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血に濡れた女王8

 それはエルが力の限りに与えてくれた奇跡。たとえ体を亡くしても、魂が神の御許へと導かれてもハニーを守ってくれた。

 エルはそんな人なのだ。誰よりも清らかで、誰よりも慈愛に満ちている。

 なのに、自分ときたら……。

 ハニーは泣き叫びたいほどに胸を締め付けられた。

 この国を守ると決めたはずなのに。一瞬でも死を受けいれた自分が吐き気のするほど腹立たしい。


(あたしが今ここにいるのは全てこの国の為、そして大切なエルとの約束の為。だからまだ生きて……生きて生きて、生き延びなければ)

 

 ガバリと顔を上げ黎明の空を彩るような透き通る赤い髪を揺らすと、ハニーはその激情を瞳に閉じ込めた。

 全てを射抜く閃光のような金色はもう狼に囚われてはいない。


(こんなの、障害でもないのよ!)


 痛みに耐えながら、素早く床に転がっている罅割れた床の破片を拾いあげた。

 そうだ。ただ泣き叫ぶだけで自分の身が守れる訳がないのだ。自分の身も守れない者がどうして声高々に他人を守れると言えるのか。

 意を決したハニーは小さく息を吸うと渾身の力をそのか細い腕に込めた。躊躇なく狼の頭目がけてそれを振り下ろす。

 ゴツッと嫌な感触が破片を通じて彼女の手に広がった。破片を握りしめる指先がびりっと痺れる。その感触に思わず、恐怖が込み上げる。

 誰かを傷つけるという行為、それはすなわち命を奪うことに他ならない。その現実に、自分が他を殺めている事実にハニーは恐れ慄いた。

 それもそのはず。ハニーはつい3日前まではただの乙女で、恵まれた環境で蝶よ花よと育てられてきたのだ。

 これほどの血を目にするなど、彼女が人生の終焉を迎えるまでけしてありえないことだった。

 人であれば誰もが経験する苦労や負の感情とは区切られたこの世の楽園で、美しいものだけを見て清らかものだけを聞いて生きていたはずだったのに……。



 しかし運命の歯車が狂った。



 今の彼女は血に染まり、襤褸を纏い、誰かを呪い、恨み、憎み、そして他の命を奪わずに生きていけない。

 その表情は常に争いの場に身を置き、命のやりとりを自らの切っ先に託した戦士のようだ。今の姿を見て誰が過去のように彼女の美貌を湛えるであろうか。

 だが、ハニーは自分の手がどれだけ血に染まろうとも、身が捥げようとも、それでも体を突き動かす激情を知ってしまった。

 思うだけでは現実は変わらないのだ。身を以って知った現実を変えるべく、ハニーは進まなければならない。

 彼女の目指す先は途方もなく遠い。そう――――、今こんな辺境で怯んでなどいられない。


「あなたが襲うからいけないのよ!!痛いなら早くどっか行ってよ!!」


 叫ぶと同時に力を込めて狼の眼を殴りつけた。破片を通して何かが潰れる音が生々しく響く。

 異様な感触にハニーの細い体が悲鳴を上げた。だが怯むことなく、更にもう一度。形振り構わず、ハニーは狼を打ちつける。

 返り血が彼女を赤く染めていく。

 その姿こそ本物の血に濡れた女王だろう。鮮血に頬を汚し、それでもまだその手を止めない。それはどこか敬虔な神への祈りに似ていた。

 鋭く瞳を燃やし、渾身の力を振り下ろす。

 キャン――と弱弱しい仔犬のような悲鳴を上げると狼は距離を取るように後ずさった。


(あ……あぁ…退けた……)


 緊張した体からガクンっと力が抜け、ハニーはその場に尻もちをついた。その手から真っ赤に染まった凶器が零れ落ちる。

 動悸が逸り、吐き出す息が肺を焼く。


(このまま逃げ出してくれたら……)


 ひっひっと引きつる息を何とか抑えながら、ハニーは心からそう願わずにはいられなかった。

 だが相手は森の狩人。そう簡単に背を向けるはずがない。狼は離れた場所で低く唸り、ハニーを睨みつけている。

 ハニーは慌てて自分の足元に落ちた破片を拾い上げ、少年の手を引いた。

 逃げるように狼から離れ、ハニーは側で呆然としている少年を抱き締めた。少年を守るつもりだったのだが、支えられるのはハニーの方だった。

 今は誰かの存在に縋っていないと自分が四方に飛び散っていってしまいそうだ。

 緊張の為かうまく息が吸えない。引きつる喉の奥が痛くて、それ以上に噛まれた部分が疼く。

 何度も激しく肩で息をしながら、それでもハニーは狼を睨むことをやめなかった。

 少年はハニーに抱きつかれたまま、ぼんやりとハニーに目を向けていた。

 自分を庇うハニーの裾を掴むと少年は小さく呟いた。まるで狼など眼中に入っていないかのよう。何にも染まっていない瞳が驚愕に揺れている。

 それはこの少年は見せた初めての感情。それが何を意味するのか、今のハニーには知る術はおろか、考える余裕すらない。

 そっと愛らしい小さな手を伸ばして、恐る恐るハニーの頬に触れた。


「貴女は……」


「えっ?」


「貴女は僕の………………」


 それは遠い地からやってきた巡礼者が、求めてやまない神の栄光に触れたかのような仕草だった。

 愛らしい顔には畏怖と敬愛が同時に居合わせている。さっきまで感情の欠片もなかったその少年の変化に、ハニーも驚かずにいられない。

 だが今は一刻を争う時だ。


「今はそれどころじゃない!話をするのはこいつをなんとかしてから!無事に逃げてからでも遅くないわ!」


 狼を睨みつけながらハニーは叫んだ。

 狼は更に身を低くする。臨戦態勢だ。敵はいつでもハニーを出迎える準備は出来ている。

 やるしかない。自分は生きて帰らなければならないのだ。

 このまま少年と共にただ祈り続ければ悪が去ると信じるには、あまりに多くのものを失い過ぎた。今は祈ることより、この欠片の使い道を考えることの方が数倍大事なのだ。

 決死の覚悟で、手にした破片を握りしめた。ちらりと自分の手に馴染んだその欠片に目をやり、自分の思い全てを注ぎ込む。

 

(祈るにはまだ早すぎる。わたしにはまだ出来ることがある……)


 もし、これが外れれば武器になるものは一つもない。だが手に持っている限りこの破片は破片でしかない。

 ならばやることは一つだ。全て終わってからでも祈るのは遅くないはず。


「お願い!当たって!!」


(御主よ……どうか、どうかこの瞬間、わたしに奇跡を………!お願いです。この先待ち構えている運命がどれだけ過酷でも構いません。わたしをお救い下さい!)


 悲痛な叫びと共に勢いよく欠片を投げ放った。鋭く風を切って破片が広間を横切った。光の海を高速で駆け抜けるそれは夜空を瞬く流星のようだ。

 ただ…………流星の運命は燃え尽き、消えること。

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