女王の帰還1
「で……忍び込んだ訳だが、これから先どうするんだ?」
薄暗い地下の廊下に押し殺したようなラフィの声が響いた。
エルを挟んで前を歩くハニーの耳に届くかどうかの微かな声だが、狭いそこに反響し、やけに大きくハニーの耳に響いた。
ハニーはギョッとしたようにラフィの方を振り向くと、しっと口元に指を当てた。
「ラフィ!静かにしてっ!どこで誰が聞いているか分からないのよ!」
そう嗜めたハニーの声の方が甲高く、石の回廊にこだまする。
これにはラフィは目を剥くしかない。慌ててエルを越え、先を歩くハニーの肩を掴むと訂正にかかる。
「いやいや!君の方が大きいぞ!」
事実である。
だが、ワガママな女王陛下はそんか言葉を受け入れる訳がない。
ピシャリとラフィの手を振り払うとハニーは理解できないとばかりに、ラフィに蔑む視線を向けた。
金色の瞳に気圧され、ラフィは僅かに後ずさる。
「もうっ!ラフィ!静かにしてったら!エルを見習いなさいよ!この子はこんなに大人しく、文句も言わずに付いてきてるのよ?」
ハニーは呆れたようなラフィの言葉を一蹴すると、前を向き直った。
暗く、先の見えない闇を睨み、ハニーは毅然と言い放った。
「ここで全てを終わらせる。わたしはもう逃げないわ――」
ここはゼル離宮の地下にある、人一人通るのがやっとの、狭く、汚い石の回廊だ。
何所からか地下水が漏れてくるのか、じめっとした湿気と黴臭いすえた臭いを含んだ空気が立ち込める。
その回廊を照らすのは、僅かに灯った松明のみ。
ぼんやりと闇に浮かび上がった汚らしい壁がどこまでも下へ下へと続いている。
石の床を弾く足音がやけに高く響く以外、何の音もしない。
ただ時折、風が籠ったような音が地底から響く。
それは地に眠る獣の呻きのようであり、今にも目を覚まして襲いかからんとしているように思えた。
不快な音と先の見通せぬ闇にハニーは逸る気持ちを抑えながら、先頭に立ち、歩を進めていた。
三人がゼル離宮に忍び込んだのは、つい先ほどのことだ。
川岸から城の裏側に近付き、剥き出しになった半地下の通用口から入り込んだのだ。
朽ち果て壊れたそのドアは、もう誰の見向きもされていなかった。
まるで地獄の門を守る獣のような強情さで来る者を拒んでいた。
蝶番も取っ手も錆付き、もう何の役目を負ってこの世に存在するのかすら忘れているようだ。
どれだけ押しても引いても中々開かず、ハニーは業を煮やした。
「っっえいっっっっ!」
どれだけ難攻不落の門も女王陛下の足蹴に敵わないらしい。
呆気にとられるラフィと感心しっぱなしで拍手を送るエルの見つめる先で、錆付いたドアが縦に勢いよく開いた。
いや、開けるというよりも壊したという方が的確である。
しかし当の本人はそんなことは些細なことだとばかりに、扉に向けた足を一歩踏み込んだ。
「さぁ、行きましょうか?」
毅然と言い放つと、ハニーは更に回廊の奥に進んでいく。
もう蝶番も取っ手も何の役目も果たさなくなったそれは、どこまでも続く闇への架け橋のようだった。
歩く度に地に伏していた瘴気が立ち込め、重苦しい空気が絡みついてくる。
それはあのゴモリの森以上に不快感と嫌悪感を抱くほどに禍々しいものであった。
この先にあるものはまともではない。
肌に触れる空気がそう告げていた。
見通せぬ先を見つめ、ハニーはゴクリと喉を鳴らした。
だが先に進むことを一時でも躊躇する間はない。
ハニーは自分を奮い立たせ、自ら更なる闇に堕ちていった。
女王らしからぬ帰還方法である。
だが騎士団が陣を張る正面から堂々と入るなどできないから、背に腹は代えられない。
ハニーが睨んだとおり、内側はさしたる警備もされていなかった。
あくまでも騎士団の目的は森に逃げたハニーの確保だ。
誰も女王が自らの意思で戻ってくるなど思っていないのだろう。
外を向いた警戒心が内に向けられることはない。
こうなれば森の中にいるよりも、ハニーの行動の幅が利いてくる。
ハニーは勝手知ったるとばかりにずんずんと暗い先を進んだ。
その後ろを見慣れない光景に目をパチパチさせながらエルが続き、一番体大きいラフィが一番おどおどしながら最後尾についた。
エルは何も言わずハニーの後に従うが、エルよりも世の道理を知っているラフィはそうはいかない。
見慣れない城の、陰鬱な空気にビクビクと身を竦ませている。
「城に帰るのは分かったが、これはちょっと無謀じゃないか?お兄さん、これはいただけないな」
「しっ!静かに。いいから黙ってついてきなさいよ。奴らだって追っている女王がこんな所から侵入してくるなんて思ってないはず。だから大丈夫よ」
「その自信はどっから来るんだ?そして、どこに向かってるんだ、君は」
手探りで闇を進むハニーが信じられないらしい。
呆れかえってラフィがぼやいた。
ハニーが上ではなく、下へ向かって進んでいることが気にいらないのだろう。
何を好き好んで見つかれば追い込まれるだけの地下へ行くのか理解に苦しむといった雰囲気が、彼の言葉の端々に含まれていた。
地下に降りるにつれ、石は湿り、黴臭い臭いが鼻腔に絡まり付く。
肌に纏わりつく湿った空気が息苦しいものに変わっていく。
三人の不安を煽る様に、誰よりも大きいラフィの影がハニーの影を飲みこまんと蠢く。
おっかなびっくりと付いてくるラフィの不安を少しでも紛らせてやろうと、ハニーは前を見たまま、声を潜めて話し出した。
まるで木枯らしに耐えるような囁かな声が、陰鬱な回廊に物悲しい響きを広げる。
「この離宮の地下牢にね、侍女のキャメルが捕らわれている筈なの。わたしが捕らえられても彼女はずっとわたしをかばってくれてたの。その彼女が無事にいるはずはない………」
気持ちを落ち着かせようと、ハニーはそっと瞳を閉じた。
その瞼に浮かぶのは、最後まで自分を庇ってくれていた健気な侍女の姿だ。
『無礼者っ!この方を誰と心得ての狼藉かっ!!その穢れた手を離しなさいっ!!』
キャメルはあの日、血に濡れた広間でハニーが捕えられた時、この大切な命を無暗に奪われる謂われはないと毅然と言い放ち、集まった枢機卿らを圧倒した。
普段は穏やかな彼女が声を荒げるのをハニーはこの時初めて聞いた。
愛嬌のある円らな瞳をこれでもかとつり上げ、彼女は自分の命をも顧みず、血の海と化した広間の床に押さえつけられたハニーの元に駆けつけた。
そしてハニーを押さえる騎士達の手からハニーを救おうと懸命にもがいてくれた。
彼女の命すら顧みない行動のお陰で、集まった枢機卿らに困惑が生じたのは確かだ。
その戸惑いが今のハニーの命を繋いでいるのだから、全ては彼女のお陰である。
『姫様っ!お願いでございます!どうか心を強くお持ちください!必ずや私めが貴女様をお救いしますからっ!』
だが彼女の決死の行動空しくハニーは彼女と引き離され、翌朝の日の出と共にこのゼル離宮を離れることとなった。
最後までハニーのことを気にかけてくれていた彼女の悲痛な叫び声が未だ鼓膜に響く。
何かに耐えるように小さく息を吐くと、ハニーは前を見据えた。
薄暗く狭い石の回廊の角を曲がると、そこから先は螺旋状に下へ下へと続いていた。
まるで地獄の底に自ら堕ちていくような感覚がする。
何処までも続く闇に果たして行き着く先があるのか。
隅々まで知っているはずの城が急にまったく知らないもののように思えて、心許無かった。
先頭に立って突き進むハニーすらそんな猜疑心を抱いてしまうほど、闇は深い。
いくら灯があるとはいえ、そんな頼りない光が闇の深さを全て払えるはずがない。
だが、ハニーは前を見つめ続けた。
その眩い金色には怯えなどない。
自らの運命を諾々と受け止める美しき瞳は、闇をも打ち砕く勢いで燃えがっていた。それは強き信念の炎であった。
「キャメルを助けださないと……。わたしの身を確保できていない今、彼女の命を生かす方が色々有益でしょうから、きっと生きたまま捕らわれているはず。そして彼女を捕らえておくのなら、ここ以外考えられない」