第9話:ポピーの花畑(前編)
ベテラン冒険者たちを(意図せず)恐怖のどん底に叩き落としてしまった私たちは、気を取り直して「イエロー・ルート」を進んでいた。
しばらく歩くと、無機質な石畳の景色が一変した。
目の前に広がったのは、真っ赤な花畑だった。
視界を埋め尽くすほどのポピーの花が、微風に揺られている。薄暗いダンジョン内とは思えない、幻想的な光景だ。
「へえ、綺麗な場所だな。ダンジョンのオアシスってやつか?」
私は少し足を止めて、花の香りを吸い込んだ。
甘く、濃厚な香り。どこか、繁華街の裏路地で嗅いだことのあるような、頭がクラクラする匂いだ。
《コメント:あ》
《コメント:ここってまさか……》
《コメント:終わった。S級パーティ全滅のお知らせ》
頭上の配信コメントが不穏な流れになっているが、私は気づかない。
異変に気づいたのは、後ろを歩いていた仲間たちの足音が止まったからだ。
「ん? どうした、みんな」
振り返った私は、その光景に言葉を失った。
まず、フェンリルのレオ。
体長5メートルの巨体が、花畑の上でデヘヘとだらしなく仰向けに転がっている。舌を出し、幸せそうに宙を掻いている。
「クゥ〜ン……あったかい……もうお外出ない……ここが僕のお布団……」
完全にダメになっている。引きこもりの夢を見ているようだ。
次に、古代兵器ティン。
直立不動のまま、首だけがグルグルと高速回転していた。
『エラー。思考回路に未定義の多幸感を検知。……素晴らしい。これが「愛」ですか。結論:全人類をこの素晴らしい虚無へ導く(殺す)ことが、最大の慈悲』
ヤバい方向に悟りを開きかけている。
そして、賢者カシ。
杖をマイクのように持ち、岩の上でリサイタルを始めていた。
「わーしーはー大賢者〜♪ すべての魔法を思い出したぞ〜! まずは『水を高級ワインに変える魔法』じゃ! ヒック!」
ただの酔っ払いだ。
「……なるほどな」
私は状況を理解した。
この花畑の花粉には、強力な幻覚・精神汚染作用があるのだ。S級モンスターですら一瞬でトリップさせるほどの劇薬。ここはダンジョンでも有数の危険地帯なのだろう。
だが。
「……俺には、安っぽい芳香剤の匂いにしか感じないんだが」
私は自分の手を見つめた。震えもしないし、視界も明瞭だ。
スキル【素面】。あらゆる状態異常を無効化する地味な力が、この強力なドラッグすらも完全にシャットダウンしているのだ。
私の目の前には、幸せな夢に溺れて使い物にならなくなった最強の魔物たちが転がっている。
この光景、どこかで見たことがある。
そうだ。
終電を逃した駅のロータリーで、泥酔してベンチや植え込みで寝ているサラリーマンたちの姿だ。
「やれやれ……。昼間からいいご身分だな、お前ら」
私はネクタイを緩め、腕まくりをした。
ここから先は、引率係のもう一つの仕事――「酔っ払いの介抱」の時間だ。
《コメント:は????》
《コメント:なんでこのおっさん平気なの!?》
《コメント:ここ「常闇のポピー畑」だぞ!? ドラゴンでも一呼吸で発狂するエリアだぞ!?》
《コメント:この人、精神耐性どうなってるの……?》
《コメント:「やれやれ」じゃねーよ!》
世界中の視聴者が驚愕する中、私はため息をつきながら、幸せそうに寝言を言っている巨大な狼の頬へと手を伸ばした。
(第10話へ続く)




