聖山の夜、凍る指
砂礫が靴底で弾け、息が白くなった。
グレート・ロック・マウンテン――砂漠の真ん中から刃のように突き上がる黒い巨岩へ向かって、俺は駆けだした。
「くっ、休んでいる暇はない!」
背後で、膝に手をついて呼吸を整えていたルーカとクレオが顔を上げる。
「くっ、元気なおっさんだぜ」
「リーザスさん、待ってくださいってば!」
岩壁が視界を占める。指先のかかる僅かな欠け目を探し、最初の一手を掛けた。
(とにかく、全速力で山に登るんだ)
息を刻み、腕に体重を移し替える。すぐ後ろで誰かが叫んだ。
「くそ、俺たちも!」
ルーカやクレオを含め、数人の合格者が一斉に走り出す。
月光に白く照らされた岩肌に、木剣を背負った影が次々と取りついた。
先頭は俺だ。
額に汗を滲ませ、岩に体を貼りつけ、足場をたぐっていく。雑念は削ぎ落とす。いま考えるべきは、次の一手、それだけ。
「うおおおおおおお!」
(振り返るな。何も考えずに頂上を目指せ)
後方からは荒い息が重なる。
「リーザスさん、すごいですね」
「ちっ。夜明けまでに戻るだけで、別に順位争いじゃねえってのに」
クレオが乱暴に吐き捨てた、そのときだった。
二人の脇を、何かがすっと風を切って過ぎる。
「……!」
「なんだありゃ……」
月明かりの中、俺の横に、ふわりと影が浮いた。
そっと見遣ると、メガネの少女が空中でこちらを覗き込んでいる。
「お先失礼いたしますわね、リーザス様」
「!」
木剣に腰かけ、空に浮かぶ少女――メルナ・カストラは、礼儀正しく一礼した。
俺は岩に張りつき、彼女は木剣に腰掛けて上昇していく。その対比が、あまりに理不尽で、笑うより先に顎が固まる。
「わたくし、魔法騎士志望の第十三騎士団内定者、メルナ・カストラと申します。以後お見知り置きを」
「……」
「それでは失礼あそばせ」
さらりと上へ――まるで夜風に乗る燕のように滑らかだった。
(ばかな……魔法騎士だと!)
騎士、聖騎士、竜騎士。そこに第4の枠を政府が導入しようとしているとは聞いていた。
この世界で魔法を扱えるのは、魔族や一部の魔物、あるいは特殊な心臓――魔力炉を宿す者だけ。
交戦国ゾラは魔物の心臓を兵士へ移植し、魔法を操る魔道兵を生み出して戦争を始めた。
ならば、あの子にも魔物の心臓が……? いや、別の可能性も――
(いやいや、今は考えるな。目の前に集中――)
自分を叱りつける。
だが、好奇心という余計な筋肉が一瞬だけ動いた。
(そういや、他の奴らは今どんな――)
視線が滑った。
下を、見てしまった。
ドクン。
足先から震えが昇る。
月明かりの下、切り立った断崖のさらに下に、豆粒みたいな人影が揺れている。風の音が強くなる。体が軽く、遠くなる。
血の気がさっと引いた。
「あ……」
指の力が抜ける。石粉がぱらぱらと落ちた。
(あああああああああ……怖い)
喉が締まり、息が短くなる。涙腺が熱い。頬が冷たい。
(怖いよおおおおお……)
岩に張りついた手が、ガタガタと震える。
爪の間に砂が入り、肉が痛い。
指を一本でも外せば、落ちる――想像だけで胃がひっくり返る。
(だめだ、掴んでいられない……)
足場に押しつけた靴底が汗で滑りそうになる。
膝が勝手に笑い、腰が固まった。
リーザス高所恐怖症、発動。
「ん? なんかおっさんの動きが止まったな」
「休んでいるんでしょうか」
下からルーカとクレオの声が届く。
やがて彼らが肩を寄せる距離まで追いついた。
「おい、腹でも痛いのか?」
「顔、真っ青ですよ」
「だい……じょうぶだ。気にするな。先に行け」
絞り出すように言うと、クレオは肩をすくめた。
「へへっ、じゃあお先に」
「落ち着いたら登ってきてくださいね」
二人は軽やかに上へと移動していく。
彼らの背中を追い、他の合格者たちが次々と俺を追い越し――やがて、誰もいなくなった。
岩肌に張りついたまま、俺だけが取り残された。
月と星だけが息をしている。
砂漠の風は冷たく、涙の筋に突き刺さる。
胸元で、革紐が汗に張りついた。
指が震えながら、無意識にペンダントへ触れる。
竜の心臓――ただの石。
それでも、胸の中の本当の心臓は、ドッドッドッと大きく鳴った。
(ごめん、ビアンカ……俺、こんなに情けない)
指先をじっと見つめる。
命綱のように掴んだ小さな出っ張りに、白い指が食い込んでいる。
(でも……どうしても、だめだ。掴まっているのが精一杯で)
石粉が涙に混じる。
喉の奥で嗚咽が跳ねた。
(もう少しだけ。もう少しだけ、このまま――)
時が止まったようだった。
月は少しだけ傾き、風の音色が変わる。
砂の匂いが、夜明けの気配を混ぜ始める。
リーザスは一時間、その場にしがみついた。
指がかじかみ、腕が痺れ、肩が重くなっても――
やがて、鼻をすすり、目を拭い、歯を食いしばった。
泣きながら、もう一度、上を見た。
(行くぞ)
少しずつ。ほんの少しずつ。
一手、一手を絞り出すように、体を持ち上げていく。
岩の表面に、黒い影が走った。
横穴――風穴のような暗い口が、月光の斜めで口を開けている。
(……あそこに、入れる)
息を殺し、最後の力で縁へと手を伸ばす。
指がかかった。肩を押し上げ、腰を入れ、身体を滑り込ませる。
冷たい空気が肌を撫でた。
洞窟だ。
空気が違う。湿り気と、獣の匂い。
耳の奥で、低い寝息のような音がした。
粘膜を這うような、重く長い呼気。
闇に目が慣れる。
横穴の奥、膨らんだ空洞の中央に――
巨大な影が丸まっていた。
翼のようなものが折り畳まれ、皮膜が月光を鈍く返す。
家屋ほどの胴体、太い尾。
閉じた瞼の下から、時折、燐光が漏れる。
飛竜が、眠っている。
夜明けの青が、洞窟の口をじわりと薄く染め始めた。
リーザスは口の中の渇きを飲み込み、固く目を閉じた。
(動くな。息も、浅く)
風が変わる。
砂の匂いの奥に、太陽の匂いが混ざった。
刻々と、夜明けの時間が近づいていた。




