三十一歳、目覚めの時
山は朝が速い。
遠くを見渡せる高台から俺は風を感じながら獲物を探す。右手には年季を感じさせるロングソードのみ。
俺――リーザス・モートンは崖の縁に立ち、眼下の谷を見おろした刃先は風を切って、かすかに音を立てる。
(良い。すこぶる良い!)
大きな犬が足もとで伏せている。毛並みは灰色、肩まである巨体。名をジョンという。
鼻をひくひくさせ、こちらの合図を待っている。
上空で影が動いた。
大きな鳥が朝日を受けて旋回する。翼の影が崖の縁を流れる。
「……はっ」
息を切り結ぶのと同時に、剣を払う。
刃から抜けた気の弧が空を渡り、遠くで鳥の軌道がふらりと傾いた。羽がばらばらと散り、黒い影は谷へと落ちていく。
(よし)
「行け、ジョン!」
俺が指さすより早く、ジョンは飛び出した。岩から岩へ、四肢がばねのようにはね、尾を真っ直ぐに伸ばして斜面を駆けおりる。
ほどなくして、嘴をたたき、翼を畳んだ獲物を咥えて戻ってきた。
「いい子だ」
頭を撫でると、ジョンは得意げに胸を張る。
俺はそれを受け取り、沢へ下りた。冷たい水で鳥を捌く。刃の通りは滑らかで、骨の節を撫でるだけで関節がほどける。
(いよいよ明日が、正騎士の昇格試験だ)
水音に紛れて、自分の声が胸の中で響く。
最後の山籠り。俺は愛犬ジョンと、ここで体と心を整えていた。
(俺は三十一歳。……もう、完全に後がない)
(騎士試験の年齢制限は35歳。だが30を過ぎてなお「正騎士」を目指す者は、ほとんどいない)
自嘲は浮かべない。言葉に形を与えるだけでいい。
枝を拾い、火を起こす。脂ののった鳥肉を串に刺し、焚き火にかざした。じりじりと脂が落ち、香ばしい煙が鼻をくすぐる。ジョンは俺の膝に顎をのせ、よだれが落ちないように必死に耐えている。
(……それでも、心は穏やかだ)
近くの岩に手をすべらせる。
膝をつき、空手で横薙ぎに手刀を振った。指先が空を裂く音と同時に、岩の表面に白い線が走る。
ぱきり、と乾いた音。
岩はきれいに割れ、片側が適度な高さの椅子になった。
(斬岩剣は、極めている。もう、課題ではない)
腰を下ろし、串を回す。肉の表面がこんがりと色づき、匂いが強くなる。
火の向こう側に揺らめく自分の影を眺めながら、俺は心の底でゆっくりと言葉を置いた。
(さらに――上級騎士の技、飛竜剣も)
山の稜線を越える風が、焚き火を揺らす。
あの“飛ぶ”一撃。
剣気を弧に束ね、獣の背筋を駆けるように放つ。届くはずのない距離に、刃を届かせる技。
昨日も、一昨日も、俺はそれを何度も反復した。弧、呼吸、軌跡。迷いはもう、どこにもない。
「もう俺の目標は、試験突破なんかじゃない」
ジョンに焼けた肉を分けながら、火の赤を瞳に移す。
焦げの苦みと脂の甘さが舌に広がった。
「――この国の騎士の頂点、だ」
炎がぱちりと弾け、星のような火の粉が夜空へ昇っていった。
◇
時間は容赦なく過ぎる。
試験会場――騎士団駐屯地の中央広場は、いつもより人の匂いが濃かった。土の上に新しい足跡が重なり、陽に温められた革の匂いが漂う。
「よう、リーザス」
「マルコ」
並んで歩く。
マルコは相変わらず図体がでかく、笑い声もでかい。俺の顔を一目見るなり、口の端を上げた。
「余裕そうだな。今年はノミの心臓、卒業か?」
「もちろん緊張はしてるよ」
胸に息を入れ、吐く。
言葉ははっきりしていた。
「――だが、それ以上に、この一年続けた訓練が自信になってる」
マルコが目を丸くする。
「すげえな。俺なんか、いまだに斬岩剣は三回に一回成功すればいい方だぞ……」
「おーい、リーザス! マルコー!」
広場の向こうから、明るい声が飛ぶ。
サーシャだ。店の連中も手を振っている。暇人、と言ってしまえば身も蓋もないが、こういう「暇人」に俺たちはいつも救われている。
「店のみんなが応援に来てくれたぜ。今年はさすがに受かるだろうってよ」
「はは。じゃあ、今夜は祝賀会だな」
マルコが拳を突き出してくる。
不意を突かれたが、すぐに意味を理解した。
「ああ――やってやろうぜ」
拳を合わせる。
骨に伝わる手応えが、やけに確かなものに思えた。
◇
時間経過。
名が呼ばれる。試験官の声は固くて、広場の空気をまっすぐ切り裂く。
「次、リーザス。斬岩剣を」
「はい」
俺は剣を持たず、素手のまま岩へ歩いた。
ざわ、と空気が揺れるのがわかる。
「お、おい。剣は?」
「……ああ。俺は素手で」
口に出してから、自分でも笑いそうになる。
いや、本気だ。斬岩剣はもう手刀でも通る。むしろ最近は、手刀の方が感覚が良い。
「大丈夫」
振り向いた先で、応援の声が飛んだ。
サーシャの声は人混みの中でもやけに通る。
(ふっ、サーシャめ。あんな大声で……)
胸の奥が、ドクン――と脈打った。
いやな音だ。遠くから近づき、耳の内側で鳴り始める。
(……ん?)
もう一度、ドクン。
喉が乾く。指先が少し冷える。
視界の隅に、試験官の眉間の皺がやけに濃く見えた。
「本当に剣なしでいいのかね?」
「…………」
(やばい。緊張してきた)
俺は剣帯に手を伸ばした。
「え、いや……やっぱ、剣を使おうかな」
試験官が小さく肩をすくめ、少しだけ呆れた目で言う。
「なら、早くやりなさい」
「は、はい」
岩の前に立つ。
呼吸を整え――たいのに、肺の奥がきゅっとすぼむ。
(なんで俺は剣なんか持ってるんだ)
自分に自分で突っ込みながら、心臓はドクドクと騒ぎ、体温が額から逃げていく。
(斬岩剣なんか、極めすぎた。剣圧だけでこんな岩、切れる)
(だから最近はもっぱら手刀でやってたし)
脳裏に手刀で石をスパスパ抜く自分の姿がよぎる。
彫刻を作るみたいに角を落とし、面を整え――気持ちよくなって、余計なイメージが増える。
(しまった。……むしろ「剣で斬る」なんて、いつぶりだ?)
握り直す。掌に汗が滲んで、柄巻きが湿っているのがわかる。
(やっぱり、慣れた手刀でやるべきじゃ――)
指が柄から離れかけた、その時。
「早くしなさい!」
試験官の声が、雷みたいに頭上で弾けた。
「はっ、はい!」
(だめだ。いまさら変えられない)
サーシャの顔、マルコの顔、店の連中の顔。
誰も悪くない。なのに、視線が重くのしかかる錯覚がする。
(大丈夫だ。斬岩剣の型は完璧に身についてる)
(むしろ力を入れず、身を刀に――)
握りを緩める。
「剣も、握るか握らないかくらい……ゆるりと持って」
刃が動き出す。
振りが通る。肩の力が抜け、肘にゆとり。腰の線は――
「――振り切れ!」
刃筋はまっすぐ。
だが、その瞬間。掌の中で、汗がぬるりと滑った。
柄が、指を離れた。
すぽん。
剣が空を飛ぶ。
青い空に銀色の線が走り、観客たちの目が点になる。
俺、試験官、マルコ、サーシャ――全員の顔が同時にひきつり、口が開く。
銀の刃は、くるくる、と三度回転し――
(ど、どこへ行く!?)
俺の心臓は、さっきまでとは別の意味で、最大音量で鳴り始めた。
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