約束の証12
二人まで自分の意思の弱さや暗い感情に巻き込んではいけない。
ハニーはそう自分に言い聞かせ、美しい瞳でゼル離宮を睨みつけた。
「あれが目指すゼル離宮よ!あそこでこの茶番を終わらせてくれるわ!だから二人ともそんな神妙な顔をしないで、全てが終わった後のことを考えてよ?ねぇラフィ、皆があなたの話を聞きに来るわ。エル、きっとあなたは素敵な両親と再会を果たして、幸せな人生を歩むはずよ……女性問題は除いて、だけど」
勝気な言葉が深い森に吸い込まれていく。
誰が聞いてもただの強がりだ。
でも、それでもあえて、その場の空気を変えるために、不安である自分に嘘を吐くハニーが二人とも愛おしくて仕方なかった。
エルは何も言わず、そっと視線をゼル離宮へ向ける。
複雑に絡み合った感情をどう表現していいか分からない、そんな顔で刻一刻と近づく城を見つめる。
反対にラフィはハニーの方を仰ぎ見ると、眩しくて仕方ないとばかりに目を細めた。
「そうだな」
「うん。そうでしょ?何があるかなんて想像しても分からない。なら、楽しいことを考えましょう………あっそうだ。ねえ、ラフィ!」
ハニーは何かを思いついたように声を弾ませた。
それが強がりの演技だと知っていて、それでもラフィはなんてことないように視線を上げて応える。
馬上から自分を見下ろしてくる美しく乙女は、これから待ち受けている苦難などまったく見せつけない、屈託ない笑みを浮かべて自身を見下ろしていた。
「アンダルシア人は噂好きなんでしょ?隻眼の異端審問官の噂って聞いたことある?」
ふと気になったことだ。
何か気を紛らわせる話に持って来いだと思ったハニーは何の気になしに聞いてみた。
本当のことを言うとずっと聞いてみたかったのだが、切っ掛けを掴めずにいた。
「隻眼の異端審問官?ああ、邪眼のサリエのことか」
さも当たり前の事実のようにラフィは答えた。
面白くもなさそうにラフィは淡々と答える。
どうやら誰でも知っているありふれた噂の人物のようだ。
何故そんなことを聞いてくるのかと言いたげなラフィの視線を遮り、ハニ―は矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「やっぱり有名なの?」
「有名っていえば有名かな?悪魔の瞳を持つ異端審問官が聖域にいて、その瞳で睨まれたら不幸になるとか、即死するとか。他にも色々言われてたような……」
「ねえ、それって本当なの?」
「邪眼のサリエに睨まれ、誰かが死んだなんてことは今まで一回しかないって聞いたよ」
「一回だけ?その一回って?どうやって?」
「何?やたら聞いてくるね。女王様はサリエがお気に入りなのか?」
にやりとからかうような笑みを向けられ、ハニーはかっと頬を紅潮させた。
フンッと鼻を鳴らすと、これでもかと目を険しくしてラフィを睨みつけた。
ラフィは大げさに肩を竦めてみせる。そんな仕草が更にハニーの余裕をなくしていく。
「そんな訳ないでしょ!あの男はわたしを殺そうとしたのよ!」
憮然とした表情でラフィから顔を背けると、はぁはぁと荒れる息を落ち着けた。
そんなハニーにラフィは至極面白がっているように声を弾ませる。
「へえ?悪魔の瞳でかい?」
当たり前のように聞かれた言葉にハニーは言葉を詰まらせた。
ラフィの言葉がうまく理解できず、しばし目を瞬いていたハニーだが、大きく被りを振った。
その顔はまだ呆然としていて、どこかうまく自分を納得させることができないように見える。
釈然としないものをうまく噛み砕けないまま、ハニーは言葉にできない疑問を含んだまま答えた。
「え?……違うわ。……剣で殺そうとしたの…」
「そっか~。サリエの悪魔の瞳を見ても生き残ったとなったら、流石女王陛下って気がするのにな~。そんな簡単には見せないか。それよりもハニーはサリエと会ったことがあるんだな。すげえな~」
噂の人物に出会っていることが心底羨ましいらしい。
ラフィは面白くなさそうに空を仰いだ。
そんなラフィから目を離せないハニーは未だ呆然と自分の思考の波を漂っていた。
(そういえば……なんで彼はわたしに悪魔の瞳を見せなかったんだろう?強靭な騎士達を一発で気絶させる力があるのに……)
屈強な騎士団をあっという間に気絶させるほどの力だ。
ハニーを捕まえる気ならば初めからその瞳を見せていればいいのだ。
そう、あの神殿で初めて出会った時に……。
ハニーはそっと瞼の裏に冷たい瞳で自分を見つめた、あの漆黒の異端審問官の姿を思い描いた。
思い出されるのはいつもで、凍てつくほどに冷酷で、恐ろしいほど美しい男の姿だ。
いつも嫌味なほど美しい顔を、意地悪に歪め、小馬鹿にした笑みを投げかけてくる。
神を信じないと言った異端の異端審問官は出会った時から何度も思わせぶりなことを言い、ハニーの心を試す。
(彼は本当に何者なのかしら?何を考え、何を目指しているの?)
それはハニーにも見当のつかない話だ。
人を食ったことしか言わないあの男の意図などハニーは分からないし、分かりたくもないことだった。
しかし、ラフィに問われれば、その不自然さが際立ってくるのは何故だろう。
そこまで考え、ハニーは慌てて思考の中からサリエの姿を追い払った。
どんな状況であれ、あの男のことを思い返す自分が嫌だったのだ。
まるでサリエのことが忘れられないように思えてくる。
(まぁ、どっちにしても彼ほどの強力な敵はいないでしょうね。出来るならもう二度と出会いたくない)
剣を振り上げたあの禍々しい姿を思い出し、背筋に寒気を走る。
太陽の陽光に照らされて輝く切っ先も、濡れるようなサリエの色香も、甘く低く耳朶を擽る声すらも、今は恐怖の対象でしかない。
そっと自分の身を抱き締めた。
そうしないと自分が自分でいられない気がした。
その時、一人で陰鬱と考え込むハニーに構わず、ラフィが明るい声を上げた。
「おっ、ゼル離宮がすぐそこに見えてきたぞ!」
その声にハニーは弾かれたように顔を上げた。
森に飲み込まれたっきり身を潜めていたゼル離宮が森の隙間からその全貌を現していた。
夜闇に翼を広げた鷲のような堅牢な石造りの城は来る者を全て拒むかのようにその地にずんっと沈み込むように立っている。
ゼル離宮は正面部分のみ城壁に囲まれている。
後ろはゴモリの森が鬱蒼と茂っており、守る必要を感じなかったのだろう。
森と城との境は落ち窪んでいて、その窪みを走るように川が流れていっている。
小高い丘の上にあって、その部分だけが凹んでいるために、ゼル離宮の地下部分が剥き出しになって見えていた。
その反対側、大きな湖に面した城壁の辺りでは、各国の聖十字騎士団が陣を張っているのだろうか。
城壁の前には幾重にも張られた白い布が広がっており、所々に松明の火が見える。
殺伐とした光景だった。
微かに聞こえるのは馬の嘶きと鎧の擦れる金属音、それに雄々しい男の声だ。
輝く緑と光る湖面に照り返る、麗らかな城の姿はどこにもない。
いや、そんなものはとうの昔からなかったのだ。
少なくともハニーがあの城に来てからは、昔の面影などそこにはなかった。
(たった3日離れただけなのに……まったく知らない場所みたい)
ごくりと唾を飲んだ。瞳に焼きつく光景に現実をヒシヒシと感じる。
ついに来るべき時が来たのだ。
覚悟を決めたハニーは気持ちを鎮めようと静かに息を吐いた。
(この先が本当の受難の道だわ。でももう引き返せない……)
震えるハニーの手をエルの手がぎゅっと握る。
そんな彼女の手を握り返し、エルは静かに問う。
「ハニー、大丈夫?」
「そんな気負うなって、おれらがついてるじゃないか」
悲壮な面持ちのハニーを宥めるように、ラフィが優しく微笑みかけてくる。
短い旅の中で得た仲間が彼女の心に温かな息吹を吹きかけた。
彼女は二人の優しさに応えるように、大きく頷くとそっと眼を閉じた。
胸の奥底で、目を細めるてしまうほど眩い炎がある。
自分一人の決意は小さな蝋燭の火のようだった。でも今は違う。
その胸に輝くのは松明のような炎にまで成長した勇気だった。
(この火はけして消えない)
ハニーは静かに眼を開くと顔を上げ、目指すゼル離宮を仰ぎ見た。そしてポツリと呟く。
「ねえ、もう少し、わたしのワガママに付き合ってくれない?」
悲劇の女王の逃走劇は終焉を迎えようとしていた。
一人で逃げていたはずの女王の両脇にはいつの間にか二人の仲間がいた。
けして交わることのなかった三人の道を結びつけたのはただの偶然だったのだろうか。
女王が押し開けたその扉の先に続くのは天国への階段か、それとも地獄への落とし穴か――。