三十二歳、嘲りの鳴き声、川音の中で
掌が焼けている。
皮膚が鉄板に押し付けられたみたいにじりじりと音を立て、骨の奥で火の色が咲く。舌が絡みついた剣身は真紅に染まり、握った指から神経が抜けていく。
「ぐおおおおおおお!」
歯を食いしばった声が勝手に漏れた。
サラマンダーの舌はさらにぐっと締まり、柄の根本から熱が上がる。逃げ場がない。指を離したら終わりだ。離さなければ――この手が終わる。
(だめだ! 絶対、離しちゃ――)
じゅうう。
肉が、焼ける音がした。反射で指が開く。
「――って」
限界だ。
理屈が、闘志が、全部まとめて熱に溶けた。俺は投げ捨てるように剣を離し、反転して走った。
「あじじじじじじじじ!」
焼けた掌が風に触れて悲鳴を上げる。転びそうになる膝を叱咤し、川の縁まで一気に駆けた。両手を水へ突っ込む。
じゅうううう――白い蒸気が立ち、痛みが鈍い痺れに変わる。肺に冷たい空気が落ちてきて、頭の中のノイズが少しだけ薄れた。
その時だ。水音の向こうで、ゲコ、と小さく鳴く声がした。
(……鳴き声?)
顔を上げる。
河原の向こうで、サラマンダーがゲコゲコと喉を震わせている。火の衣を薄く揺らしながら、口角――があるのかどうかも怪しい顔を、しかし明らかに歪めて。
(笑ってる……? モンスターが?)
胸の奥に、冷たい石を投げ込まれたみたいな音がした。
さっきまでの恐怖が、別の色に塗り替わる。
(……くそ。バカにしやがって)
だが、現実は残酷に冷静だ。
目の前の相手は“火”そのもの。素手で挑むなど論外だ。舌に絡め取られた剣は向こう側。俺の掌は焼けて、握力もおぼつかない。
「……だが、サラマンダー相手に素手は無茶だ。一回、撤退するか?」
言いながら、崖の上へ視線を上げる。
そこに――いた。
ニッキー。木こりたち。村の面々。
炎の筋に顔を赤く照らされて、皆がこちらを見ている。
「……!」
胸がどくんと跳ねた。
逃げる――という選択肢に、重い錘がつく。
(だめだ。ここで逃げ出したら、村の奴らに笑われる。いや、それよりも――自分が、自分を軽蔑する)
焼けた掌が、まだ熱を宿して疼く。呼吸を整え、再び戦場へ顔を向けた。
◇
その時、サラマンダーの喉がくっと鳴り、舌がわずかに緩んだ。
絡め取られていた剣が、ぽとりと地面に落ちる。
「――!」
(しめた! 拾うチャンス)
脳裏に、映像を早回しで流す。
全力でダッシュして剣を拾う。振り向きざま、斬岩剣――岩すら断つ一撃を、あの“火の眼”へ。
鮮やかな未来図。イメージ通りに――やれれば、楽勝だ。
心臓がとんと鳴る。
次の鼓動に合わせて、俺は地面を蹴った。
(くそ――初動が遅れた!)
気配で悟られたか。
サラマンダーの尾が大気を裂いて舞い上がる。炎を纏った巨大な鞭が、弧を描いて迫った。
避けきれない。
視界が赤に染まり、熱風が顔を焼く。
「ぎゃあああああ!」
背中から叩きつけられ、地面を転がった。火の粉が髪を焦がし、肺の空気が擦り切れる。
(やべえ。大ダメージ……!)
よろめきながら、落ちていた剣を掴む。杖みたいに突き、どうにか体を起こす。
呼吸が浅く、胸が痛い。焼けた掌が柄に触れた瞬間、神経がぴりっと悲鳴を上げた。
(くそ……なんでいつも、こうなる)
騎士試験もダメ。
木こりの仕事もダメ。
そして今度は、サラマンダーごときに――殺される?
(どんだけ、俺は――)
尾が再び舞い、反射で剣を掲げる。
だが、構えが遅い。
炎を纏った一撃が、横腹をさらっていく。
(――カッコ悪いんだ)
自分の心の声が、一番容赦がない。視界が白に弾け、膝が砕ける。
そのまま、俺は川へ――落ちた。
◇
冷たい。
体が水に包まれ、焼けた皮膚から一斉にじゅううと蒸気が立つ。
肺が悲鳴を上げた次の瞬間、冷気が逆に救いになる。熱に焼かれた思考が、急速に鎮まっていく。
(……あれ。そもそも、俺はなんで“騎士”なんか、目指そうとしたんだっけ)
水のざあざあという音に混ざって、記憶の粒が浮かび上がる。
(そうだ。英雄だなんて――煽てられたからだ)
たまたま、ゴブリンの群れを倒したから。
村の人間が口々に言った。「英雄だ」「神童だ」。
それで俺は舞い上がった。王都へ出て、昇級試験に挑んで、十年連続で落ちて――。
(でも、変だよな。当時の俺は、どうしてあんなことが、できた? 今よりずっと、弱かったのに)
答えは、簡単だった。
あの時――俺は、守ろうとしていた。
エレナを。仲間を。羊の群れを。
剣は、自分を飾るためじゃなく、誰かのためにあった。
「――騎士のおじさん!」
川面の上で、声が跳ねた。
水から顔を上げる。
河原の縁で、小さな影が剣を構えていた。
「き、君は――!」
キリク。
エレナの息子。鼻をつんとさせ、強がった目でこちらを見下ろしている。
その向こうで、崖の上からニッキーの声が飛んだ。
「ありゃ隣村のキリクだ!」
「どこから現れた!?」別の木こりが叫ぶ。
「キ、キリク!? 何をしている。逃げろ!」
思わず怒鳴る。ここは戦場だ。子どものいる場所じゃない。
けれど、キリクは一歩も引かなかった。
胸を張り、小さな剣先をサラマンダーへ向ける。
「おじさんをいじめるな! 僕が相手だ!」
その姿に幼き日の自分を重ねた!
――――――
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子供に助けられたおっさんの未来は!?
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