく後ろからハニーを抱きすくめると、エルは静かな声色で語りかけた。
その声が高ぶるハニーの心にじんわりと広がる。
ハニーの視線の先、やっと緩んだロロンの腕から何か眩いものが転がり落ちた。
それはウォルセレン王国の紋章は設えた宝剣だった。
極彩色に彩られ、数多の宝玉が埋め込まれ、ウォルセレンの象徴たる暁の獅子が描かれている。
それは彼の敬愛する王女殿下が彼に託したものだ。
彼は使命を全うしたのだ。
もうこの宝剣を抱く必要はないと判断したのだろう。
膨れ上がった顔は、とても満足げだった。
「ありがとう。あなたは十分に役目を果たしたわ。後はゆっくり休んで、そして傷が癒えたら、あなたの勇気にちゃんと感謝を述べさせて……」
涙ながらにハニーはロロンの勇気を讃えた。
本来ならこんな言葉では足りないくらいだ。
ハニーの声など聞こえるはずのない深い意識の底に沈んだロロンが嬉しそうに口の端を上げたように見えた。
ハニーはぎゅっと羽織ったマントの縁を掛け合わせるように握りしめた。
ずっと自分一人だけで戦っていたように思っていた。
だがそれは間違いだ。
彼女の知らぬところで、皆が痛みに耐えて戦っていた。
キャメル然り、ロロン然り……。
彼らの純然たる勇気がハニーの胸に更なる灯を与える。
(そうだ。わたしはずっと一人じゃなかったんだ……)
ここに来て、そんな単純なことに気付くなど、なんと愚かなのだろう。
だが泣いてばかりはいられない。
自分の為に傷ついた者がいるならば、その傷も自分が抱いていこう。
ハニーは涙に濡れた瞳を押し上げた。
闇に染まらぬ金色が闇を切り裂かんと輝く。
すうっと息を吸うと、ハニーは隣の房で不安そうな顔をしているキャメルに顔を向けた。
真摯な瞳には何の迷いもなかった。あるのは切なる祈りのみだ。
「キャメル、あなたはここから逃げて。そして、真実を外の世界に伝えて」