35,小さな叫びと大きな約束
そろそろ帝宮に戻るのだろうと心の準備をしかけたところで、スティは「最後に行くところがあるんだ」とミュシュの手を優しく引いた。
歩いていくうちに、ふと既視感を覚えたミュシュ。暫くすると、見たことのある看板が目に付いた。
「スティ、ここって」
「……さぁ、ミュシュ。みんながお待ちかねだよ」
殊更優しい笑顔を浮かべたスティは、ミュシュのために扉を開いた。あの日のように、吊るされた鐘がカランコロンと響く。
「ミュシュお姉ちゃん!待ってたよ!」
「エウテ!カリオルさんに……ズジェイさんまで」
「久しぶり、だな」
「元気そうでなによりじゃわい」
懐かしい顔ぶれを目にした途端、ミュシュの視界がふわりと滲んだ。飛び込んできたエウテをぎゅっと抱き締める。
「本当に、子供の武器を使うのが上手だね、エウテ」
「…………煩いよ、スティさん」
ミュシュから離れたエウテは、いつもより勢いのない反論をボソリと呟いた。
「立ち話も何じゃ。中に入っておいで」
「お邪魔します」
奥の部屋に行くと、『ミュシュ、快癒と婚約、おめでとう』と書かれた横断幕と飾り付けがされていた。
ミュシュが目を見開いてそれを見つめている間、スティはラダに持たせていた袋をカリオルに手渡す。
「爺、これお土産ね」
「すまんのぅ。せっかくじゃ、これも出そう。儂はあそこの焼き菓子が好物なんじゃよ」
嬉しそうに袋から箱を取り出し、お菓子やケーキを並べていく。
「スティ、あの……」
「みんなずっとミュシュに会いたいって言っていたんだ。でも、街に出してあげられる状況ではなかったし、帝宮に招けたとしても爺だけだから。今日は最後にここに来るつもりをしていたんだ」
「他人の作ったものでも飲食が出来るようになったとは聞いておったがのぅ。念のために、帝宮の料理人を一人借りておる。それなら安心出来るじゃろう?今日の晩餐はここで食べていくといい」
一人とはいえ、帝宮に勤める料理人を借りるなんて、いくらカリオルが元帝宮楽師長でもそんなことが出来るのだろうか。そう思っていると、
「父上と母上が手配してくれたんだよ」
とスティが教えてくれた。また知らないところで、ミュシュのためにみんなが動いてくれていた。瞳も胸も熱くなり、ミュシュは涙を誤魔化しながら微笑んだ。
「とても……とても嬉しいわ」
「よかった。それじゃあ食事にしよう」
スティの言葉で、ラダが動き出した。どうやらキッチンに向かったようで、すぐに食事が運ばれてきた。
その中で一人、ズジェイだけが恐縮した様子で座っていた。
「お、俺なんかが……帝宮の料理なんて、食べていいのでしょうか」
「誤解から始まったとはいえ、ミュシュをここに連れて来てくれたんだし。ミュシュの身を案じてくれていると知っているからね。それに……街での情報はとても役に立ったよ」
ミュシュはスティのその発言に首を傾げる。二人はいつの間にか連絡を取り合っていたのだろうか。
「ラダから“ミュシュが狙われるかもしれない”と連絡をもらった時にね。多くの影達を貴族の屋敷に向かわせて、街の情報まで手が回せそうになかったんだよ。だから、ズジェイ――警備隊に協力を頼んだんだ」
「ミュシュの……あぁ、いやミュシュ様の……」
ズジェイが話し方を改めようとして、ミュシュは首を横に振った。
「ズジェイさん。私の心は何も変わっていないわ。立場はその……色々と増えたのだけれど。ここに居る三人には、変わらず接してほしいの」
「いや、でも……」
「みんなは、私の恩人なの。行き場を失って、人生にも絶望していた私に……もう一度人の温かさを思い出させてくれた。スティに巡り合わせてくれた。だから、ここでは肩書きなんて全部忘れてほしいの。私も、ただのミュシュで居たいから」
ミュシュにそう願われて、みんな拒否出来るはずもない。カリオルは「儂はお嬢ちゃんが公爵令嬢になろうと姫様になろうと、このままのつもりじゃよ」と朗らかに笑い、ズジェイは仕方なさそうに「分かった」と笑った。
しかし、エウテだけは少し目を伏せたまま俯いていた。なんだか少し元気がないように見える。
帝宮の料理が大人向けで、口に合わなかったのだろうか。そんなことを考えていると、エウテは置かれたカトラリーをぎゅっと握り締めながら、小さく「ズルい」と呟いた。
「それは私に対してだね?エウテ」
「……そうだよっ!スティさんは皇子様で、こんな僕にも優しくて、楽器だって何でも上手くって!」
わっと叫び出したエウテの様子に驚きながらも、その言葉はどうやらスティを褒めるものばかり。「……ん?」とミュシュは首を捻った。
「そんなふうに思ってくれていたの?全く、素直じゃないね」
「煩いなっ!僕にとっての憧れは、ずっとお師様とスティさんだよ!でも……っ、だから……っ」
声を震わせたエウテは、潤んだ瞳でミュシュへと視線を向けた。
「僕じゃ敵わないじゃんか!僕は……、僕はミュシュお姉ちゃんが好きなのにっ」
「……えっ?」
エウテの言葉を予想していなかったミュシュは、虚をつかれた声を漏らした。スティは静かにエウテを見つめている。
「父さんも母さんも流行病で死んじゃって、孤児院に入れられて。楽器の才能があると分かったら、いろんな貴族が引き込もうと僕に会いに来て……みんな怖かった。大人達は僕に気に入られようと必死になって、一緒に住んでたはずのみんなに『お前だけずるい』って仲間外れにされて」
それが、エウテにとっていくつの時のことか分からないけれど。歌姫の才能を見出されて、両親に売られた時……両親も大人達も怖かったのをよく覚えている。
「それを、お師様が助けてくれた。スティさんが、僕に音楽を教えてくれた。ミュシュお姉ちゃんは……僕に初めて心から心配して微笑んでくれた、女の人だったんだ」
こんな幼い目に映った世界が、どれほど心細いものだったのか――その断片が、言葉に詰まっている気がした。あまりにも信用出来る人間が周りに居なかったのだろう。
「スティさんは、ミュシュお姉ちゃんを連れてってしまうんでしょ!?僕なんかじゃ届かないところに……っ。お師様は、いつか僕を置いていってしまう。スティさんは、本当は元から手が届かない人だって知ってた。それなのに、ミュシュお姉ちゃんまで連れていってしまうの?みんなみんな、僕を置いて行くんだ……っ」
「エウテ……」
ぽたりと瞳から零れた涙が、テーブルクロスにシミを作る。立ち上がりかけたミュシュを、スティが制する。
「エウテは賢い子だから、子供だと分かっていても、少し厳しいことを言うよ。今日は笑顔でお祝いするはずじゃなかったの?せっかくの食事の時にそんな話をして、ミュシュを困惑させて」
「ちょっと、スティ!」
「大方、私と並んでいるところを見て、婚約者になったと実感したんだろうけれど……」
スティは頭が痛そうに溜息を吐く。エウテは悔しそうに唇を噛み締め、小さく体を震わせている。
「……分からないよね、スティさんみたいな人に、僕の気持ちなんかっ!」
「そうだね、そこは素直に言うよ。エウテの気持ちは分からない。皇族と平民。環境があまりにも違いすぎる。私はエウテの気持ちを理解してあげられない。――でも、それはお互い様でしょ?」
「……?」
ぎゅっと眉を寄せて、睨むような目でスティを見上げたエウテ。目を真っ赤にして、とても痛々しい。
「楽器が好きで、音楽が好きで。そればかりしていたいのに、皇子としての教養を求められ、興味のない茶会に引っ張り出されて。仲良くなりたいわけでもない人達と、笑顔で接さなきゃいけないんだよ?そんな事してる時間があるなら、楽器を弾いて曲を考えていたいのにさ」
「それは……」
「エウテならそれが出来るだろう?必要最低限な教養は爺が教えてくれて、それ以外はずっと音楽に携わっていられるんだから。それは私がどれだけ望んだって手に入れられないことなんだよ」
エウテを見つめる瞳には、確かに羨望が込められていた。スティは自由気ままに生きているように見えて、様々なしがらみの中で我慢を強いられてきたのだろう。それこそ、マルスミールの政敵にならないよう、上手く立ち回りながら。
静かに立ち上がったスティはエウテの側に寄り、屈んでその頭をポンと撫でた。
「爺も私も、エウテの力を信じているんだ」
「……僕の?」
「そう。これは大人の都合だから、望まなければ頑張らなくていいとだけ先に言っておくね。加護を授かった者でも、平民や下位貴族の楽師は立場が弱く見られがちだ。別にこれは王国に限った話じゃなくて、悲しいことに帝国にだってある話だ」
スティの憂いに、ミュシュは頷く。どうしたって権力や立場が強い者達には、それ相応のプライドがある。そのプライドがいい方へと働く場合もあれば、悪い方へと働くこともある。
「でも、元帝宮楽師長カリオル・ヘルモルトの愛弟子であり、現帝宮楽師長の私が認める楽師。エウテならその座に届くと……本気で思っているんだよ」
「!?」
「矢面に立つことになるエウテは、今以上のやっかみを受けるだろうね。生半可な気持ちで出来ることではないよ。それでも、私やミュシュに置いていかれると言うのなら……自分でここまで上がっておいで」
「うぁっ……」
堪えていた何かがぷつりと切れたように、エウテの頬を伝って次々と涙が零れ落ちた。ミュシュも釣られてもらい泣きをして、静かにラダがハンカチを差し出した。
「人はいつか亡くなるものだ。爺も、私も、ズジェイも、ミュシュだって。それはエウテもだ。年齢的に爺が一番早いのは間違いないだろうけれど」
「おい、儂はまだ元気じゃぞ!失礼な!」
「そう。爺は元気で、もしかしたら何かをきっかけに私やミュシュの方が先に命を落とすかもしれない。この間も刺客を差し向けられたし。権力を持つということは、同時に危険とも隣り合わせになるのだからね」
「そんな……っ」
エウテやズジェイは、さらりと述べられた事実に顔を青くする。カリオルは「まぁ帝宮も一枚岩ではないからのぅ」と顎を撫でている。
「だから、エウテが望むなら、その力で私達を支えるために登っておいで。途中で行き先が変わって、去る者を追わないならそれでもいい。けれど、離れたくないと願うなら、自分の力でその場所に辿り着いてみせて」
「うん……うん……っ」
しゃくり上げながら何度も頷くエウテの背中を、スティは優しく摩る。
「ほら、せっかくの料理が冷めてしまう。仕切り直して、美味しいものを食べよう」
「……僕、鼻かんでくる」
「くくっ、行っておいで」
意地悪く笑ったスティをキッと睨んで、エウテは駆けていく。
「……エウテは大丈夫かしら」
「あの子は強い子だよ。きっと今頃、やってやるって燃えているんじゃないかな」
優しく弧を描く瞳には、慈愛が満ちていた。憎まれ口を叩きながらも、エウテが大切で気にかけているのだと伝わってくる。
「いつか一緒に演奏したいわ」
「そうだね。楽しみだ」
まだ見ぬ未来を胸に描きながら、二人はそっと微笑んだ。
戻ってきたエウテは、「沢山食べる!早く大きくなる!」と息巻いた。その瞬間、描いた未来が案外近いかもしれない気がして、二人は顔を見合せて吹き出してしまうのだった。




