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約束の証3

 暗い部屋で怪しく蠢く影を見つめる瞳があった。

 自分の世界に没頭しているハールートは気付きもしなかった。

 しっかりと閉められたはずのドアが僅かの隙間を開けていることに。

 その隙間から余すことなく全部己の本性を覗き見られていることに。

 ウヴァルは隙間からそっと顔を離した。途端、目眩でも起こしたかのようにすぐ側の壁に凭れかかった。

 彼はつい先ほどまで自分が見ていたものが信じられなかった。

 嘘だと、いっそ悪夢だと思って飛び起きたいと願ったほどだ。

 しかし自分が触れる壁の冷たさやボコボコとした手触りが、この悪夢こそが現実だと告げる。


(彼は俺を裏切った……)


 ウヴァルは強張った顔をそのままにふらりとその場を立ち去った。

 暗い影から逃げるように狭い廊下を足早に進む。

 途中何度も床に敷かれた絨毯に足を取られ、転びそうになった。

 だが、そんなことなど一切頓着せずに、突き進む。

 早く逃げ出したかったのだ。もうこれ以上、非情な現実を見ていたくなかった。

 全てハールートの計画だったのだ。

 元々、年若い女王に対するやっかみ半分、またエクロ=カナンという閉ざされた国に対する偏見などが入り混じり、女王レモリーが悪魔を召喚せんとしている、といった類の噂は存在していた。

 今でこそエクロ=カナンは他国と同じ神をただ唯一の神と崇め、聖域に従している。

 しかし、ユーティリアの生誕から近年までの長い時間の中、エクロ=カナンがユーティリアを信仰の対象としていなかった時期がある。

 混乱の時代、それこそ数百年前のことだが、エクロ=カナンは聖域と仇を成す悪神達や精霊達を自らの神として崇める多神教の国だった。

 混乱の過渡期ゆえ、他国からの情報が少ないエクロ=カナン全土にユーティリアの教えが広まるまで時間がかかったのである。

 それまでの間、人々は悪鬼を神と誤信し、崇め奉っていた。

 民俗衣装である黒いケープを羽織り、聞いたこともない呪いを唱えるエクロ=カナンの民は、一神教の者達から見れば、異様な民族であったろう。

 そのイメージが長くエクロ=カナンの印象とされてきた。

『レモリーが悪魔崇拝をしている』という噂もそこに端を発す。だがそれは正しくエクロ=カナンの歴史を知る者の見解だ。

 無学な民達は、自らの祖先がよもや悪魔を崇拝していたなどと信じる訳がない。

 こうして歪みを重ねていった噂―――しかし、噂は所詮ただの噂でしかなく、形なきそれが人に牙を剥くことなど有り得なかった。

 なのに………。

 ウヴァルは込み上げる激情を抑え込まんと拳を握り締め、唇を噛んだ。

 ハールートは噂に実体を与えた。突如人の消える集落、ミルトレ公一家及び領民の消失………全てがハールートの筋書きだった。

 噂を一蹴する人物を消し、またレモリーを陥れるためにミルトレ公に目を付けた。

 彼自身、レモリーに公平な立場で的確な助言を与えるミルトレ公を煙たがっていたのだろう。

 その立場にとって代わりたいと思っていたのかもしれない。

 彼はエリカ・ミルトレを唆し、ミルトレ公暗殺の機会を得た。

 それだけに留まらずミルトレ公の家族を皆殺しにし、その領地に住まう民までも消してしまった。

 しかも自らの手を汚すことなく、エリカに全てを押し付けて……。

 そうなれば、集落から人が消えたこともハールートの布石の一つだったと見て間違えはない。

 ウヴァルの中で、一つ一つの事象が繋がって、一つの絵を描いていく。

 ウヴァルは自身が思い当たった真実の重さに耐えかねて、倒れ込む様に壁に寄りかかった。

 誰よりも信頼していた男の裏切り。

 それは潔癖なほど純粋な彼の心で受け止める許容を超えていた。

 もう自力では立っていらない。

 自分の全てを預けるように壁に凭れかかり、ウヴァルは悲愴な顔を歪めて、笑った。

 もう笑うしかなかった。

 ハールートに利用され、最愛の姉を地獄に送る真似をした自分など虫けらだとさえ思った。

 崩れるようにずるずると座り込み、ウヴァルは自身の髪をぐしゃりと掴んだ。

 美しい青銀の瞳から止めどなく涙が溢れる。

 ずっと我慢し続けていた。

 姉のいない城に。自分に圧し掛かる重責に。

 それがこんな形で裏切り、彼を更なる闇に追い込もうとするなど誰に想像できただろう。

 頑な故に誰にも染まらない。

 そんな冴えいる月光を集めたような瞳がぐにゃりと歪んだ。

 それは彼の心が壊れた瞬間だったのかもしれない。


「ははっ……俺は裏切られたのか?いいように利用され、そして、使い終われば捨てられるだけの存在なのか?」


 その硬質な響きに誰も答えない。

 どこまでも続く長い廊下はしんっと静まり返り、人の気配すらしない。

 まるでしんしんと降る雪に包まれているかのようだ。

 柔らかな絶望が城を満たし、全ての感覚を奪っていく。

 いつからこの城は人の吐息を感じられない、冷たい場所になったのだろう。

 レモリーがいた時は温かさと笑いに満ちていたのに。もうここには昔の面影などない。

 ウヴァルはぐっと拳を握った。


「だが、ハールートの思い通りになどさせない」


 ゆっくりと上げられた顔にはもう涙はなかった。

 精悍な青銀の瞳は揺れ惑うことなく、一点を見つめている。

 何かを決断した少年は男となっていた。


「ウヴァル様」


 その背に遠慮がちに声が掛った。

 そこでやっとウヴァルは自分の側に誰かがいることに気が付いた。

 たった一人で、世界の果てにいるような孤独が和らぐ。

 ウヴァルは気だるげに声のした方へ顔を向けた。

 見なくとも分かる。その声の主がどんな顔で、どんな佇まいでそこにいるか、全て思い描くことができる。

 案の定、彼の思い描いたままの姿で長身の侍従がいつも通りの卒のなさで控えていた。

 床に敷かれた絨毯の上で小さな子どものように身を丸めるウヴァルをいつも通り見つめる彼にウヴァルはポツリと呟いた。


「アスター……どうやら大司教は俺を裏切るつもりのようだ」


「はい……」

 

 いつも通り抑揚のない声が返ってくる。

 彼はずっとこうだ。出会った時から取り乱すことなくウヴァルに付き従っている。

 ウヴァルが問うことに彼は常に真摯な態度でもって応えてくれる。

 もはやウヴァルが信じられるのは彼しかいなかった。

 床に座り込んだまま、ウヴァルは顔を上げた。

 端正でいて、印象に残らない侍従の顔がじっとウヴァルの言葉を待っている。


「大司教の心が分かるか?」


 救いを求めるように自らの侍従を見つめる。侍従は抑揚なく答えた。


「ええ、手に取るように分かります。富や地位……それは誰もが欲しがるものです。彼は自らのその欲に忠実な人間なのです」


「お前も欲しいか?」


「いいえ」


 美しい金髪を揺らし、物静かな侍従は真摯な眼で主人を見つめ返した。

 そっと床に座り込んだままのウヴァルにその手を差し出すと、彼にしては珍しく、強い語気をもって答えた。


「私の望みはあなたの望み。それ以外ありません」


「では今一度、俺に力を貸してくれ。姉さんを取り返したいんだ」


 必死に姉のことを思うウヴァルは国や国民を考える国主の顔を忘れ、子どものように差し出された侍従の手に縋った。

 侍従は自らの主人の前に膝を折り、崇高な儀式をするかのように恭しくウヴァルの手を握り返し、その甲に口付けを落とす。


「仰せのままに。私の主人はあなた様だけです。何があっても、この関係が破られることはない」


 ウヴァルは鷹揚と頷いた。

 侍従の手を借りずに立ち上がったウヴァルは毅然と前を見据えた。

 何もない廊下は薄暗く、その先では何か禍々しい物が蠢いているように見える。

 しかしその青銀はその全てを貫くように輝く。


「それでいい。お前は俺を裏切るな。何があっても」


「地獄までお供します」

 

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