約束の証2
女王が生きている。
それだけで気が気ではなかった。
本当ならばあの場で殺してしまうつもりだった。
なのに、賑やかしに呼んだだけの枢機卿らはそれをよしとせず、聖域に坐す教皇聖下の元に女王を連れていこうなどと言いだした。
女王が剣を以て襲いかかったことも一つだが、その場に思いもしない者が乱入したことが大きな要因だった。
まさかあのタイミングで、何故異国ウォルセレンの聖女であるマリス・ステラが割り込んでくるなど誰が思っただろう。
なんとかあの場を収め、枢機卿らを納得させるために聖域へと馬車を走らせた。
本当は聖域に行きつかせるつもりなどなかった。
途中にある塔に閉じ込め、頃合いを見て殺害する予定だった。
相手は狂人だ。
何かの拍子に暴れ出し、身を守るために騎士が殺したとでも言えば誰もが納得するだろう。
そう高を括っていたのに………。
女王は塔を逃げだした。
しかもどこで女王の豹変と聞きつけたのか、聖域は各国に聖十字騎士団を呼び掛けた。
あまりに早急に事態はハールートの預かり知らぬ方へと進みだした。
報告を聞くたびにハールートは不安に駆り立てられた。
彼女の赤い髪が目撃される場所が徐々に近付いてくる。
彼はこの城を、そしてハールートを目がけ駆けてくる。
彼が旧世界に押し込んだ全てを纏い、排除したこの世界に食らい付かんとしてくる。
姿なき者の追跡の足跡がすぐ側まで聞こえてくるような気がした。
怒りとともに込み上げるのは、後ろ暗い者の抱く恐怖だった。
せっかく築きあげた自分の心地よい世界が足元から崩れていくような錯覚がする。
(なんとしてでも……絶対にあの女を見つけ、そして殺さなければ……生きてこの地から出す訳にいかない。絶対に口を開かせる訳にはいかない)
ハールートはその歪んだ素顔を何とか心の内に納めた。
大丈夫だと、全ては私の思い通りになると言い聞かせ、脂汗の浮かんだ額を拭った。
一旦大きく息を吐くと、彼はいつも通りの聖人の仮面を被り直した。
ゆっくりと自分の前に控える騎士の方へと向き直る。
徐に口を開くと彼は諭すように声をかけた。
「早く捕まるよう全兵を投下しなさい。他国の騎士に捕まったとなれば、この国の威厳に関わる。国民の為、この国の未来の為にも、早急にそして秘密裏に女王を始末せねばなりません。これはウヴァル王子の仰せでもあります。貴方にも分かりますね?」
「仰せのままに」
騎士は大きく頷くと素早くその場を立ち去った。
扉が閉まる音を背中で聞きながら、残されたハールートは忌々しげに指を噛んだ。
どこで歯車が噛み合わなくなったのか。全て思い通りに事が進んでいたのに。
「俺の計画に狂いはない。あの女には何も語らせない。あの女は死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死死死死死死死…………」
まるで自分に言い聞かせるように、何度も言葉で血に濡れた女王を殺した。
彼の脳裏で血に濡れた女王が更に真っ赤に染まっていく。
それでも彼女はハールートから目を離さない。
手足を千切っても、眼球を引っこ抜いても、彼女は歪な姿のまま、こっちを見つめている。
暗闇で一際輝く金色の瞳に寒気が走る。
「ふ、ふざけるな!所詮は想像の世界から抜け出すこともできないクセに!この俺が貴様に怯える訳がないだろうがっ!!」
勢いに任せて、椅子の肘かけを殴り付けた。
その瞬間、彼の瞼に浮かんだ女王は消え失せた。
ハールートはぜぇぜぇと肩で息をしながら、ビリリとした拳から駆けあがってくる痺れに耐えていた。
「……っはははっっ…………ははははははははははははははははっっっっっっ…………」
腹の底から響くようなだみ声がハールートの口から零れた。
それは笑い声のようでいて、泣いているようにも聞こえた。
強張った顔には歪な笑みが張り付いている。
それは、もちろん聖職者の慈愛の笑みではない。
彼は野心と欲望に塗れた獣の本性を曝け出し、咆哮を上げた。
物々しい空気に押しつぶされた部屋の中央でハールートはふんぞり返る。
その姿は玉座に腰かけた地獄の王のようだ。
たくさんの死体の上に危なっかしく乗せられた王座。
その継接ぎの玉座でハールートは自分の薄い唇を舐め、据わった目で辺りを見渡した。
「………ふふっ、大丈夫だ。俺にはとっておきの秘術があるじゃないか」
それは事実の確認というよりも、無理やりに自分を鼓舞しているかのようだ。
ハールートは、椅子の側にある小さなテーブルに手を伸ばした。
そこには一冊の古ぼけた本が置いてある。
真黒な本である。中の羊皮紙と思われる部分も全てが黒い。
表紙は木に布を貼って、その縁を金糸で仕上げてあるらしい。
見た目に重厚な装丁である。
その表紙の真ん中辺りに赤い、血のような赤で題名が記されていた。
だが残念なことにその本が造られあまりにも長い年月が経っている所為か黒く滲んで、文字が読み取れない。
何について記された書物か、その外見からは見当もつかない。
ただ、その本がただの書物ではないと一見して分かった。
それはその本が纏う空気だ。
黒く澱み、禍々しい瘴気が垂れこんでいる。
触れることはおろか、目にすることも躊躇う。
ハールートは気負うこともなくその本を手にすると、無造作に開きぱらぱらとページを捲った。
開いた途端、静かに様子を見ていた禍々しい瘴気が水を得たように膨れ上がった。
鼻につくような、すえた腐臭も立ち込める。
ハールートは気付かない。
一心不乱にページをめくり続ける。
黒い羊皮紙には滲んだ赤いインクで不可思議な紋様がいくつも描かれていた。
歪で、邪悪な気を醸しだす紋章には、幾何学な文字で細かに説明がなされている。
それは見たこともない文字だ。
世界広しといえ、このミミズが這ったような文字を使う国はない。
ページを捲る手が止まった。そこには一際大きく、一際邪悪に描かれた円がある。
円の中で複雑な紋様が幾つも絡まっている。
一種の芸術作品のようだ。その円には人を圧巻させ美しいと思われる魔力に満ちていた。
「これがあればいつでも俺の思いのまま……この魔導書があれば俺は世界の王になれる………」
ふふっ……と顔を歪め、ハールートはくぐもった歪な笑みを浮かべる。
もうそこにはエクロ=カナンを支える聖人はいない。
欲に塗れ、それを昇華させんと道理すら曲げる傲慢さはもう人のエゴではない。
もっと嫌悪するような醜悪さがそこにはあった。
地を揺するような笑い声は途切れることなく、暗い部屋に響き続ける。
声は空気を伝播し、蝋燭の火を揺らした。
炎影が壁を這う。その怪しく蠢く黒い影はまるで悪魔のようだった。