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約束の証7

 灯に照らされるイオフィエーラの顔は硬い。暗い室内の中で、彼女の肌だけが異様に白く浮かんで見えた。

 サリエが去った後のまま、何一つ部屋は変わっていない。

 イオフィエーラも変わらない姿のまま部屋の奥で、ドアの方をじっと見つめていた。

 そのエメラルドの瞳には普段の妖艶さも、先ほどまでの苛烈な怒りもなかった。

 もの静かな瞳がただ真っ直ぐに前を見据えている。

 不意にその瞳が伏せられた。

 はぁっと気だるげなため息と共に被りを振ると、イオフィエーラは無造作に髪を掻き上げた。

 いつもの貴婦人らしさはどこへいったのか。

 さばけた様子で彼女が髪をまとめる。


「サリエごときに足元をすくわれるなんて、私もまだまだね。まぁいいわ。結果はどうあれ、サリエに触れることが出来たのだから。まったく!あの男、見た目通り心も隙がないったら………」


 ふんっと鼻を鳴らし、面白くなさそうに立ち上がる。

 乱れたドレスの胸元や裾をそのままに、部屋の中央に置かれた猫足の椅子にドカリと腰を下ろした。

 ドレスの裾が捲れることなど厭わずに、彼女は大胆に足を組む。

 どこから取り出したのか、彼女は両手を広げたサイズの木のケースを取り出すと、その中から細い煙管を出した。

 慣れた手つきで、中に細かな枯葉のようなものを詰め、火を付ける。

 それをすぅっと吸い込むと、静かに目を閉じた。

 まるで体の隅々まで染み込ませるようにたっぷりと時間をかけてから、それをゆっくりと吐き出す。

 甘く、少しだけほろ苦い紫煙が暗い部屋にくゆる。

 薄墨のような紫煙はすぐに深い闇に飲まれ、香だけを残しどこかへ消えていく。

 吐きだせるだけ吐き出して、それでもイオフィエーラは瞳を閉じたままだった。

 何かを思案しているようにも、耐えがたい物を必死に押し留めているようにも見える。

 変わらず美しい姿だが、常に纏わりつく粘っこい色香はどこにもない。

 凛とした引き締まった美が静かにあるだけだ。

 ゆっくりとエメラルドの瞳が見開かれる。

 強く輝くその瞳はもうかの男が去ったドアなど見ていなかった。

 無表情ながら余裕に満ちた顔にあるのは、絶対的な自信。


「お馬鹿なサリエ。この私をただの娼婦だと思っていたの?本当に体一つで男達を手玉に取ってきたと?確かにそれは事実よ。球遊びみたいに簡単で、おままごとみたいにつまらないお遊戯だった。でも、この私がそれだけしか脳のない女な訳ないじゃない」


 何かを思い出すように、イオフィエーラの瞳が先ほどまで自分がうずくまっていた床を見つめた。

 熱い時は一瞬で、もうその冷たい床にはその余韻すらない。


「愚かな男ね。まぁ一杯食わされたことは認めるわ。でもね、貴方が私の体を焦らしている間、私がただ貴方を待っていたと思ったら間違いよ?」


 クスクスと笑い声を零す彼女は、我慢できないとばかりに仰け反ると、重厚な椅子の背に体を預けた。

 闇で陰影のついた喉はひくひくと動き、ひどく扇情的だった。


「あれが私の本気だと?私にかかれば、貴方はそうだと気付かないほど呆気なく、それも最高の形で私にだけ溺れさすことができる。そして、貴方の心の奥底までも手に入れることができるのよ?」


 そう言った言葉には自信が満ち満ちていた。

 大した自信である。

 だが、気取った様子もなくそう言った彼女は自身を過信しているというよりも、当り前の事実を述べているようだった。

 サリエは知らない。

 さっきまで彼が組み敷いていた女の武器が色気だけでないことを。

 彼女は彼に身も心も委ねたように見せかけながら、その心に隠された真実を暴こうとしていたのだ。

 これは誰も知らない、イオフィエーラの秘密だ。

 別に呪いや魔術などではない。元々イオフィエーラは触れた相手の意識に侵蝕できるのだ。

 切っ掛けは幼い彼女、まだゾフィーと呼ばれていた少女が死にかけた時のことだった。

 彼女の住まう屋敷が突如大きな火の海に飲み込まれた時、彼女は崩れ落ちた木材の下敷きになり、死にゆく身であった。

 しかし次に目を覚ました時、彼女の傷は左頬の赤い痣のみ。

 他は何処にも傷などなく、たった一人、業火の中を生き残った。

 そしてその時からこの摩訶不思議な力が彼女の一部になった。

 そう、世にいう神の恩恵を受けたのだ。

 彼女にとってその力を使うことは、両手を広げることに等しい。

 他の者が何故人の心が分からないと嘆くのか理解できなかった。

 彼女にとって人の心とは、分かる必要もない、見ればすぐに分かる汚くて下らないものだったからだ。

 だが聡い彼女は早々に気付く。

 自分が他の誰にもない力を持っていることに。

 そして、その非凡な力の有効な活用方法について……。

 あの大火は生まれ変わった彼女のための祝杯だったのかもしれない。

 彼女自身全てを理解していない。

 だがまるで水の中に手を入れるように意識を別の者の中に侵蝕させる。

 するとその人物の心の声が聞こえてくるのだ。

 時には何かしらのヴィジョンであったり、香であったり、感触であったり、人により様々だが、それがその人物の心の中にある偽りない意識の断片であることに間違えはない。

 こうして誰も知るはずのない秘密をチラつかせると、人は呆気ないほど簡単に落ちるのだ。

 もちろんサリエの心の中を覗きこもうと、焦らされ興奮する本能に押されながら、理性の彼女は考えていた。

 口では貴方の真実を教えてと囁きながら、盗み見る気であったのだが、流石はサリエと言ったところか。

 警戒心も人一倍で、触れても簡単にその本性を見せない。

 まるで霞がかったような映像ばかりが流れてくる。

 だが、一つだけ鮮明な映像があった。その絵を思い出すように瞼を閉じ、イオフィエーラはほくそ笑む。


「一瞬でも貴方の心を覗きこめたのだから、私の勝ちよ?サリエ」


 暗い闇の中に一瞬だけ浮かんだ眩い光。

 その中心にいたのは、淡く透き通った赤い髪の少女。

 イオフィエーラはその少女が誰であるかよく知っていた。

 しかし、映像の中の彼女は、彼女が知っている姿と少しだけ違って見えた。

 それは心に映り込んだ姿だからなのか………。

 だがどんな姿を取っていようと、どうでもいいことだ。

 彼女はその映像の中にもっと大切な物を見出していた。


「―――結局、この騒ぎに『禁断の書』なんて存在しないのでしょうね。まぁ、詳しい話は聖域に帰ってから、教皇様にお聞きすればいいわ。これだけ自分の部下を派遣しているんですもの。彼がこの騒ぎに何かを望んでいるとしか考えられない」


 イオフィエーラは自分の手を顔の前に掲げた。

 そしてその長い指で、自分の左頬にある赤い痣を撫でた。

 嫌悪するように眉を潜め、吐息を吐く。


「醜い痣。女の顔にあって、顔以上の存在感を放つのだから………。でもこの枷を与えたもうた神に感謝しこそすれ、恨む気はないわ。嗚呼、神よ。私に非凡な力を与え、貴方の御許に近付くための契機を与えて下さったことに感謝します。貴方は他の誰でもない、この私を選んだ。この私に使命を与えたもうた。そう――――腐った世界を一掃し、貴方の願う世界に造り替える、その使命を………」


 イオフィエーラはすっと立ち上がる。

 片手を腰に当て、もう片方の手で飾り扇の代わりに煙管を掲げる。

 便りなげな灯に浮かび上がった彼女は、誰もが圧倒される美しさと意思の強さを宿していた。

 毅然と前を見つめると、カツンと一歩踏み出す。


「さぁ、聖域をぶっ壊しに行きましょうか?」

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