優しい詩7
「………今お話したことが、今この地で起きている全てでございます。イオフィエーラ典礼省枢機卿猊下、セラフィムの異端審問官サリエ司教殿にアシュリ準司教殿まで駆けつけて、この国の幾末を案じて下さっているとは、思いもよらぬこと。痛み入ります」
ゼル離宮の一室――大司教ハールート・マールートの為に用意された瀟洒な室内で部屋の主と向かい合っているのは、聖域でも名だたる者達だった。
イオフィエーラは女性の身で高位まで上り詰めた、一際異彩を放つ美貌の枢機卿だ。
女性らしいたおやかな感性で、何かと忙しい典礼省を卒なく切り盛りしている。
聖域から遠い辺境の司教を任されているハールートは彼女のことをそう解していた。
先にエクロ=カナンに訪れていた、年ばかりいった、横柄でその癖何の知性もない枢機卿らと比べて彼女は輝いて見えた。
それはサリエやアシュリも同じだ。
彼らはセラフィム大聖堂所属の異端審問官である。
それだけ聞けば一般の者は普通の異端審問官との違いが分からないだろう。
だがセラフィム大聖堂が世界の中枢である聖域一の教会であり、そこを仕切るのが聖域の頂点、教皇聖下であると知れば、自ずと意味を帯びてくる。
彼らは聖域にある列省の一つである最高審問・裁判所所属の異端審問官とは区別して、セラフィムの異端審問官と呼ばれる。
またの名を死の天使―――教皇聖下直属の12人しかいない異端審問並び処刑執行官だ。
彼らは教皇に認められた一握りのエリート集団だ。
彼らが聖域の将来を背負って立つと言っても過言ではない。
普段出会うこともない、聖域の中枢に位置する者との出会いにハールートは心底酔っていた。
辺境エクロ=カナンに留まっている限り出会うこともない者達が自分でこの辺境にやってきたのだ。
この繋がりは先をたどれば教皇にまで行きつくのだ。
こんな機会はきっと二度と巡っては来ないだろう。
だが、浮かべる表情は神妙そのもの。落ち着きはらった瞳を伏せ、窮地に立たされた国の大司教らしく振る舞っていた。
その姿は誰よりもこの国を憂いている、心優しき理想の聖職者だろう。
沈痛の面持ちを浮かべ、ハールートは目の前にいる聖域の頂点に位置する者を見据えた。
「女王は未だ森を彷徨っているようで、残念ながらその消息はまだ掴めておりません。なんとも恐ろしい話です」
そのように話を締めくくったが、誰の口からも何の感想も漏れなかった。
唯一、イオフィエーラの口から甘い吐息混じりに、神への祈りが聞こえただけだ。
だが彼は知らない。
何も言わずに彼の話を聞いている者達が、先ほどまであの深い森の中を血に濡れた女王を求めて彷徨っていたことを。
彼らは互いに言えない秘密を抱えている。
秘めたる野望のままに女王を利用せんとしている。
お互いに腹に何かを抱えていることなどお見通しだ。
何もなく、表面的な正義感だけで、こんな辺境まで来る者など皆無である。
穏やかな笑みを浮かべながら、水面下で腹の探り合いをする。
それが聖域の常套手段である。
同じ聖域に属するものでも立場が違えば敵になるのだ。
敵であるのに友愛の情があるように振る舞うのだから、見るからに敵の姿をしている者の方が好ましいかもしれない。
この寒々しいほど広い部屋もまた聖域同様に欺瞞に満ちていた。
その部屋の中心にハールートはいた。
その向かいではイオフィエーラが、猫足の豪奢なソファに腰掛けていた。
美女は羽根のついた飾り扇で悠然と自分の口元を隠して、ハールートに意味ありげな視線を送った。
「マールート大司教様も大変でございますわね。ワタクシ、他の枢機卿猊下達に遅れてしまって、審判に間に合わなかったのです。それがこんなことになっているなど思いもしませんでしたわ。血に濡れた女王は本物の悪魔でしたのね。嗚呼、恐ろしい!神をも恐れぬ者が本当に存在するなんて身の毛もよだつ思いですわ」
妖艶なエメラルドの瞳を恐ろしげに細め、イオフィエーラは大げさに被りを振った。
綺麗に纏められた亜麻色の髪が一房はらりと彼女の細い項にかかる。
どこまで計算し尽くされた匂い立つような色香だ。
思わずハールートは喉を鳴らした。
彼は一瞬我を忘れたようにイオフィエーラを食い入るように見つめた。
そんな彼にイオフィエーラは何も気付いていないとばかりに不思議そうに小首を傾げ、妖艶な笑みを浮かべた。
「どうなさったの?大司教様」
「い、い、いえいえ、何もございません。むしろ猊下が遅れて来たことに私は感謝致します。貴女のような可憐な女性にはとてもあの惨劇は見せられません。それに多くの枢機卿が命を落としたのです。そう―――女王の凶刃に倒れて………」
慌てて口を開いたハールートだが、すぐに自身の調子を取り戻した。
意味ありげに言葉を切って、遣り切れないとばかりに悲痛に満ちた瞳を伏せてみせる。
彼の意図することを素早く察し、イオフィエーラもハールートに倣う。
美しく輝くエメラルドの瞳を伏せて、沈痛の面持ちで床に引かれた絨毯を見つめた。