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ノミの心臓のおっさん、竜の心臓を手に入れる  作者: Zoo
第二章 軍事大学校編
30/40

聖山の夜、凍る指

 砂礫が靴底で弾け、息が白くなった。

 グレート・ロック・マウンテン――砂漠の真ん中から刃のように突き上がる黒い巨岩へ向かって、俺は駆けだした。


「くっ、休んでいる暇はない!」


 背後で、膝に手をついて呼吸を整えていたルーカとクレオが顔を上げる。


「くっ、元気なおっさんだぜ」

「リーザスさん、待ってくださいってば!」


 岩壁が視界を占める。指先のかかる僅かな欠け目を探し、最初の一手を掛けた。


(とにかく、全速力で山に登るんだ)


 息を刻み、腕に体重を移し替える。すぐ後ろで誰かが叫んだ。


「くそ、俺たちも!」


 ルーカやクレオを含め、数人の合格者が一斉に走り出す。

 月光に白く照らされた岩肌に、木剣を背負った影が次々と取りついた。


 先頭は俺だ。

 額に汗を滲ませ、岩に体を貼りつけ、足場をたぐっていく。雑念は削ぎ落とす。いま考えるべきは、次の一手、それだけ。


「うおおおおおおお!」


(振り返るな。何も考えずに頂上を目指せ)


 後方からは荒い息が重なる。


「リーザスさん、すごいですね」

「ちっ。夜明けまでに戻るだけで、別に順位争いじゃねえってのに」


 クレオが乱暴に吐き捨てた、そのときだった。

 二人の脇を、何かがすっと風を切って過ぎる。


「……!」

「なんだありゃ……」


 月明かりの中、俺の横に、ふわりと影が浮いた。

 そっと見遣ると、メガネの少女が空中でこちらを覗き込んでいる。


「お先失礼いたしますわね、リーザス様」


「!」


 木剣に腰かけ、空に浮かぶ少女――メルナ・カストラは、礼儀正しく一礼した。

 俺は岩に張りつき、彼女は木剣に腰掛けて上昇していく。その対比が、あまりに理不尽で、笑うより先に顎が固まる。


「わたくし、魔法騎士志望の第十三騎士団内定者、メルナ・カストラと申します。以後お見知り置きを」

「……」


「それでは失礼あそばせ」


 さらりと上へ――まるで夜風に乗る燕のように滑らかだった。


(ばかな……魔法騎士だと!)


 騎士、聖騎士、竜騎士。そこに第4の枠を政府が導入しようとしているとは聞いていた。

 この世界で魔法を扱えるのは、魔族や一部の魔物、あるいは特殊な心臓――魔力炉を宿す者だけ。

 交戦国ゾラは魔物の心臓を兵士へ移植し、魔法を操る魔道兵を生み出して戦争を始めた。

 ならば、あの子にも魔物の心臓が……? いや、別の可能性も――


(いやいや、今は考えるな。目の前に集中――)


 自分を叱りつける。

 だが、好奇心という余計な筋肉が一瞬だけ動いた。


(そういや、他の奴らは今どんな――)


 視線が滑った。


 下を、見てしまった。


 ドクン。

 足先から震えが昇る。

 月明かりの下、切り立った断崖のさらに下に、豆粒みたいな人影が揺れている。風の音が強くなる。体が軽く、遠くなる。


 血の気がさっと引いた。


「あ……」


 指の力が抜ける。石粉がぱらぱらと落ちた。


(あああああああああ……怖い)


 喉が締まり、息が短くなる。涙腺が熱い。頬が冷たい。


(怖いよおおおおお……)


 岩に張りついた手が、ガタガタと震える。

 爪の間に砂が入り、肉が痛い。

 指を一本でも外せば、落ちる――想像だけで胃がひっくり返る。


(だめだ、掴んでいられない……)


 足場に押しつけた靴底が汗で滑りそうになる。

 膝が勝手に笑い、腰が固まった。


 リーザス高所恐怖症、発動。


「ん? なんかおっさんの動きが止まったな」

「休んでいるんでしょうか」


 下からルーカとクレオの声が届く。

 やがて彼らが肩を寄せる距離まで追いついた。


「おい、腹でも痛いのか?」

「顔、真っ青ですよ」


「だい……じょうぶだ。気にするな。先に行け」


 絞り出すように言うと、クレオは肩をすくめた。


「へへっ、じゃあお先に」

「落ち着いたら登ってきてくださいね」


 二人は軽やかに上へと移動していく。

 彼らの背中を追い、他の合格者たちが次々と俺を追い越し――やがて、誰もいなくなった。


 岩肌に張りついたまま、俺だけが取り残された。

 月と星だけが息をしている。

 砂漠の風は冷たく、涙の筋に突き刺さる。


 胸元で、革紐が汗に張りついた。

 指が震えながら、無意識にペンダントへ触れる。


 竜の心臓――ただの石。

 それでも、胸の中の本当の心臓は、ドッドッドッと大きく鳴った。


(ごめん、ビアンカ……俺、こんなに情けない)


 指先をじっと見つめる。

 命綱のように掴んだ小さな出っ張りに、白い指が食い込んでいる。


(でも……どうしても、だめだ。掴まっているのが精一杯で)


 石粉が涙に混じる。

 喉の奥で嗚咽が跳ねた。


(もう少しだけ。もう少しだけ、このまま――)


 時が止まったようだった。

 月は少しだけ傾き、風の音色が変わる。

 砂の匂いが、夜明けの気配を混ぜ始める。


 リーザスは一時間、その場にしがみついた。


 指がかじかみ、腕が痺れ、肩が重くなっても――

 やがて、鼻をすすり、目を拭い、歯を食いしばった。


 泣きながら、もう一度、上を見た。


(行くぞ)


 少しずつ。ほんの少しずつ。

 一手、一手を絞り出すように、体を持ち上げていく。


 岩の表面に、黒い影が走った。

 横穴――風穴のような暗い口が、月光の斜めで口を開けている。


(……あそこに、入れる)


 息を殺し、最後の力で縁へと手を伸ばす。

 指がかかった。肩を押し上げ、腰を入れ、身体を滑り込ませる。


 冷たい空気が肌を撫でた。

 洞窟だ。

 空気が違う。湿り気と、獣の匂い。


 耳の奥で、低い寝息のような音がした。

 粘膜を這うような、重く長い呼気。


 闇に目が慣れる。

 横穴の奥、膨らんだ空洞の中央に――


 巨大な影が丸まっていた。


 翼のようなものが折り畳まれ、皮膜が月光を鈍く返す。

 家屋ほどの胴体、太い尾。

 閉じた瞼の下から、時折、燐光が漏れる。


 飛竜が、眠っている。


 夜明けの青が、洞窟の口をじわりと薄く染め始めた。

 リーザスは口の中の渇きを飲み込み、固く目を閉じた。


(動くな。息も、浅く)


 風が変わる。

 砂の匂いの奥に、太陽の匂いが混ざった。


 刻々と、夜明けの時間が近づいていた。


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