優しい詩10
思考の森を漂うように進むサリエに構わず、ハールートの口調は更に熱くなっていく。
大げさに拳を握り締めて、語気を震わせている。
「今、私が貴方方に求めるのはこの国の安定です。女王が捕まるのは時間の問題です。教皇様宛に、各国に聖十字騎士団の結成を呼び掛けて下さるようお願いしました。今続々この国に各国の聖十字騎士団が入っております。悪は滅びなければいけません」
「まぁなんと勇敢なのでしょう。素敵ですわ、大司教様。ワタクシも力の限り協力させていただきますわ」
「イ、イオフィエーラ枢機卿にご協力いただければ、百人力。騎士達の士気もあがりましょう!」
しなを作って、艶然と微笑むイオフィエーラにハールートが鼻の下を伸ばした時だった。
重厚なドアを申し訳なさげに叩く音がした。
瞬時に緩んだハールートの顔がしかっめ面に変わる。
不機嫌そうにドアの方へと体を向ける。
「誰だ」
鋭い誰何に、ドアの向こうでかしこまった声が響いた。
「失礼したします。大司教様に至急申し上げたいことが……女王の行方についてなのですが……」
どうやらエクロ=カナンの兵士らしい。
硬い声は現状が思わしくないと暗に伝えている。
ハールートはその声に鷹揚と答えると、イオフィエーラ、サリエ、アシュリの順番に視線を巡らせた。
恐縮するように眉を寄せ、困ったように口元に結んでみせる。
「申し訳ありませんが、少し失礼します。どうやら状況は芳しくないようだ。今、この国を仕切れるのは私しかおりませんので……」
そう断りハールートは部屋を出ていった。
口で協力を求めながらも、現状の報告は聞かせられないらしい。
それがハールートの本音なのだろう。
サリエはくっと喉を鳴らして、横目でハールートを見送った。
バタンと重々しくドアが閉まる音が静まり返った部屋に響いた。
ハールートが去った室内には重苦しい沈黙だけが残された。
互いに互いを信頼していないとありあり分かる空気だけが流れている。
その沈黙を破ったのは意外にもアシュリだった。
「女王を探す」
そう呟いた彼女はサリエやイオフィエーラに聞かせるつもりはなく、自分に言い聞かせているようだった。
一度もサリエらを振り向くことなく、アシュリは濃紺の髪を揺らし、ドアの向こうに消えていった。
パタンッと静かにドアが閉まる音をサリエは窓の向こうに目をやりながら聞いていた。
その表情を見なくとも彼女が何を考えているかサリエには手に取るように分かった。
(どうあっても教皇の指し示す道から外れることはない……か。どこまでも浅はか奴だ)
彼女は自分に下された命令だけが生きる道なのだと信じているのだろう。
その道が揺らげば、彼女の世界は崩壊する。
そうと知っていて彼女に血に濡れた女王を追わせるのだから、教皇聖下も人が悪い。
窓の外はすでに、夜の女王の支配下となっていた。
アシュリの髪のような濃紺が刻一刻と色を濃くする。
あんなにも必死に燃え上がっていた没落の太陽はもうない。
ゆらゆらと闇の中に浮かぶひ弱な灯を見つめ、サリエは目を細めた。
あの灯の届かない、いづこにあの少女がいる。彼女は金色に輝く美しい瞳を逸らすことなくこの城を見据えているのだろう。
そしてまた一人、彼女を追い詰めんと昼間でさえ入ることを躊躇うほど深いゴモリの森に自ら望んで足を踏み出した聖十字を背負う準司教。
自らの足で荒野を駆ける女と教皇の意思を全てと信じ、自ら荒野を突き進む女。
似ているようで、まったく非なる二人がこの広い森で出会うことがあり得るのだろうか。
(愚か者同士、一度出会ってみるのも面白いかもしれない)
余興のような想像に、常に固く引き結ばれたサリエの口元が無意識にほぐれた。
黒い隻眼が星空を映しこんだように煌めく。
だが、瞬く間にその瞳から星が消えた。
あるのは暗く、深い黒のみ。
誰にもその色の意図は読めない。
サリエはその表情を引き締め、自分の背に注がれる熱視線にそれと悟られないよう身構えた。
自分に向けられた視線が彼の背中を舐めていく。
殺気ではない。
殺気とよく似て体に深く突き刺さるのに、殺気とはまったく違う温度を宿した感覚―――それが何なのかサリエはすぐに理解した。
彼はその麗しい顔の所為でいらぬ苦労を強いられてきている。
幼い頃から老若男女問わずこの種の視線を投げかけられることは日常茶飯事だ。
感情の塊のように熱く、激しく、何かしらの期待が込められたその眼差し。
それに気付いて振り返れば、必ず頬を朱色に染めて瞳を濡らした者と目が合うのだ。
あえて気付かぬ振りをして視線の主を焦らしながら、さてどうしたものかと彼は思案した。
視線の主は明白だ。
だがその意図が読めない。
あの聖域一の毒婦が少女のような純情さで自分にそのような視線を投げかける訳がない。
そうなればこれは罠だ。
サリエを籠絡し手札の一つに加えるつもりなのだろう。
サリエは視線に背を向けたまま、嘲笑を浮かべた。
熱視線に犯されて本能に走るとでも思われているのだろうか。
(舐められたものだな……)
そう心の中で、ベタな作戦に出た愚かな女を揶揄した。
だが空気を伝い注がれる視線はサリエの肌をジリジリと焦がし、体の奥底から何かが溢れ返ってくる気にさせられる。
常とは違う感覚に統制の取れたサリエの体が乱されていく。
まるで背中に食らいつかれているようだ。
少しでも気を緩めれば、全てを飲みこまれてしまう。
これが聖域の裏の実力者の、手腕なのだろうか―――。
肉体的な色気だけでない、人の心を虜にする魅惑の眼差し。
これを魔術と呼ばず、何を魔というのだろうか。
改めて自分が背を向けている女の底知れぬ実力にサリエは身を強張らせた。
「やっと、二人きりになれたわね」
耐えきれずに先に声を発したのはイオフィエーラだった。サリエは声に導かれるように、気だるげに部屋の中心に顔を向けた。
黒曜石の輝きを秘めた隻眼に映し出されたのは妖艶な微笑みを浮かべる美女だ。
美女は優美な笑みを崩すことなくサリエの方へと一歩踏み出した。
熱を帯びたエメラルドの瞳は、不思議な色合いを帯びて妖しく輝く。
「ずっと貴方と話したかったの。そう……こうやって、ね……」