約束の証10
「そうは言ってもね、本当の真実が真実となって後の世に残るかは……」
それだけ言うとハニーは言葉を切った。
これ以上何か言葉を放てば、一緒に涙も零れそうな気がした。
弱い自分をなんとか胸の奥底に閉じ込め、もう出てこないように口を閉じた。
だが複雑なハニーの心境などラフィに分かる訳はない。
ハニーの『後の世』という言葉を気に入ったらしい。
「そっか、そっか~後の世ね!確かに君についていけば歴史的大事件のその瞬間に立ち会えるんだろうな。それこそ歴史書で語り続けられるレベルのことだよな!」
どこか興奮したように言葉を弾ませるラフィは、軽くスキップして、ハニーに流し目を送ってきた。
「ぜひ歴史家が本を書きたいと君の所にインタビューに来た際は、稀代の吟遊詩人で男前で格好いいラフィ様が女王に火と馬を与えたお陰でエクロ=カナンが救われたと言ってくれよ。ん?もしかしなくともおれの所にも来るのかな~?困ったな~おれ、けっこう家を空けてるのに~」
照れたように頭を掻き、未来のインタビュアーを想定して、何事かを呟いている。
「いや~女王陛下と出会ったのは偶然ですよ。まぁおれはこの偶然を運命と呼んでますけどね!男には成さないといけないタイミングがあって……」
何がインタビュアーだ。
そんなことをする歴史家など聞いたことがない。
歴史家とは今は消えて見えなくなった物を、文献や習慣などから見つけ出す者ではないのか。
彼が思うほど生易しい職業だと思えないのは、ハニーが出会った唯一の歴史家が陽の光も届かない闇に閉じ込められている現実を知っているからだろうか。
ハニーはお気楽なラフィの横顔を見下ろし、大きくため息を吐いた。
こんなお気楽な気持ちでやってきて、期待を裏切られる彼を見るのは忍びない。
「そんな簡単に言うけどね、歴史家はインタビューにはこないし、それにこれは危険と隣合わせの行動なのよ。そこのところ、分かっている?インタビューされる前に頭と胴がさようならをしてるかもしれないし………」
それ以上は自分で言うのが躊躇われた。
彼に言い聞かせながら、それが自分の末路のように思えた。
だがラフィにはハニーの言葉は届かない。彼は始終楽しそうにハニーを見上げてくる。
「歴史に名を刻むチャンスじゃないか!」
「もう、何があっても知らないからね!」
「もちろん!命の限り女王様に仕えますよ?」
ラフィはハニーにウインクして見せた。
どうやら彼は「もうっ、何があっても知らないからね!」をハニーなりのイエスと判断したらしい。
それは中々の洞察力だ。
心と口が裏腹なハニーの真意をよく分かっていると言える。
ハニーはふいっと視線を逸らし、暗い森を見つめた。
ラフィの気取らない優しさが嬉しく、泣き尽くした眼がまた潤んでくる。
あれほど泣き叫んでも涙は枯れないらしい。
ハニーは涙の滲んだ瞳を悟られまいとぷいっとそっぽを向いていた。
その背をラフィはにやにやしながら見つめる。
体の芯まで凍りつきそうな闇の中で、松明に照らされたそこだけ、優しい空気に包まれていた。
「ありがとうございます。ラフィ」
顔を真っ赤にして必死に対面を保とうとするハニーの前で、エルは感激の瞳でラフィを見つめていた。
青い瞳はうるうると揺れている。まるでラフィを尊敬してもしきれないと言った色がそこには浮かんでいる。
愛らしいエルの表情にラフィは気をよくしたらしい。
鼻高々に、ハニーに意地悪な笑みを投げかける。
「エルは素直でいいね~。どうやったら女王様も素直になるのかな~」
「うっ!」
からかうような口調に、ハニーは言葉を詰まらせる。
今は、どうあっても彼に返せる言葉はない。
本来なら天の邪鬼さを発揮してラフィに百の言葉を返すのがハニーなのだが、図星も図星で、もうお手上げだ。
「ところで、ラフィ」
馬上でエルが愛らしく小首を傾げた。
大きな青い瞳でじっとラフィを見下ろす。
その絶妙な愛らしさにラフィは更に鼻高々になる。
どうだ、女王よりも大人のお兄さんの方が頼りになるのだろうと言いたげだ。
こうなるとハニーは更に腹立たしさを募らせるしかない。
顔を背けて、きーっと唇を噛みしめる。
(エルに頼られるのはわたしの役目なのに~!!)
きっと、いや絶対そんな役目を果たしたことなど始めからなかったはずなのだが、彼女はそれが悔しくてならなかった。
そんなハニーの姿が更にラフィを調子に乗せる。
「なんだ?困ったことなら何でもお兄さんに言いなさい。お兄さんは女王様よりうんっと優しいぞ!」
(くっ……。言わせておけば……)
く~っと喉の奥を鳴らす。
そんなハニーをちらちらと見ながら、ラフィは至極ご満悦だ。胸を逸らし、鼻高々である。
そんな彼にエルは円らな瞳をくりくりさせ、愛らしい唇をほころばせた。
その場に色鮮やかな小花が咲き誇る。
そんな花に負けない、魅惑の頬笑みのままラフィを見下ろす。
「本当?じゃあ今ラフィが履いてる靴を脱いでハニーに履かせてあげて。それにこのマント一つじゃ寒過ぎるから、今ラフィが着ている服も脱いでくれる?後はこの馬には鞍とかないの?このままじゃハニーのお尻が痛くなっちゃう」
「はい?」
思いもしない言葉にラフィは目が点だ。
さっきまでの意地悪な顔も、格好付けた顔もない。素の彼が覗いた瞬間だった。
ラフィはポカンと口を開いてエルを見上げている。
どうやら言葉の意味を理解できなかったらしい。
それはもちろんハニーも同じだ。
この愛らしい生き物は今なんと言って、思いもしない無茶ぶりをしたのだろう。
「ね?ラフィ、お願い」
エルだけが常と変わらず、愛らしい顔のままじっとラフィを見下ろしていた。
ぎゅっと両手を握りしめ祈るようにし、その間から窺うようにラフィを見つめる。
愛らしい青の瞳はウルウルと潤んでおり、一度彼の意図に反することを言えば、大粒の涙が零れてきそうだ。
彼はさっき身につけたワガママとお願いを昇華させ、天使の必殺技オネダリをあみだしたらしい。
同じ男であるはずのラフィの頬が真っ赤に染まる。それほどの効力がそこにはあった。
「も、もちろんだ」
その突飛ようしもない申し出にラフィは上ずった声で答えた。
真摯な瞳が彼にイエスとしか言わせてくれなかったのだろう。
結果、ラフィはこの寒空の下、裸足で半裸の状態で彷徨うことになる。
彼の着ていた革のベストも上着もハニーの身を温める為に役立ったことは言うまでもない。
ラフィが一番下に来ていた肌着も脱いで寄こそうとしたのを、何故かエルが断り、なんとか全裸で歩くことだけは免れていた。
ハニーは今誰よりも温かな姿をし、馬の背にいる。
しかもお尻には鞍の代わりにラフィの持っていたカバンをひいているので、衝撃もいくらかマシになった。
文句は言えない。
今あるものを全て与えられたのだから。
しかし、これでいいのかとハニーは釈然としなかった。
なんとも言えない表情のまま、身を縮こまらせて馬の側を歩く哀れな男を見下ろした。
彼は意外に引き締まった逞しい体躯をしているが、どれだけ胸板が厚くとも寒さは寒さだ。
サブイボを立てたマッチョなラフィがとても哀れに見えた。
しかしエルはそんなことに頓着しない。
屈託ない頬笑みでハニーを仰ぎ見る。
「よかったね、ハニー!」
「う、うん、そうね」
ラフィ同様にエルの魔性の笑みに顔を真っ赤にさせ、もごもごと呟いた。
本当は色々言いたいことがあったのだが、エルの頬笑みはハニーの言葉を簡単に奪ってしまう。
ハニーはそっとエルから顔を背け、ため息を吐いた。
(こんな子だったかしら?)
呆れるやら感心するやら、言葉が浮かばない。
そんなハニーにラフィも同じ気持ちらしく、なんとも言えない引き攣った顔をハニーに向けてきた。
「ははっ……おれは見縊っていたよ。ちゃっかりしたナイト様だな、おい」
ラフィの言いたいことがハニーには痛いほど分かった。
それはハニーも同じだ。何故か自分の方が居た堪れなくなっていく。
しかし当の本人はそんなこと何も気にしていない。
優しく馬の頭を撫で、いい子だねなどと声をかけている。
それに馬自身も悪い気がしないらしく、目を細め、ぶるるぅと嘶いている。
「この主人にこの従者あり……か。中々いいコンビじゃないか」
「うん……。本当にありがとう」
ハニーはこの時始めて、ラフィに対して素直に礼を述べた。