グレートロックマウンテン
夜の砂漠を照らすのは、淡い半月だけだった。
その光を受けて、城塞都市グランバキアの巨大な学舎が静かに眠っている。
寮の二人部屋では、リーザスとルーカが穏やかな寝息を立てていた。
リーザスは毛布を股に挟み、口元を緩めながら寝言をもらす。
「むにゃむにゃ……ビアンカ……」
その瞬間――。
ゴォォォォォン!
重低音が、学舎全体を揺らした。
壁が震え、窓の外では衛兵が大きな銅鑼を叩いている。
「な、なんだ!?」
リーザスは跳ね起きた。
鼓膜を打つ轟音が止まらない。
通路では生徒たちが一斉に戸を開け、寝巻き姿のまま顔を出している。
スピーカーから声が響いた。
「全新入生諸君に告ぐ!」
副校長ダミアンの声だ。
「三分以内に制服・木剣装備のうえ、訓練広場へ整列!
遅れた者から除籍とする!」
廊下が一瞬静まり、次の瞬間には悲鳴のような怒号があがった。
各部屋の扉が開き、生徒たちは我先にと制服に袖を通す。
「ルーカ! 行くぞ!」
「はいっ!」
リーザスは靴を引っつかみ、帯を締めながら廊下を駆け抜けた。
あちこちで転倒音と罵声。
まだ眠そうな顔をした者、片足だけ靴を履いたまま走る者。
混沌そのものだった。
◇
三分後、訓練広場。
月明かりの下に並んだ生徒たちの顔は、皆青白い。
ダミアンは木剣を肩に担ぎ、薄く笑っていた。
「気持ちよく寝てたろう?」
沈黙。
誰も答えられない。
「だがな!」
ダミアンの声が一気に跳ね上がる。
「戦争で敵が“起きてますかー?”と聞いてくれるとでも思ったか!?」
数人がびくりと肩を震わせる。
「これより、地獄の野外訓練を開始する!」
遠く、砂の地平線の向こうを指差した。
そこには黒々とした巨岩の山が月光を浴びていた。
「各自、夜明けまでに“グレート・ロック・マウンテン”の頂上に自分の木剣を突き立て、ここへ戻ってこい!
間に合わなければ――除籍だ!」
ダミアンの怒号が夜空を裂いた。
その声に砂が震え、遠くの飛竜が羽音を立てて飛び立つ。
◇
生徒たちはざわめき始めた。
「グレート・ロック・マウンテンって……」
リーザスは隣のルーカに尋ねる。
「はい。この街の北にある、飛竜が住む聖山です」
月光を受けて、遠くにそびえるその山の輪郭が見える。
まるで巨大な爪が大地を貫いているようだった。
「……行くぞ」
リーザスが言うと同時に、全員が一斉に駆け出した。
砂漠を踏みしめる靴音が重なり、風が巻き上がる。
夜風は冷たい。
だが呼吸するたびに砂を吸い込み、喉が焼ける。
(走るのは昔から得意だ。若い奴らには負けん)
横を走るルーカは息ひとつ乱さない。
(流石だな……この若さでこの持久力か)
その時、後ろから軽い声がした。
「おい、おっさん。無理すんなよ」
振り返ると、長身で整った顔立ちの青年がニヤついていた。
「夜中に急に走ると、中年には心臓に負担がかかるんじゃないのか?」
「余計なお世話だ。誰だお前は?」
「クレオ・クラヴィル。第八騎士団内定、竜騎士志望だ」
彼は軽く顎を上げた。
足並みを合わせながらも、涼しい顔をしている。
「食堂で聞こえたぜ。あんたも竜騎士志望らしいな?」
「……仲良くしたいのか?」
「まさか。飛竜の数は限られてる。あんたみたいなオヤジには、辞退してもらいたいだけさ」
その言葉に、リーザスの口元がわずかに吊り上がる。
「ふん」
次の瞬間、砂を蹴る音がした。
リーザスが加速する。
「なっ……!」クレオの目が驚きに見開かれた。
風を切りながら、リーザスは心の中で語る。
(竜騎士が少ないのは、竜と契約できる人間が限られているからだ。
その枠をめぐって、騎士たちは競い合い、時に蹴落とし合う)
唇が笑いを浮かべる。
(もしかすると、“汚い真似”をする奴もいるかもしれないな)
一瞬、胸の奥に不安がよぎる。
(竜騎士志望なんて言うべきじゃなかったか?……いや、そもそも俺は高所恐怖症だろうが)
だが、すぐに首を振った。
(もしビアンカが敵国に捕らえられているのなら、敵陣深くに潜り込める竜騎士になるしかない)
拳を握る。
(逃げるな、リーザス。もう“ノミの心臓”は卒業しただろ!)
次の瞬間、彼は声を張り上げた。
「俺は竜騎士に――絶対になる!」
その声が砂漠を渡る風に乗り、後方を走る生徒たちの耳にも届いた。
◇
やがて、夜明け前の冷気が肌を刺す。
リーザスは肩で息をしながら、黒い巨岩の前に辿り着いた。
「一位で着いたぞ……ここがグレート・ロック・マウンテンの麓か」
背後から足音。
「ははっ、おっさん、やるじゃねぇか」
クレオが笑いながら追いついてきた。
「リーザスさん、元気すぎですよ……」
ルーカも息を切らせて膝に手をつく。
リーザスは二人を見て、苦笑した。
「二人も随分早いな……引き離したと思ったが、甘くはないか」
続々と他の学生たちが到着し始める。
その中で、リーザスは空を見上げた。
(休んでいる暇はない。登るぞ)
岩肌に手をかける。指先に砂がざらつく。
息を整え、登り始めた。
(グレート・ロック・マウンテン――多くの飛竜が住まう聖なる地)
だが夜の今、彼らは眠っている。
(飛竜は昼行性。夜のうちは襲われることはない)
リーザスは肩越しに東の空を見る。
わずかに明るみ始めていた。
(だが……日が昇った瞬間、縄張りに侵入者がいることに気づけば――)
冷たい汗が背を伝う。
(飛竜は、人を喰う)
それでも彼は、岩を掴む手を止めなかった。
空の彼方には、かすかに光る星。
そしてその向こうに――ビアンカの笑顔が浮かんでいた。




