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血に濡れた女王6

「そっち、危ない」


「えっ?」


 驚き振り返ると少年の曇りない瞳とぶつかる。戸惑うように少年と目指していた道とを交互に見比べ、ハニーは息を飲んだ。

 目指していた奥の道、その先に何か影が揺らめく。

 ハニーがその影の正体に気付く前に、それはあっという間にその形を現し、行く手を阻んだ。


 それは騎士ではなく、森の狩人である漆黒の狼―――。


 少年の身長ほどあろうかという大型の狼は黒い流れる毛なみに覆われていた。光の聖堂に暗く大きな影を落としている。今にも床からメリメリと起き上がってきそうなほど、その影すら恐ろしい気配を纏っている。

 狂気に満ちた鋭い眼差しでハニーを睨み、大きく裂けた赤い口から刃のような犬歯を見せ唸る。グルルッ…と喉の奥から絞り出したような唸り声が体の芯を震わす。

 獲物をとらえた森の獣の瞳は爛々と輝き、ハニーと少年から眼を離さない。


「何でこんなところにまで狼が………」


 ハニーは殺気立った黒い獣を前に怯えて一歩身を引いた。喉から零れる金切り声は引きつり、つぶれた声が広間にかき消えた。

 絶体絶命である。

 目の前の狼から目が離せるような状況ではない。だが、目下ハニーの不倶戴天の敵は怒轟を上げ、今にもここに辿り着かんとしている。

 後も前も塞がれ進退窮まったハニーに出来るのは、ただただ側にいる少年を守るように引き寄せて抱き締めることだけだ。

 彼女は恐怖に飲み込まれないよう、目にありったけの力を入れて狼を睨んだ。

 睨み一つで狼を射殺せたらどれだけいいだろう。

 血に濡れた女王に対する膨大な誹謗中傷の中にそれに似たものがあった気がする。悪魔と契約し手に入れた邪眼で睨らまれると、たちまち体が痙攣し命を落とすというのだ。


(邪眼が本当にあるなら拝んでみたいもんだわ。本当にそんなこと出来たら苦労しないのよっ!)


 焦燥にかられたその瞳では、狼はおろか自分の運命すらどうすることもできない。

 遠くから「ブラッディー・レモリー」と呼ぶ声がする。迫る悪意、阻む狂気。もう神に祈る言葉さえ思い浮かばない。

 悪魔と呼ばれ追われる身であるが、ハニーは何もできない。真実、狼すら撃退する術を持たない。そう――ただの力なき乙女。

 ハニーは腕に包んだ少年を守るようにぎゅっと腕に力を入れた。


「そんな力が手に入るなら本気で悪魔と契約してるわよ!出来ないからこんな惨めな姿で逃げ回ってるんじゃない!!」


 半ば開き直り、吐き捨てるように叫んだ。

 悔しさが滲んだ涙がハニーの汚れた頬を洗い流していく。僅かに血を含んだ雫が、くすんだ石の床を打った。

 その些細な音に弾かれたかのように狼が飛びかかろうと身構える。


「何、反応してんのよ!早く森に帰って!」


 言葉の通じぬ狼にハニーは悲痛な悲鳴を上げて懇願した。ハニーの背で床に映った小さなハニーが更に身を小さくした。今にも消えてしまいそうなほどハニーの影は小さく蹲っている。

 だが、その言葉が言い終わらぬ内に狼はまるで黒い稲妻のような鋭さで二人の喉笛を噛み千切ろうと迫る。

 風を切り裂き、飛びかかる狼。それは矢の如く、時をも超える鋭さだ。


「くっ!」

 

 ハニーは少年を庇うように祭壇の向こうに押しやった。紙一重のタイミングで自らも攻撃をかわすべく転がるように祭壇の外へと逃れる。

 視界から一旦消え失せた黒が次の瞬間には目の前にいる。

 それは息を飲む間もない一瞬だった。彼女の体がそこを離れた瞬間、剛速の狼がぶつかるように飛んできた。

 まさに黒い弾丸。あまりのすさまじさにハニーの瞳に映った現実がなかなか頭まで届いてこない。

 逍遥とする金色の瞳に映るのはゆっくりと舞う白い破片。白い石の床が弾け、音をたてる間もなく空に飛散している。

 狼が勢いのまま、床にのめり込んだのだ。

 ビリビリと空気を通じて感じる衝撃だけで身が裂けそうだ。

 白い石が砕け、粉塵が舞う。ゆっくりと自分の視界に降り積もる白い粉ごしにハニーは呆然と狼を見つめた。

 これは現実なのだろうか。

 目の前の現実がうまく自分の感覚に馴染まない。いや、もしかすれば考えること全てを放棄してしまっているのかもしれない。

 静謐とした祈りの場に遅れて渇いた音が響く。

 ゆっくりと頭を上げた狼の頭から細かな石の床の破片がぱらぱら落ちる。

 狼の足元は大きく蜘蛛の巣状に罅割れ、隆起した亀裂がハニーの所まで続いていた。

 肌に触れる獣の放つ臭気。細かく粉砕した床の破片。その全てに自分に差し迫る死を感じずにはいられない。

 狂気に囚われた瞳がハニーを射竦めるように向けられる。

 ひっと引きつった声が零れる。


(なんて速さ……そしてなんて力強さ……)


 寸でのところで狼の攻撃をかわしたが、狼の攻撃力に今さらながら恐怖に体が小刻みに震える。

 こんなにも本能で恐怖を感じることがあるなんて……。

 体の奥から伝わる震えをなんとか抑えようと口の端を噛んだが、そんなもので押さえられるほどに生易しい状況ではない。


(な、なんとか、逃げださないと……)


 干からびた喉を潤うそうとゴクリと唾を飲んだが、心の奥底に湧く泉は涸れ果て、彼女の喉からは唾一滴さえ出てこない。

 隣合わせの死に、本能が絶望を感じていた。

 歯の根が合わず、皓歯が滑稽なほどガチガチと音を立てる。なんとか恐怖を抑え込もうと食いしばってみるが、結局無駄な行為でしかなかった。 

 それでもハニーは自分を奮い立たせようと躍起になる。


(ここまで来て狼に食い殺されるなんてお粗末な結末は嫌よ!落ちつけ、まだ終わりじゃない。何かあるはず……考えるのよ……ハニー!)


 どうすればこの事態を打開できるか。

 焦りで働かない頭を必死に稼働させ、次の作戦を立てようとした。しかし懸命に働かしても遠くから迫りくる騎士団の足音が邪魔をし、築いたものが一気に崩れさる。

 近付く足音、唸る狼、空回る心。

 全身を染める生々しい恐怖は確実にハニーの手足を絡めて動きを封じている。

 

「グルルゥゥゥゥゥゥゥゥ……」


 押しつぶしたような声で唸る狼は血に飢えた眼で離れた場所にいる二人を見比べている。

 狼はその獲物を少年に定めたのか、ハニーではなく少年目がけ、助走なく走り出した。黒い一陣の風が少年の身を切り裂かんと迫りくる。


「だめっ!」


 目にも止まらぬ速さで全てを絶望に染める黒い悪魔。

 その姿に恐怖を感じ、動くことさえできなかった。だが視界の端で黒い獣が動いた瞬間、ハニーは弾かれたように飛びだしていた。

 ハニー自身、体が動いた切っ掛けなど分からない。

 ただ頭の中が真っ白に閃光した。その光の中には恐怖など何一つない。

 ぼんやり狼を見つめてる少年。迫りくる狼。表情一つ変えない天使のような少年。黒い狼。金髪の少年。その金色の双眸が織りなす狭い世界が目まぐるしく変わる。

 引き千切れんばかりに伸ばした指の先で、何故だろう。俊敏な狼に反して、こちらはもどかしいほどゆっくりにしか動かない。

 やっとの思いで届いたのは、黒の中の真っ赤な口と清らかに揺れる金髪の僅かな隙間。

 黒と金………。混じり合った二色が同時に金色の世界に映った瞬間、ハニーは心が干上がりそうなほどの絶叫を上げた。

 

「やめてぇええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええ!!!!!!!!!!!」


 鋭い牙が少年に迫るその寸前、ハニーは少年に覆いかぶさった。

 ぎゅっと小さな体を庇うように抱き締めた……いや、抱き締めようとした。

 それよりも早く絶望が彼女を襲う。体の半分が弾けてしまうほどの力で飛びかかられ、ハニーは激しく地面に押しつけられる。

 強か体をぶつけ、痛みに唸る彼女の肩に飛びかかった狼がか細い首元に無情な牙を立てた。

 避ける間などない。

 恐怖に染まった瞳が見たのは、血を滲ませた鋭い切っ先とその先にある自分の……。ぶつんっと肉を裂く音が生々しく耳に響いた。


「ぁぁぁぁぁああああああっっっっ……ぅうわぁぁああああああぁああああああああっぁぁぁぁぁぁ~!!」



 ハニーの世界が真っ二つに裂けた。



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