優しい詩9
森の中で倒れかかったアシュリを見つけたのはサリエだ。
常以上に青白い顔をした同僚にサリエは一瞬にして彼女の身に起きたことを理解した。
どうせまた妄信的な使命感で無謀な戦いを挑んだのだろう。
大した腕もないのに、やたらに一人で行動したがるのだから、呆れて物も言えない。
今回の件で彼女が派遣されていたなど、サリエには思いもしないことだった。
その事実を知ったサリエは驚くと共に彼女に命を下した教皇を恨んだ。
教皇の意図は簡単に読めた。
教皇は穏やかな顔を浮かべ、きっと諭すようにアシュリの派遣の必要性を彼女に説いたことだろう。
アシュリが絶対の忠誠を誓う教皇の言葉を違えないことを彼は知っている。
アシュリは教皇の言葉は全て真実だと思い込んでいるのだ。
可哀想に、彼女は知らないのだ。
彼女の知っている教皇が見た目だけの人物ではないことを。
教皇にとってアシュリは駒の一つ。
その命など取るに足りないものだ。
彼が見据える世界はこの世界以上に深く複雑だ。
彼女が今回の件で命を落とすことになっても彼の顔は何一つ変わらない。
彼がどういう意図でアシュリの派遣を決めたか、サリエは咄嗟に判断できなかった。
ただ一つ言えることは、彼はアシュリの失態をサリエに拭わせようとしているのだということだ。
極めて傍迷惑な現状にサリエはため息をつき、被りを振った。
教皇は時折、こういう悪戯をサリエに仕掛けてくる。
明らかに必要でないことにサリエの手を煩わせ喜ぶのだ。
それが彼の趣味だとサリエは半ば本気に考えていた。
「手の焼ける」
サリエは顔を歪めて、舌打ちをすると乱暴にアシュリの腕を掴んだ。
しかし、そこは腐っても死の天使。
アシュリはなけなしの力でそれを突き放した。
曰く、同情はいらぬ、と。
その頑なさがどこかの馬鹿な女と被り、サリエは不意に猛烈な怒りを覚えた。
サリエが誰かに怒りを感じることなど滅多にない。
彼を知る者からすれば驚愕の事態で、それこそ空から火の槍が飛んで来てもおかしくないと口を揃えて言うだろう。
もちろん当のサリエ自身も、常と違う自身に戸惑っていた。
彼は淡白な人間ではない。
どちらかといえば峻烈な人間で、静かな激情を長く抱き続ける性質だ。
そんなサリエが普段無感情な人間に思われがちなのは、彼が感情移入する対象が少な過ぎるからだ。
格下の、下等な精神しか持ち合わせていない者に対して何かを思うなど、彼にとっては道端の名もなき草に情をかけると同義である。
もちろんアシュリに対して彼が感情らしいものを抱いたのはこの時が初めてだった。
彼にとってアシュリは不器用で世間知らずな哀れな生き物で、ただの仕事を同じくする者でしかない。
その彼がアシュリを見つめ、自分でも理解できぬ感情の乱れを起こした。
彼にとっても理由など分からない現象である。
ただ一つ思い当たる節があるとすれば、アシュリの真っ直ぐな眼差しが一瞬、じっと自分を見据えて物怖じしない赤い髪の女のそれと被ったことだ。
何故彼女らは自分の身に余る誇りを抱くのか。
そしてその身よりも自尊心が傷つけられることを厭い、どれだけ身を傷つけられても諦めないのか。
身の丈に合わない理想の御旗はそのか細い腕で掲げ続けることなど出来るはずがない。
事実成し得ることなど皆無に等しい。
それは誰が見ても同じだ。
しかし彼女らは共にその事実を頑なに認めないのだ。
血を流しながら、それでも縋りつくように御旗を掲げ続けようと愚かにもがいている。
いや、違う―――サリエはふと考えを改めた。
アシュリはともかくあの赤髪の少女はその事実を知っているように見える。
あの、アシュリ以上に無謀な少女は自身の非力さを知っていて、それでも背負うこともできない信念を手放そうとしないのだ。
「わたしはこの想いのままに動かなければ、死んでしまうわ」
真っ直ぐに見つめられ、毅然と言い放たれた言葉にサリエは衝撃を受けた。
その曇りなき眼差しから彼女が焦りや強がりでそれを口にした訳ではないと、すぐに直感した。
だが自分の感覚が信じられなかった。
一度も間違えを起こしたことない、極めて理路整然とした感性を自ら疑ったほどだ。
力も知性もない、ただの女に自分が圧倒されているなど有り得ない……と。
それは自惚れではなく、極めて冷静に自己分析をした結果である。
人生で初めて出会った、想定外の人間。そんなイレギュラーな存在だからこそ、彼女はこの深い森に囚われることなく、自らの道を邁進していけるのかもしれない。
そんな少女の頑なさとアシュリのそれが重なって、ぶれることのないサリエの感情を揺さぶる。
(非常識この上ない。極めてナンセンスで無意味だ。まぁ……俺には関係ないがな……)
そう一人ごち吐くように吐息を洩らすと、サリエは目の前で今にも行き倒れそうな手負いの獣を見つめた。
小動物のような姿をして、その中身は見た目以上に凶暴だ。
だが、その凶暴さも女王の、尋常じゃない意思の強さを前にすれば可愛らしいものだ。
離せと弱々しく拒否を示し、助けを必要としないアシュリの腹を殴って黙らせ、そのまま肩に担いでゼル離宮まで戻ってきた。
城の門番はサリエらを見つめ、不審感を顕わにしたが、その黒衣に赤の花十字が意味するところをすぐに理解したのだろう。
瞬く間にハールートのいる場所に案内された。
案内された先がウヴァルではなくハールートのいる場所だと知った時、サリエは皮肉げに嗤ったものだ。
もはやこの国は王族よりも聖職者が治めているのだと。
ゼル離宮のハールートの為の部屋に通されたサリエとアシュリの前には先客がいた。
もちろん妖艶な枢機卿イオフィエーラである。
彼女は常と変わらない微笑を湛え、アシュリを担いだサリエに流し目を送った。
「いらっしゃい、サリエ。遅かったのね。待っていたのよ?」
意味ありげな微笑みにサリエはふいっと視線を逸らしたが、そんなつれない態度も彼女はいたく気に入ったらしく、三日月のように瞳を細めた。
部屋の主であるハールートはそんなやり取りに気付くはずもない。
三人を歓迎すると言った口で、すぐに彼らに協力を求めた。
そして今に至るのである。
ハールートの語ることの大半はサリエの知っていることだった。
だがその事実を知りながらサリエはまるで初めて聞く顔でハールートの語る事の顛末に耳を傾けていた。
部屋の中心ではイオフィエーラが大げさに驚愕し、目を見開いていた。
その底の知れない女の隠された横顔を盗み見、サリエは嘲笑を浮かべた。
典礼省枢機卿・イオフィエーラといえば、聖域でも有名だ。
女性の身で枢機卿にまで成りあがったその巧みな政治力や尋常じゃない情報量はもちろんだが、何と言っても彼女の代名詞は豊満な胸元と人を惑わす色香である。
涼しく聡しい頭脳に、したたかで狡猾なやり口。
この女は力ある聖職者や諸国の王侯貴族をその魅惑の頬笑みと肢体で籠絡し、自分の手元に引きづり骨の髄まで利用する。
時には計略を以てその地位を不動のものにしてきた。
表だって動かず、上手に人を動かすことに長けた彼女は、人知れずその根を張り、聖域で毒々しい華を艶然と咲かせている。
ハールートの目に映った姿と真逆の姿がサリエの知る彼女である。
そんな女が一国の行く末を案じて駆けつけるなどありえない。
同僚の枢機卿らの死を悼むように曇らせた顔の裏で、彼女はきっとライバルが消えたことを喜び、美しい笑みを浮かべているのだろう。
それでもサリエはあえて、何も知らぬ振りをしていた。
欺瞞に塗れたやり取りなど興味はない。
サリエは見るともなしに窓の向こうに視線を投げかけ、今は封印された左目にそっと手を当てた。
思い出されるのは昼間のことだ。
再会を果たしたあの少女は、毅然とした瞳で臆することなくサリエを睨みつけてきた。
その覚めるような金色が彼の瞼に焼きついて離れない。
彼女は今頃、森のいづこにいるのだろうか。
ハールートの話などよりも彼女の行方が気になって仕方なかった。
それがいつもの彼らしくない事であると、当の本人は気付いていなかった。




