女王の帰還4
悲しげな声でエルが呟いた。
幼い声だが、誰よりも真実の重みを含んで、凛と闇に広がる。
その言葉に成程とラフィが顎をしゃくり、目を細めて前を歩くハニーを見やった。
彼にとってハニーはただのワガママな女の子でしかなかった。
だが、見つめるか細い背は、国民の為にあえて血の道を歩む心優しき女王の堂々たるものに見えた。
不安に苛まれる国民のために、あえて血に濡れた女王という噂を放っておいた。
姿なき恐怖に国民がパニックを起こさぬよう、不安を解消する術を与えた。
その裏で病の原因を探りながら、国民を癒すために自ら血に染まった女王の真実がそこにはあった。
「だけど、それは間違いだった!仮初の安心なんて、結局気休めでしかない。だから、わたしはその真実を全て国民に話すわ。この国に降りかかっている火の粉に気付かず、形のない悪魔に怯えているなんておかしい!」
ハニーは悔しげに唇を噛んだ。
この国の優しい女王が国民の為を思ってした行動が全て裏目に出て、今、エクロ=カナンは未曾有の事態に直面している。
お互いにお互いを信じられなくなった国など国として機能しない。
そこにあるのは猜疑心と不安とを綯い交ぜにした混沌だ。
あの日、伝染病解明の為に善意で協力してくれた侍女や家臣たちが女王と同じく悪魔崇拝者として捕えられた。
彼らはきっと女王を信じ、そこにある真実を口にしていないのだろう。
そんな悲しい矛盾が更にハニーの心を痛ませる。
誰も悪くない。
不安を紛らわせる方法を求めずにいられないのは、死という未来を知っている人間特有の、現実逃避の方法だ。
なのに、何故こんなにも胸が痛むのだろう。
どれだけ納得しようとしても、理解を拒む自分がいる。
泣きそうになるのを必死に耐え、ハニーは何もない闇に自分の目指す先を見つめた。
「だから、わたしは何としてでも真実を取り戻す……」
「そうだね。悪魔なんてこの世にはいないもの」
怒りに燃える瞳で暗闇を睨み、熱い決意に拳を握るハニーにエルが独り言のように呟いた。
それは世の理のように、静かに闇に広がった。
あまりにもさらりと耳の奥を通り過ぎた声にハニーは驚くように振り向いた。
そこにいるのは、変わらず優美な微笑みを浮かべる少年だ。
だがいつもと違って見える。
それは闇に覆われて、妙な陰影が付いている所為だろうか。
ハニーは何故だか不安に胸を締め付けられた。
「………エル、今、なんて言ったの?」
だが答えはない。
その代わり、微かな囁きが闇に広がった。
「……ぃめ……?」
彼女の問いに答えるよう、風がうねり声を上げた。
だが、その冷え切った音の中に僅かな温かさが含まれていることをハニーは聞き逃さなかった。
闇から弱弱しい光が漏れてきたかのような驚きにハニーは身を震わせた。
弾かれたように進むべき先に視線を戻す。
そこにあるのは、先ほどと変わらず深遠の闇のみだ。
しかし、ハニーは一目散に駆け出した。
無我夢中で闇を突き進んでいく。
赤い髪が必死に何かを求めるように揺れる。
前のみを見つめる瞳は、闇を照らす灯以上に眩い光を帯びて、暗い回廊に踊る。
螺旋の回廊の底まで行きつくと、左右に分かれていた。ハニーはより狭く、暗くなっている右へと進む。
「キャメル!いるの?返事して!キャメル!!」
形振り構っていられず、ハニーは力の限り叫んだ。
このまま喉が裂けようと構わなかった。
自分の思う相手に届くなら、このまま声が永遠に枯れ果ててもいいとさえ願った。
そんな彼女の思いに応えるように、さめざめと泣く風の音が、人の言葉を紡ぐ。
「……ぃひ……まぁ……」
狭い廊下は上から浸み出してくる地下水でぬるりとしており、気を抜くと足を取られる。
しかしそんなこと構ってられないとハニーは赤い髪を闇に靡かせ、その声の主を捜した。
何度も転びそうになった。
だがそれでも形振り構ってなどいられない。
記憶の底にある、柔らかい侍女の声が俄かに思い出され、ハニーは湧きあがる感情を押し殺して叫んだ。
応えてほしい。
ただその一心だった。
「キャメル!」
「姫様っっ!」
闇の中でその存在を誇示するように、その声は狭い石の廊下にこだまし、広がった。
暗い廊下を曲がった先にうっすらとした明かりが灯っている。
ハニーの目の前にはうっすらとした灯の側にある鉄格子があった。
冷たく陰湿な石の牢を閉ざし、内と外の世界を永遠に切り離していた。
頼りない明かりの下、その石牢は歪な陰影を帯びて浮かび上がる。
てらてらとした石は腐臭を帯びた地下水に濡れているのだと想像に難くない。
寒々しい石の床はひび割れ、圧迫感のある狭い空間。
そこがどこよりも劣悪な環境であると物語っていた。
その中で小さな影が蠢いている。
ハニーは居ても立ってもいられなくなり、その鉄格子に縋りついた。
闇に潤んだ瞳が闇の中で、その影の本来の姿を見つける。
大きな青い瞳を潤ませた女王の侍女が、呆然と鉄格子の中からハニーを見つめていた。
少しふっくらした愛嬌のある顔は真っ青になっている。
着ている灰色の、侍女のお仕着せは薄汚れ、ここに捕えられてから碌な扱いを受けていないのだと物語っていた。
冷たい石の床に座り込んだ侍女キャメルは信じられないとばかりに目を開き、突如現れた三人を驚きの表情で迎えた。
ハラハラと涙を流すハニーの手を握り返すとキャメルは、愛らしく微笑んだ。
その笑みには何の恨みもない。
ハニーが目の前にいることに安堵してもしきれないとばかりに青の瞳が潤んでいる。
自分の不運を嘆くどころか、ハニーと再び出会えた喜びに感謝しているとばかりにキャメルはハニーの手をぎゅっと握りしめた。
「よくぞ御無事で……」
キャメルは神に祈るように手を組み、押し殺したようにそう呟いた。
そのままハニーの存在を確かめるように伸ばされた手に頬ずりをすると、キャメルは視線を上げた。
ハニーの金色の瞳とキャメルの淡い青色の瞳が絡み合い、眩い希望の光を生みだした。
その神聖な光は誰にも遮ることはできない。
鉄格子越しに二人は手を取り合うと、言葉短にお互いの現状を伝えた。
キャメルはハニーと引き裂かれた後、そのままこの地下牢に捕らわれる羽目になったらしい。
城を出てからハニーは死と隣合わせに生き抜いてきたが、キャメルはずっと何もない闇の中で、自分を苛む飢えや不安や恐怖などの負の感情と戦っていたのだろう。
それでも常と変わらない頬笑みを浮かべる彼女はとてつもなく強い心の持ち主だ。
腕の立つ騎士よりも、内心に深い炎を灯す者の方が真実強いのかもしれない。
だからそこハールートも手を拱いていて、こんな場所に彼女を隔離したのだろう。
「キャメル!」
鉄格子から手を伸ばし、呆然としたキャメルの薄汚れた頬に触れた。
冷え切っていても、人の温かみが肌を通して伝わってくる。
ハニーは彼女が生きていたことへの安堵と共に、このような場所に一人閉じ込められた彼女の悲運に胸を締め付けられた。
彼女をここに追い込んだのは、誰でもない自分だ。
あの時、もう少し上手に立ち回れたら、彼女をこんな場所に一人残さずにいれたはずだ。
我慢していた感情がハニーの金色の瞳から溢れだす。
「ごめんね、わたしのせいで……」
「いいえ、何をおっしゃいますか。姫様が御無事で本当によかった……。あの朝共に馬車に乗れなかった我が身をどれほど悔いたことでしょう。なんという奇跡……またお会いできるなんて……」
本当は言いたいことがたくさんあった。
だが、今はどんな言葉も浮かばない。
しばらく二人は言葉なく、再会の喜びを分かち合った。
しかしこのままではいけないとハニーは涙でくしゃくしゃになった顔を拭き、懸命に女王らしい顔を浮かべる。
「キャメル……辛い思いをさせたわね。でも、それも今で終わりよ。今からは……」
ハニーがそう切り出した時だった。
「ぅぅぅぅぅうううううぅぅぅっぅぅぅぅううぅぅぅぅぉぉぉぉぉぉぉおおおおぉぉぉぅぅぅぅ……」
すぐ側で獣の唸るような声がして、ハニーは驚きに身を竦ませた。