優しい詩19
不意に零れた言葉は抑揚なかった。
さっきまでの感情むき出しを思うと、少しだけ不安が綯い交ぜになっているように聞こえた。
思いもしない言葉にラフィは視線をハニーに戻す。
そこにあるのは変わらず、真摯で真っ直ぐな金色の瞳。
常に前にしか見ていなくて、毅然として高潔。それなのに驚くほど油断いっぱいで、あどけない顔が真剣に自分を見つめている。
何か期待を込めたように金色の瞳がきらりと輝いた。
ラフィは思わず息を飲んだ。
「えらいって、もっかい言ってよ!」
思いもしない言葉にラフィは戸惑いを浮かべた。
そのラフィに縋りつくように、ハニーは彼に手を伸ばした。
そのまま彼の服の袖を掴んで引っ張る。
その顔は崇高な女王でも、国民を思う国主のものでもなかった。
ただの小さな乙女が今にも泣き出しそうな目でじっと自分を見つてくる。
必死に縋りついてくる彼女がまるで捨てられた子猫ように見えた。
大きくなったり小さくなったり、尖ったり、丸くなったり……。
見る度にその表情を大きく変えるのだから、彼女はそのつもりはないだろうが、相対する方はドギマギさせられる。
感情のままに生きる彼女の全てがラフィの心を揺さぶる。
(酒に酔ってるからなのか、それともこれが女王様の本音なのか……。これだけおれを振りまわして、きっと明日の朝には全て忘れてケロってしてるんだろうな~。そんでもっておれだけをこの夜の森に取り残すんだ。………ズルイね、こういう甘え方)
でもある意味、役得かもしれない。相手は恐れ多くも一国の主たる女王陛下だ。
こんな森の中で、非常事態とは言え、女王陛下直々に彼女を慰める役を仰せつかったのだ。
(いや、そんなことじゃないんだ。おれはどうやら、このハニーと呼ばれる少女自身に人として惹きつけられてるんだろうな)
そう思うと自然にハニーの方に手が伸びた。
自分に縋りついてくる少女の頭に自分の手を置く。
自分の掌で包めてしまうほど、彼女の頭が小さくて、急に胸が締め付けられた。
見れば、体中のあちこちに細かな傷を作っている。
そう言えば先ほど薬を塗ってやった肩口は狼に噛まれたのだと、何事もないように言っていた。
痛そうに見えなくて、軽く流してしまったが、そんな訳がない。
人は他人の痛みに鈍感だ。
目の前に膿んで腫れあがった傷があっても、まるで絵を見ている気にさせられる。
ラフィは悔しげに唇を噛んだ。
他人事だと笑っていた噂の人物が俄かに人となって自分の目の前に現れた時、ラフィはお伽話を聞いているような、不確かであやふやな思いしかなかった。
彼女の言葉の端々に見える苦労も全て、夢の話のように辺りを漂って見えた。
だが今はもう、どんな小さな傷も看過せずにはいられない。
どんな些細な事も現実と感じずにはいられない。
彼の目の前にいる彼女自身が真実だ。
泥に汚れた顔の中にある金色の強い瞳が、華奢な体にある傷が、彼に告げる。
この小さな存在が女王という高潔さに身を包み、大きな国家という形なき横暴と戦っているのだ、と。
「偉いよ。女王様は本当に偉い。どんな噂にも負けずに、どんなにボロボロになっても諦めないんだ。それはとても崇高なことだ。誰にも真似できない。噂を信じて、君を廃そうと考えてる家臣が信じられないよ。こんなに真っ直ぐな女王を信じられないなんてこの国の国民はどれだけ見る目がないんだ。君の歩んだ道こそ真実なのに、皆そろって、ホンット阿呆だな!」
まるで小さい子をあやすような動きで、ポンポンと頭を打つ手がとても心地よい。
穏やかな声は焚き火の炎のように柔らかい温かさを含んでハニーの心に響く。
ハニーはその声に惹かれるように見上げれば、へーゼルの瞳が愛おしげに細まった。
自分を包む全てがひどく優しくて、そんなじんわりとした温かさが心に沁み込んで、ハニーはささくれ 立った心が急に沈静していくように感じた。
酔いに任せて叫んでいた唇が、弱々しい本音を吐き出す。
「本当に、本当にそう思う?」
疑っての言葉ではない。イエスと言ってほしくて、彼がそう言ってくれると知っていて、あえてそう聞いた。
きっとラフィはハニーのことを酔っぱらっていると思っているだろう。
自分自身どれだけ正常な自分でいれているのか、皆目見当がつかない。
でもどうかこのまま、酔っぱらいだと思って、笑って接してほしい。
今なら素直に甘えられる気がした。
そんな複雑なハニー心などラフィには分かるはずもない。
しかし彼は酔ったハニーに呆れる訳でもなく、嫌な顔一つせずにハニーを見つめる。
手をハニーの頭に置いたまま、ラフィは優しい声で丁寧に囁いた。
「本当に、そう思うよ」
それはハニーがずっと聞きたかった言葉だった。
不意に与えられたその言葉に思わず、胸が熱くなる。
もう感情を押さえつけることもできない。
あっという間にせり上がり、瞳に溢れた熱い思いがハニーの見つめる世界を滲ませる。
ポロリと涙がこぼれた。
それがきっかけだった。
堰を切ったように後から後から熱い涙が流れていく。
雫なんてものじゃない。川のように頬を滑って行く。
「っっっっぅぅぅぅううわわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんんんんっっっ!」
年がいもなく、まるで赤ん坊のような泣き方だった。
大きな声を上げ、ひっくとしゃくりあげながら泣き続ける。
ラフィはそれを拭うこともなく、優しく頭を撫でながら見守っていた。
その声に驚いたのか、それとも本当にハニーの心に反応するのか、エルがびくりと体を震わせ、マントの中に落ちていた顔を上げた。
愛らしい目をパチパチとさせ、驚いたようにハニーとラフィを見つめた。
どういう状況なのか、さっぱりつかめなかったのだろう。
しかしどんな状況であろうとハニーが泣いていることに違いはない。
酔っぱらって泣き上戸を発揮しているなど、幼いエルが思う訳がない。
そのまま彼女の体に抱きつく。
淡い赤髪に顔を埋め、ぐりぐりと頬を寄せる。
言葉にはしない。
でも側にいて、一緒に分かち合うよと彼は心でハニーに語りかけているようだった。
そう思うと更に涙の川は大河へと変わっていく。
人との触れ合いがこんなにも有難いものだと、ハニーはこの時初めて知った。
人の世界に生きていれば、必然的に人と触れ合い、それが当たり前だと気にもしない。
でも、これこそが奇跡だ。
人なくして人は生きていけない。
当たり前がこんなにも自分を優しく包んでくれる。
ラフィとエルの二人に挟まれ、ハニーは泣きじゃくった。
二人の存在が自分の側にあると思うだけで、頑ななだった心が解れていく。
薄氷の張ったような心が音をたてて割れていく。
解けた氷は熱い感情に熱せられ、後から後から外に流れていった。
「大丈夫だよ、ハニー」
柔らかいエルの声に益々涙が止まらない。
今まで一人抱えていた不安や恐怖を曝け出すように、泣き続けた。
たった一人流す涙は冷たく空回りばかりしていた。
でも今は違う。
頬を伝う涙は今まで流したどの涙よりも温かい。
心が洗われていくようだ。
無実の罪を着せられ、城を追われた悲劇の女王はこの時初めて、心からの休息を得た。
血に濡れた魔女と蔑まれる中、どれだけ懸命に足掻いてもその言葉に身が染まっていくように感じた。 だが、今こうしてハニーのありのままを受け入れてくれる人が側にいる。
(ずっと言って欲しかったの。わたしのしたことは、間違いじゃないよって)
誰かに認めてほしかった。
そうではないとガムシャラに突き進むことができなくなっていた。
思いもせずに掛けられたラフィの言葉はストンとハニーの心に落ち、ハニーの心を覆っていた暗雲全てを打ち払ってくれた。
ラフィ自身は思わず口に吐いて出た言葉だがハニーにはそんなことは関係ない。
認めてくれる人がいる。それが弱った体には何にも代え難い力を呼び起こす。
薄暗い森にいつまでちっぽけな乙女の泣き声が響いた。
焚き火の温かな炎に涙が煌めく。涙は女王の心を解し、女王が自らの心にかけた魔法すら解こうとした。
「わたし……ひっく………生きててよかったよぉぉぉぉぉぉ」
それは女王ではない、ただのハニーの心からの言葉だった。
孤独を抱えた女王の側には温かな灯があった。
その尊さは深い森を駆けた女王にしか分からない。
温かさに涙を流し、ようやっと女王の仮面を外した彼女の束の間の休息はいつまで続くのか。
彼女を温める炎は果たして天使の情熱か、悪魔の執念か。