27,再び呼び覚まされる恐怖
帝宮での暮らしにも慣れてきたミュシュ。スティだけでなく、他の皇族の方々とも食事や茶会を重ね、交流を深めている。
けれど、王国から再び書状が届いたこともあって、穏やかな日々の下にはずっと警戒が張り付いていた。
特にラダが王国へ向かってから一週間後。何かの報告を読んでいた時のスティは――口元は笑っているのに、恐ろしいほどの殺気を放っていた。きっとよくない知らせが届いたのだろう。
皇帝陛下が「ミュシュが慣れるまでは引き続き挨拶のみに留めよ」と命じてくださったおかげで、露骨に近付いてくる者は少ない。
それでも、隣には必ずスティかユンが居る状況を作り、一人にならないよう心がけている。
帝宮内を移動する際は勿論、庭に出る時やドレスの採寸さえ、必ず二人ないしどちらか一人と、そのうえ騎士も付くようになっていた。
「今日はこれからどこに行くの?」
「皇妃殿下がお茶に誘ってくださったの。カトカリナ様もいらっしゃるそうよ。スティは?」
「私は響奏棟で仕事かな。先に片付けられるものは片付けておかないとね」
スティは、そう言って肩を竦めて微笑んだ。
皇帝陛下は王国へ、強い返書を送ってくださった。
ミュシュは既に帝国の公爵令嬢となり、第二皇子の婚約者である。返還ではなく、訪問なら応じる――と。
だというのに、王国から返ってきたのは、前回以上の無礼だった。
『認識の齟齬があるようだ。ミュシュ殿は今なお、我が国の筆頭歌姫であり、慣例に従い第一王子レヴィン・ド・ミミシーンの婚約者である。横取りなど無礼の極み。帝国における爵位付与および第二皇子との婚約を、王国は一切認めない』
――と。春になり次第、ミュシュを連れて来いと添えられていた。読んだ全員が揃って溜息を吐いたのは、言うまでもないだろう。
それもあって、スティは第二皇子や帝宮楽師長としての仕事を前倒しで行ってくれているのだ。何か手伝えればいいが、こればかりはミュシュにはどうしようもない。
「夕食は一緒に食べようね」
「うん、そうしようね。頑張ってくるよ」
軽く抱き締められて、抗議を口にする暇もなく、スティは駆け出していた。周囲の文官や使用人達が少し顔を赤らめていて、ミュシュはいたたまれず小さくなる。
「殿下はミュシュ様しか見えてないんだからぁ。……ミュシュ様、ここで立ち止まってたら危ないですからね。行きましょうね」
「え、えぇ……」
ミュシュは両頬に手を当て、顔の熱を取りながら歩く。こんな顔でお二人の前に姿を見せるわけにはいかないと、必死で表情を改めた。
しかし、その努力も虚しく。
「まぁ、顔が赤いわね」
「何があったのかしら?教えてちょうだい」
皇妃殿下やカトカリナには即座に見抜かれてしまった。おかげで何があったか、根掘り葉掘り聞かれてしまう。
「あのアポスティルが……ねぇ」
「恋は人を変えると言いますけれど、アポスティル殿下は正にそれですわよね」
二人はくすくすと楽しげに笑う。微笑ましいものを見るような目で見られて、ミュシュの頬はまた色付いていく。
「アポスティルがミュシュを連れてきて、更には婚約するなんて言い出した時は本当に驚いたのよ?あの子、これまでご令嬢に一切興味がなかったもの」
「で、ですが……これまでも縁談は沢山あったのでは……?」
「それは……ねぇ。けれど、全然興味を示さなかったのよ。マルスミールの政敵になりたくない気持ちが強かったのでしょうけれど、『令嬢達より楽器の方が素直な音をくれるから』と言われた時は、わたくし呆れてしまったもの」
ミュシュは皇妃殿下の言葉に目を瞬く。
「令嬢達より楽器の方が……というのは、一体……?」
「アポスティル殿下は、強い“音の加護”を授かっているでしょう?どうも人の悪意や思惑が感じ取れるそうですわ」
「えっ!?」
加護にそんな作用があるとは知らず、ミュシュは驚きの声を上げた。それを皇妃殿下は「そんな大層なものじゃないそうだけれどね」と付け加える。
「なんとなく分かる、というくらいなものらしいわ。でも、わたくし達にとってそれはとても重要な情報だもの。とても参考にさせてもらっているわ」
「国にとっては大きな恩恵ですけれど……。殿下ご本人には、負担に違いありませんもの」
ふぅ……と息を吐くカトカリナに、ミュシュは眉を下げた。
もし、自分の周囲の悪意や思惑が常に音のように聞こえてきたなら、どれほど心に負荷がかかっただろう。
(それなのにスティは、あんなにも明るく音楽に打ち込んでいるの……?)
音楽を愛し、楽しそうに語るスティの顔を思い出し、胸がきゅっとなる。
「それなのに、よ!こんな可愛らしい子を離宮に匿って、毎日楽しそうにしているあの子を見て、どれだけ嬉しかったか!なのにあの子ったら、全然話を聞かせてくれないんだものっ!」
「確か、『早くミュシュのところに戻りたいんですけど』と言って、報告だけ述べてさっさと立ち去ってしまわれるとか?」
「そうよぅ!あーーんなに釣れない子になるだなんてっ!確かにこんな子なら、目に入れても痛くないから可愛がりたい気持ちはとても分かるけれど」
二人が談笑を交わす中、ミュシュの顔は赤い果実のようになっていた。パタパタと顔を扇いでいると、メイドが静かにお茶を注いでくれた。
気持ちを落ち着けようとティーカップに手を伸ばし、それを口にする。静かに息を吐き、ふと顔を上げると。
皇妃殿下とカトカリナの目が、鋭く細く研ぎ澄まされていた。
「え……?」
何か粗相をしただろうかと息を呑むミュシュに、「貴女ではないわ」とカトカリナがそっと肩を叩いてくれる。
二人の視線の先には、たった今ミュシュにお茶を入れたメイドの、更にその後ろ。ワゴンを押していたメイドが、青い顔をしていた。
二人の表情を見て、突然扉へと向かって駆け出した。
「逃がすわけ、ないんですよねぇっ!」
天井からユンが降ってきて、一瞬でメイドを組み伏せる。信じられない光景にミュシュの心臓はバクバクと脈打ち、胸を押さえた。
「ユン、そのまま拘束しておいてちょうだい。報告出来る者は居るかしら?」
「はっ」
黒装束の影が一人、いつの間にか皇妃殿下の前に跪いていた。
「報告を」
「このメイドは、ストレイツ公爵家の分家にあたる伯爵家の令嬢です。行儀見習いとして務めておりましたが、家からの指示があった模様。ミュシュ様に毒を盛るため、動いておりました」
「ひ……っ!?」
――毒。
その一言で、あの悪夢のような日が音もなく蘇る。
焼ける喉の痛み。
声が出ない恐怖。
歌を失ってしまうかもしれない絶望。
顔を真っ青にしてガタガタと震え出したミュシュを、カトカリナがぎゅっと抱き締める。
「毒が入っていたのは?」
「カップです。ミュシュ様の分だけ、色の違うカップが事前に用意されていました。順番通りに配れば、ミュシュ様の元に行き渡るよう考えたようです。疑われた際は、自身はワゴンを押していただけだと言い張り、お茶を入れたメイドに罪を被せるつもりだったのかと」
お茶を注いだメイドが蒼白になり、「そんなっ!?私は何も……っ」と涙を浮かべて首を振る。
「何もしていないなら安心なさい。きちんと調査はするから。カップは回収しているのね?」
「はっ。既に」
影は頷き、顔を伏せる。皇妃殿下はその横を通り過ぎ、カツンと足を鳴らしてユンの捕らえたメイドの元に近付いていく。
危険なのではと顔を上げるが、カトカリナは「大丈夫よ」と優しい声でミュシュを宥める。
「よもや我が国にも、このような醜悪な行いをする者が居ようとは」
「おゆ、お許し……お許しください、皇妃殿下っ」
「では、お前が飲んでみる?自分で確かめるのなら、それを罰としてもよくてよ」
皇妃殿下の声はとても冷ややかで、じっとメイドを見下ろしている。「わた、私が……飲む……?」と顔を真っ青にし、メイドはボロボロと涙を零し始めた。
そんなメイドからついと視線を外し、影に問いかける。
「どんな毒かは分かっているのかしら?」
「申し訳ございません。まだそこまでは……。現在、別の者に調査をさせております」
「そう。他には?」
「帝国騎士団団長への通達は完了しております。ご命令があれば、ストレイツ公爵家および分家全ての強制捜査が可能です」
淡々と告げられていく事実。重い言葉が続き、ミュシュは固唾を飲んで成り行きを見守る。
「そうね。全員拘束、強制捜査に移りなさい。陛下にはわたくしが後で許可を取ります。調査の結果、関与のなかった家の者には後で詫びればいいわ。気取られて逃げられる方が困るもの。指揮はレニ、貴女に任せます。わたくしの影、ククも連れて行きなさい」
「「御意!」」
いつの間にか跪いている影は二人になっていて、そう思ったら一瞬の内に姿を消してしまった。
レニというのは、スティがミュシュのメイド兼護衛として選ぼうとしていた、もう一人の名前だ。ユンだけでなく、レニもこうして守ってくれていたのだと、ミュシュの心は徐々に落ち着きを取り戻していく。
「ユンはミュシュの護衛に戻りなさい。メナ、代わりにそのメイドを牢へ。ウロはアポスティルに伝えてきてちょうだい。きっとすぐに飛んでくるでしょうから、あの子と一緒に向かってきなさい」
「「御意」」
新たに現れた二人の影。一人はユンと代わり、一人はどこかへ消えてしまった。
「ミュシュ様、大丈夫ですかっ!?」
ユンはすぐに駆け寄ってきてくれて、ミュシュは何度も頷いた。
「ありがとう、ユン。皇妃殿下、カトカリナ様……ごめんなさい、こんな無様を……」
「無様だなんて……恐ろしくて当然よ。貴女にとっては一番の心の傷でしょうに」
「そうよ。尻尾を掴むつもりではいたけれど、まさか毒だなんて……。ミュシュに一番やってはいけなかったことよ」
皇妃殿下はカトカリナの上からミュシュを優しく抱き締め、ぽんぽんと背中を摩ってくれた。
暫くして、「ミュシュ、無事なの!?」と血相を変えたスティが飛び込んできた。
汗ばんだ頬に、風で乱れた髪。どれだけ心配で駆け付けてくれたのかがひと目で分かる。その腕に縋り付くよう手を伸ばした時、思わず涙が零れた。
(スティ……、スティ……っ!)
その瞬間、全員の表情が凍り付く。
ミュシュは、これまで以上に冷えた空気を感じ、ハッと顔を上げる。「スティが来てくれたから、安心したの」と慌てて言い添えるが、ミュシュの涙を見た一同が怒りを膨れ上がらせることになり――。
その日、皇帝陛下の名のもとに、大粛清が始まった。名門ストレイツ公爵家が分家諸共捕縛され、全員が貴族牢に送られたのだ。
しかし――それは彼らにとって、悪夢の序章に過ぎなかった。




