三十二歳、守るための剣
河原に熱が残っている。赤い舌で嘲るようにゲコと鳴いたサラマンダーの前に、少年が一歩進み出た。
「おじさんをいじめるな! 僕が相手だ!」
剣を握る小さな両手は震えていない。背筋だけが真っ直ぐに空へ伸びていた。
その姿を見た瞬間、俺――リーザスの胸裏で、乾いた古い引き出しが音を立てて開く。
――回想。
あの年。羊の鈴の音が消え、森に薄緑の影が増えた日。
ゴブリンの群れに囲まれたエレナを見た時、少年だった俺は、ただ必死だった。
(そうだ……あの時の俺も、大切な人を守ろうとして、ただそれだけで動いていた)
(何のために騎士になる――? 人々を守るために決まってるじゃないか)
しかし、いつからか俺は忘れていた。
(給金を上げたい。馬鹿にしてきた奴らを見返したい。ちやほやされたい。女の子にモテたい……)
(全部、自分のことばっかり考えて、緊張してはヘマばかりだった)
(“誰かを助けたい”でいれば――ノミの心臓なんて、関係なかったんだ)
目の前の小さな背中が、その単純で強い答えを、俺に思い出させてくれた。
火の衣を揺らし、サラマンダーがこちらを見据える。虚無の目。
俺は息を吸った。肺の奥まで冷たい空気を満たし、焦げた掌に水をすくって当てる。熱が僅かに退いた。
(……感謝)
立ち上がり、少年――キリクの横に膝をつく。
彼の手から剣を受け取った。
「キリク。お前は下がっていろ」
「でも、おじさん……!」
「大丈夫だ。俺が必ず、このサラマンダーを倒す」
キリクは唇を噛み、頷いて二歩下がった。
河原の向こうで、サラマンダーがゲタゲタと喉を鳴らし、火照った石のようにゆっくりと歩み寄ってくる。
(大切なのは――守りたいという気持ちだけ)
余計な力を捨てる。肩から肘、肘から手首へ、筋のこわばりを落としていく。
剣は軽く、だが芯はぶれない。脱力の構え。
◇
先に動いたのは、サラマンダーだった。
腹が膨らみ、口が裂け、炎の奔流が吐き出される。狙いは俺と、その背にいるキリク。
「危ない!」
崖の上からニッキーの声、木こりたちの叫びが重なる。
「――はあああああっ!」
剣が走った。
刃は炎に触れない。触れないまま、気の弧が前へ出る。
火は布のように裂け、両側へ割れて流れた。炎は俺の左右を過ぎ、後ろの少年には一滴の熱も届かない。
「ノーダメージ……!」
「お義兄さん、頑張れー!」
「リーザスならできる! 負けるなー!」
声が背を押す。俺は踏み込み、間合いを詰めた。
「おおおおおおおお!」
川石を蹴り、火の衣の温度の境目へ飛び込む。
舌が伸びる前に、刃筋が先にある。
「――これで終わりだ! 飛竜斬岩剣!」
飛竜の弧――見えない刃の先導が、火の衣を剝いだ。
続けざま、斬岩の芯――体の中心で組んだ線を、刀身へ、刃先へ、わずかな狂いもなく通す。
振り下ろした一撃は、熱も皮も骨も、ただ一本の“線”として捉えた。
音は、なかった。
ただ、世界が二つに分かれる感触だけが、掌の奥に残った。
サラマンダーの動きが止まる。
縦に、すうっと線が走り、巨体は真っ二つに割れた。
崩れ落ちる。岩を砕き、水を煮え立たせ、割れ目の底で赤い核が音もなく溶け、マグマとなる。
「……っ」
俺はすぐに後退し、核の流れを導線で挟み込むように、川底の石を切り彫った。
マグマは溝に落ち、水へ触れてじゅわあと白い蒸気を上げる。火は川へ落ち、杉林へは戻らない。
残ったのは熱い湯気と、焼けた石の匂いだけだった。
刃先を下ろす。膝が震える。それが恐怖でないことを、今さら確かめる必要はなかった。
胸は、高揚でいっぱいだ。
◇
気がつくと、天井があった。
目を開ければ、見慣れた木の梁。腕も胴も、包帯でぐるぐる巻きにされている。
「まったく、帰ってくるなりこんな大怪我して……」
妹のマリアが呆れ顔で覗き込む。
「リーザス、ありがとう。キリクを守ってくれて」
エレナがそっと頭を下げ、すぐにキリクが飛び込んでくる。
「おじさん、すごい! 本当にかっこよかった!」
彼の瞳は、あの日の俺と同じ色をしていた。
胸が暖かくなる。
「お義兄さん、さすがです! 本当にありがとうございました!」
ニッキーが深々と頭を下げる。
「いやはや、頼もしい村の用心棒が誕生したわい」
パージが大げさに手を叩き、周囲は笑い声に包まれた。
俺は困ったように笑う。褒められるのは嬉しい。けれど、胸のどこかで別の声が、静かな音を立てていた。
ふと、部屋の隅でこちらを見つめていた母と目が合う。
母はゆっくりと近づき、布団の端に腰を下ろして言った。
「リーザス。――そろそろ、王都に戻ったら?」
「……!」
「あなたは、やっぱり“騎士”になりたいんでしょ?」
言葉が、喉の奥でほどけた。
俺は天井を一度見て、息を整えてから、頷く。
「……うん。この村は平和だけど、この国全体は今、大変だ。魔物も増えてる」
「俺は、この力で、もっともっとたくさんの人を救いたい。だから――」
◇
時間は少し進む。
村の入り口には、人が集まっていた。父が双子を抱き、マリアとニッキーが並び、パージが腕を組み、エレナとキリクが見送る列の端に立つ。
「おじさん、僕もいつか王都に行くよ。その時は一緒に戦おう!」
キリクが胸を張って言う。
俺はふっと笑い、彼の頭をくしゃと撫でた。
「楽しみにしてる」
振り返り、人々を見渡す。
「みんな、ありがとう。――必ず“騎士”になって、戻ってくる」
手を振ると、たくさんの手が振り返された。
背を向ける。
険しい山道が、王都へ続いている。
靴底が土を踏むたび、胸の奥の迷いがひとつずつ落ちていく。
(もう、迷わない)
(俺は、人々を守る“騎士”になる。そのためにできることを――全力でやるだけだ)
朝の光が、斜面の上から差した。
風が背中を押す。
俺は歩き出す。長かった遠回りの路の、その先へ。
読んでくださってありがとうございます!
次回、王都で騎士試験を受けるリーザスは!?
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