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血に濡れた女王7

 光の聖堂に霹靂が走った。それは世界が反転するような衝撃だった。

 押し倒された華奢な体。鋭い牙を押しつけられた喉元。鼻腔を刺激するのは獣の放つ臭気と濃厚な血の臭い。

 熱を帯びた激痛が電光石火の勢いで肩から全身に広がる。それは気が狂いそうなほどに煮えかえっていて、頭の奥が真っ白に弾ける。

 鼓動と共に痛みはその鋭さを増し、ハニーは形振り構わずに喚き叫んだ。声にならない絶叫が狭い広間に痛々しく響く。 

 その喉すら焼き爛れて、痛みで皮膚が剥がれ落ちていく気さえした。

 もう全てが終わった。そう確信せざるを得なかった。

 ハニーは全てを失った。感情も痛覚も、もしかすれば一番大切なはずの約束さえ……。

 人を人たらんとする理性さえ消え失せ、どす黒い獣に抑えつけられた彼女はただの獲物だった。

 生きている苦しさに顔を歪め、それでもハニーは狼と正面から対峙した。

 ただ、その最後の一握りだけは手放せなかった。 どんな状況に追い込まれても失えないものが人にはある。

 激痛に焦点を失っていた金色の瞳に火が付く。

 それは力なき乙女の中に秘められた不屈の精神力。そして泉のように深い彼女の優しさだった。

 苦痛に呻きながら、自分の下敷きにしている少年の方へと霞む瞳を向ける。


(………に、逃げなさい…)


 そう口を動かしたが、声にはならなかった。

 その代わりにハニーの白くか細い首元から目の覚めるような鮮血が滴る。白い彼女をあっという間に赤く染めるそれは死以外の何ものでもない。

 その雫が華奢な肩を伝い、そして少年のふっくらとした愛らしい頬へと滑り落ちる。

 ゆっくりと流れ落ちる、真紅の涙。その一雫が薔薇色の頬を打った。

 瞬間、湖面に似た瞳が大きく見開かれる。

 ざわりと空気が揺れた。


「つっ……」


 押し寄せる痛みの波に顔を歪め、生を手放すように眼を瞑った。閉じた瞳の向こうで痛みが炸裂したように閃光を放つ。

 色を失った瞳から絶望の涙が音もなく流れ出た。


(もう終わりなのかしら……ダメ……わたし、まだ何も…………)


 その形なき光の影の中に一瞬、懐かしき人の顔が浮かんだ。

 柔らかな微笑みを浮かべる一番大事な親友。その姿は痛みの中に紛れ、瞬く間に霧散する。

 思わず痛みも忘れて、その影に縋るように手を伸ばした。


「エル!行かないでっ!」


 悪魔の使いに喉元を喰らわれても、それでも尚、求めずにはいられない。

 掴んだはずのか細い腕は幻想の中に消えていく。それでもがむしゃらに縋りつこうと、闇から抜け出したハニーは弾かれたように顔を上げた。

 彼女の前にあるは残酷な現実。自分に襲い掛かる漆黒の獣。

 それが全てのはずだった。



 なのに……。



 目を見開いたハニーは戸惑ったように金色の瞳を揺らした。

 目映い光の洪水に目が眩む。

 何が起こっているのか、何一つ理解できない。ハニーの前にあるのは、果たしてこの世の光景なのか。それとも別の世界に、きっと死後の世界と呼ばれる場所に迷い込んだのか。

 その白い闇に広がるは不安定な恐怖だけ。

 噛まれている事実も、自分が置かれている状況もその白い光の中では全てが消え失せていた。

 光の中で動くものに吸い寄せられるように叫んだ。必死に腕を伸ばし、力の限りに引き寄せようとした。

 理由なんてない。だが確信した。それはきっと、ハニーが今一番会いたいと願っている人だから。

 どうか届いて――。


「エルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ~!」


 精一杯の祈りと共に伸ばした手が掴んだのは獰猛な狼だった。

 一瞬のうちに霧散した光の残骸に目を細め、ハニーは押し寄せた現実についていくことができなかった。


(あ、あれ?……エル……)

 

 怯えるように揺れる瞳が捉えるのは黒い獣の薄汚れた毛波だけ。

 狼も光に驚いているのか、ハニーの喉元から口を離して距離を取った。だがまだ険しい目をこちらに向け、飛びかからんばかりに身を低くして低くうなっている。


(嘘よ……確かにそこにいたのに。わたし、あの手を掴んだはずなのに)


 目の前の光景を受け入れられず、ハニーは呆然と焦点の合わない視線を巡らせる。

 金色の瞳が彼女に伝えるのは、ひび割れた神殿の白い床に、血に染まった黒い獣。そして……吸い込まれそうなほどに深い青い瞳。

 鮮烈な青が彼女の心を貫く。

 心が弾けた。

 彼女の心飲み込むその青はまるで遠くゼル離宮の側に広がる湖のようだ。一刻の猶予もなく命の駆け引きをしているはずなのに、なにを呑気なことを考えているのだろう。

 ハニーの冷静な部分が呆れたように叱責しても、その青だけは手放せなかった。

 心に浮かぶのは血生臭い現実ではなく、懐かしい情景。まるで鏡のように穏やかな水面。そしてその湖の側に佇んで、慈愛に満ちた瞳で青い水面を見つめていた美しい人。

 その光景は一瞬彼女の心に平穏をもたらした。

 だが時は止まることなく、刻一刻とその姿を変える。目の前にあるのは残酷で、薄情な現実。

 懐かしい人の面影を見つめていた金色の瞳が映し出したのは黒い毛に飛び散った鮮やかな鮮血。

 不意に自分の対峙した者への恐怖が湧き上がる。


(さっきのは何だったのかしら?……いいえ、今はこいつのことよ。こ、こわい……どうしたらいいの?)


 ハニーは恐怖をごまかすように喉を鳴らした。

 震える手に力を込める。


(……でも、このまま食われる訳にはいかないのよ。わたしにはやらなきゃならないことがあるんだから!)


 絶望の淵にあってもその瞳はまだ希望を捨ててはいない。

 何故だろう。さっきまで押し寄せる死の波に身を竦ませ、脳髄に響く痛みに我を忘れて叫んでいたのに……。

 今の彼女にはまだこの恐ろしい獣と対峙する力が溢れていた。たった一瞬、あの閃光に包まれた瞬間から何故だか不思議な気力が腹の底から湧いてくるのだ。

 もしかするとあの光はエルだったのかもしれない。

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