三十五歳、立ち上がる心臓
空気が止まった。
セルゲオの腕が俺の首を掴み、足が地から離れている。
喉に刺さるような圧迫感。呼吸ができない。
「やめてくれ、セルゲオ!」
パルバーチ所長の叫びが、訓練場に響いた。
「やめねえよ」
セルゲオの目は赤く光っていた。
その眼光に、かつて人間だった頃の温度はもう残っていない。
観覧席の団長たちは、誰も動かなかった。
誰一人として、止める素振りを見せなかった。
沈黙――それが許可の合図だった。
「誰も止めねえってのは、そういうことだろ?」
セルゲオの口元に、不気味な笑みが浮かぶ。
俺の首を掴む手に、さらに力がこもる。
視界が暗くなる。
ドクン――。
心臓が爆発するように鳴った。
「なぁ……」
耳元で唸るような声。
目の前の怪物の顔が歪む。
(こえええええええええええ!)
足元から吹き上がるように闘気が噴き出していた。
それは炎でも風でもなく、圧力そのもの。
空気が震え、皮膚が焼けるように痛む。
(なんて闘気だ……!)
息ができない。思考が細切れになる。
気づけば記憶が引き出されていた。
(こいつのことは覚えている。十年前、養成所で……)
当時のセルゲオは痩せこけていた。
オーガの血を引くと噂されながら、体格は貧弱で、
いつも同僚にからかわれていた。
(あの青年が、今は……)
目の前には、鋼の巨人。
腕は太鼓のように膨れ、額には黒い角が浮かび上がる。
あの頃の弱さは微塵も残っていなかった。
「さっさと引退宣言しろ。殺すぞ」
(……本気だ。こいつは冗談じゃない)
心音が暴れる。頭の中で鼓動が響く。
「……じゃあ」
掠れた声が喉から漏れた。
口を動かすだけで、喉の軋む音が聞こえる。
「殺してください」
訓練場が凍りついた。
「あ?」
「俺は……」
鼻水が垂れ、涙が滲む。
それでも、言葉を絞り出した。
「俺は、騎士になれないんなら、生きてたってしょうがないんだよ!」
その言葉に、頭の中でビアンカの声が蘇る。
――だってリーザスさんは、私の憧れで、世界で一番かっこいい騎士なんですから。
「俺がいらないんなら……殺せよ、この野郎!!!」
その瞬間、セルゲオの目の奥で何かが弾けた。
怒りとも、軽蔑ともつかない光。
「……そうかよ」
低く吐き捨てるような声。
すぐに、訓練場の空気が震えた。
「これは訓練場での事故だ。それでいいな、パルバーチ所長」
「や、やめ……!」
次の瞬間、世界が消えた。
音が消え、視界が光で満たされた。
すべてがスローモーションのように遠くなる。
そして――音が戻った。
ドゴォッ!!
凄まじい衝撃。
拳が空気を裂く音が、雷鳴のように訓練場を震わせた。
その一撃が、俺の胸にめり込む。
空気が体の中から全部抜けた。
首にかけていた布が破れ、宙に舞う。
石造りの壁に叩きつけられ、壁が砕ける。
そのまま外の光が見えたと思った瞬間――
身体が、空へと放り出された。
風を切る音。
遠くで誰かが叫ぶ。
「リーザスさん!!!」
ガストンとミルドの声が、かすかに聞こえた。
だが、世界はもう、真っ白に染まっていた。
次の瞬間、地面が迫る。
ドシャアッ!
衝撃が全身を突き抜け、肺の空気が吹き飛ぶ。
耳鳴りが止まらない。
見上げれば、空。
青くて、広くて、何もない。
ただの石――胸元で転がったペンダントが陽に光る。
力なんか、ない。
ただの石だ。
けれど。
(……ビアンカ。俺は、まだ死ねない)
胸の奥で、何かが静かに脈打っていた。
それが痛みなのか、願いなのか、もう区別はつかなかった。
視界が暗転する。
音も、風も、光も消える。
そして――
リーザスは訓練場の中央に、大の字に倒れていた。




