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血に濡れた女王9

「ああっ……」


 ハニーの口から無意識に絶望が零れた。

 破片は思いに反して明後日方向に飛んでいく。狼から遠く離れた広間の端に破片はぶつかり、カランと音を立てて床を跳ねた。

 無情に転がっていく音が広間に反響し、余韻を引いて耳にこだまする。

 万策尽きた。いたいけな乙女の祈りも聞き入れない神の采配に落胆せずにはいられない。

 強がった瞳が襲いかかる恐怖に染まる。


(助けて…。もう何でもいい。神だろうと悪魔だろうと…どうか………)


 どれだけ神に祈っても、こんな冥府の片隅からでは神の坐す栄光の国には通じない。そんなことはもうとっくに知っている。だが、それでも祈らずにはいられない。

 奇跡が起きるなら、全てを投げ捨てても構わない。今生き残ることができれば、この先どんな過酷な運命になろうとも何一つ恨むことなく、永遠に心から神に祈りを捧げて生きていける。


(お願いよ!助けて!!)


 来るであろう衝撃に備え身を固くした。

 少年を抱き締めるその体から急速に体温が奪われていく。なのに、胸の奥で業火が燃えさかっている。

 瞼に映る無二の親友は生き生きした麗しい姿を失い、血に染まり虚ろな顔をしていた。悲しげな瞳が血の涙を流し、ハニーを見つめている。

 微かな声が籠ったようにハニーの耳朶に響いた。


『お願いよ……』


 その言葉の続きをハニーは知っていた。その言葉を放った彼女が望むものを痛いほどに知っていた。

 なのに、その言葉に応えられずにいる自分がいる。


『どうか……私が…………その時は貴女が…………』


 旋風がその声をかき消した。

 空気を切り裂き、風が鋭いうねり声を上げる。キンッと空気を破壊し、突き刺す音が広間全体に響いた。

 その後はしんと水を返したような沈黙が広がる。

 ハニーの耳に聞こえるのは自分の鼓動の音のみ。側にいるはずの少年の吐息すら感じられない。


(何………何が起きているの?)


 自分を攫った運命の荒波が不意に彼女を遠く彼方へと手放した。

 宙を漂い、上も下も分からない。ただ、自分の預かり知らぬところで何かが起きたことだけは分かる。

 突如聞こえた不審な物音にハニーは警戒した面持ちで薄眼を開けた。

 そして、息を飲んだ。

 そっと開かれた瞳が捉えたのは深々と突き刺さった槍。その槍の先はおどろおどろしい赤に染まっている。そこはさっきまで狼がハニーを睨んでいた場所だ。

 ゆっくりと視線を彷徨わせ、槍の中腹にあるそれに戦慄が走った。喉から引きつった悲鳴が零れる。

 ハニーの見つめる先、狼が槍に串刺しになって、力なく佇んでいる。

 その双眸には生気が見られない。槍を伝って狼の血が白い床を真っ赤に染めていく。

 それはまるで無垢なものが闇に染まる瞬間のようだった。

 


「なん…で?」


 さっきまで生きていたはずなのに。生きてハニー達を食い殺さんばかりの勢いで襲って来ていたはずなのに……。

 力なく項垂れるあの黒い毛の塊が自分を狙っていた狼と同じものであるとはハニーには到底理解できなかった。

 自分が狼に投げたのは槍ではなく石の欠片だ。しかも遠く外れて、広間の端に転がっている。

 では何が狼の命を奪ったというのだろう。

 見開かれた金色の瞳は茫洋とし、ただ狼を見つめるのみ。


「………そそられるね。ずいぶん色っぽい恰好をしてるじゃないか」


 不意に降り注いだ、甘く硬質な響きを持つ聞き心地よい低音にハニーは弾かれたように振り返った。そして固唾を飲む。

 何故、今までその存在に気が付かなかったのだ。槍という武器を目にして、何故他者の介入を想定しなかったのか。

 いや、それでもこの広間にハニーと少年、そして狼を除いて他者の気配がなかったはずだ。

 だが今はどうだろう。

 ハニーの金色の瞳がそれを映し出した瞬間、射抜くような威圧感に潰されそうになる。静まっていた鼓動が警鐘を鳴らすように逸った。

 小馬鹿にした響きがハニーを焦燥に駆る。ごくりと喉を鳴らした。もう水分など体には残っていないはずなのに、それでも冷や汗が頬を伝った。

 ハニーの射るような視線の先、広間の出入口に佇むのは左眼に黒い眼帯をした若い青年だった。

 彼は薄汚れ、傷だらけで襤褸を纏ったハニーを上から下まで見下ろすと皮肉げに口の端を歪めた。

 それはあまりに美しく、そして酷薄な笑みだった。


「地に落ちた聖女か。この朽ちた神殿に似合いだな」


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