母ちゃんからの手紙
――夜。
自分の家の、薄い扉の向こうから「うおおおおおお!」という呻き声が漏れていた。
犯人はもちろん俺である。
布団に顔を埋め、両手で枕を抱きしめ、声にならない声を出し続けた。どこにもぶつけようのない悔しさが胸の裏でぐるぐる回って、やっと声に変換されるのがこの情けない唸りだけだというのが、また惨めだった。
(俺は……十二年連続で昇進試験に落ちた)
言葉にすると、現実が重くなる。不思議なものだ。
でも、言葉にしておかないと、今日の失敗も「たまたま」と誤魔化してしまいそうだった。
十二年。
この十二年の間に、同期の何人が昇格し、何人が郊外の駐屯へ飛ばされ、何人が剣を置いたか。全部、見てきた。
俺だけが、足踏みを続けている。
◇
翌日も、城の門は開くし、王都には朝がくる。
雑兵の仕事は、日々変わらない。来訪者の身分を確かめ、荷車の荷を検め、門扉の蝶番に油を差し、時に泥棒を追い、時に迷子を助ける。
俺は槍に体重を預け、往来を無言で見ていた。
(なんでだろうな。普段できる事が、試験になるとできなくなる)
わかっている。
原因は、俺の性格だ。
極度の――あがり症。人前に出た瞬間、喉が塞がり、体温が逃げ、手足が思惑と別の方向へ動く。
戦場では? 不思議と動ける。敵の罵声より、味方の期待より、命の音のほうが静かで、真っ直ぐだからだ。
だが「試験」は違う。
俺の内側に潜む「観客」が、いちばんうるさい。
「おーい、ノミの心臓のおじさん!」
背後から甲高い声。
振り返ると、そこには黒髪を三つ編みにした少女――いや、もう少女と呼ぶには逞しくなった、酒場の看板娘サーシャが、片手をひらひら振っていた。
「誰がおじさんだ、サーシャ。俺はまだ三十歳だっつーの」
「三十歳はおじさんでしょ?」
「ぐ、ぐぬ・・・」
「聞いたわよ、また試験に落ちたんだって?」
「……うっ」
彼女は悪気がない。いつも真正面から切り込んでくる。
だから、痛いところを容赦なく刺す。
「うちの店で残念会やるって。おいでよ。みんな奢ってくれるってさ」
「ほ、本当か」
「出世払いだって。『将来の団長様に貸しを作っておく』って、常連のみんなが」
俺は思わず笑ってしまった。
雑兵の給金は、笑えるほど安い。出世払いという言葉は、どこか救いに聞こえる。
◇
夜。
街外れ場は、いつもの煙と油と笑い声の混ざった匂いで満ちていた。
扉を開けた瞬間、常連が口々に囃し立てる。
「おっ、ノミの心臓!」
「今夜は飲もうじゃねえか、リーザス!」
「出世払いでな!」
カウンターの向こうでサーシャが呆れ顔をしながらも笑っている。
テーブルには顔なじみの連中が揃っていて、その中に俺と同い年の雑兵仲間、マルコの大きな肩も見えた。
「だからな!」
俺は酔が回るにつれ、声がでかくなる。
「俺は本当は実力はあるんだ! 練習じゃ百発百中なんだよ!」
「知ってるぞー!」
「河原で岩を両断してたの見た!」
「城壁の影で木杭を紙みたいに切ってた!」
「見てろよ!」
俺はテーブルの上の空き瓶を掴み、構えを取る。
「手刀でだって――」
ズバッ。
瓶は、笑えるほど見事に真っ二つになって床へ転がり、店内に「おおおおお!」という歓声が渦巻いた。
俺の心臓は、嬉しさで一拍、正しく鳴った。
「ちょっと!」
そこへ、サーシャがトレイで俺の額をぺしっと叩く。
「瓶を無駄にしないでよ! 片付けるの誰だと思ってるの!」
「す、すまん……」
「なーんで、手でもできることが、剣を持つとできないんでしょうね?」
テーブルを拭きながら、半ば本気、半ば冗談かのようにサーシャ。
こっちだってなんでだか知りたい。
「しょうがねえよ。リーザスはノミの心臓だからな」
マルコが即座に回答する。肩で人を押しのけながらジョッキを傾け、泡を髭につける。
「うるせーな、マルコ。お前だって今年も落ちた雑兵同士じゃねーか」
「いやー、俺とお前は違うだろ」
「何がだよ」
「俺は斬岩剣なんて五回に一回成功すればいい方。落ちて当然。だけどお前は、練習では百回中百回だろ? 本番でだけ失敗する」
周囲が「それな」と、妙に優しい笑い方をした。
図星。だからこそ、悔しい。
「結果だけ見たら同じだろ」
「まあな」
「でも、来年こそは受かりたいよな」
「だな。来年こそ」
「じゃあ――」
常連のひとりが立ち上がる。
「万年見習い騎士の二人の、来年の正騎士昇格を祈願して……乾杯!」
「乾杯!」
笑い声。木製のジョッキが触れ合う鈍い音。
俺は笑いながら、胸のどこかがきゅっと痛むのを誤魔化した。
(まあ、いいか。来年また頑張ればいい)
(俺には夢があって、仲間がいて、実力もある――)
(そう俺たちの人生はこれからだ!)
◇
深夜。
家の扉を開けると、室内の空気は冷えていた。
ざらつく喉で水を飲み、靴を脱ぎかけたところで、足先が何かに当たる。封蝋のついた手紙だった。
差出人の文字を見て、胸が少しだけ固くなる。
「……お袋からか」
ベッドに腰を下ろし、しばらく封を切れずにいた。
紙の重さが指に残る。
怖いのだ。
親の手紙を読むのが。
俺は故郷を出るとき「正騎士になったら帰る」と言い残した。
王都へ出て、もう十年以上。
帰郷は、果たせていない。
意を決して、封を切る。
便箋の匂いは、少しだけ樹脂の香りがした。山あいの村の、樹の匂い。
『リーザス、元気かい?』
一行目で、瞼の裏が熱くなる。
『お母さんは五十五歳、お父さんは五十八歳になりました。お前は三十だったかしら。三十の頃は、父さんもまだ山で若い者に負けなかったよ』
母の文字は、若い頃より幾分丸くなっていた。
『今年の試験は、どうでしたか?』
(ごめん、母ちゃん。俺、落ちたよ……)
『お父さんは最近、腰を痛めてね。しばらく仕事を休んでいます。木こりは体が資本だから、若い者に任せるように言ってるけれど、なかなか人手が足りないようで……。あんたが帰ってきて手伝ってくれたら、どんなにいいか――そんな風に考えることもあるよ』
(父ちゃん……)
大きな手。節くれだった指。斧の柄に残った手垢の色。
俺は剣を握るたびに、あの手を思い出す。
『でもね、お母さんは、歯を食いしばってでも「帰ってきて」とは言いません。リーザスが夢を叶えることが、リーザスの幸せだって分かっているから。
あなたは私たちの誇りです。いつだって応援しているよ。お母さんより』
ぽとり、と音がした。便箋に透明な染みが広がる。
俺の涙だと気づくまでに、少し時間がかかった。
(俺は……何をやってるんだ!)
嗚咽が喉の奥でつっかえ、肩が震える。
膝を抱え込むと、狭い部屋がさらに狭くなる。
壁に立てかけた剣が、黙ってこっちを見ていた。
(夢があって、仲間がいて、実力がある?)
(俺たちの人生はこれから?)
口に出してみると、薄っぺらい。
熱だけで膨らんだ風船みたいに、触れたらしぼむ理屈だ。
(認めろよ、リーザス。てめえの人生、とっくに崖っぷちだろ)
頭の中の声が、奇妙に澄んでいた。
「来年だ」
立ち上がる。
「来年、絶対合格する」
剣帯を掴む。鞘が脚に当たって、金具の冷たさが布越しに伝わる。
「だったら、無駄な時間なんか一秒だってないはずだ」
◇
夜の王都は、昼間と違う顔を見せる。
人影の薄い通りに月明かりが落ち、石畳の濡れた部分が銀色に光った。
河原は潮の引いた海岸のように広く、風が川上から真っ直ぐに吹き抜けてくる。
俺は足を開き、砂利を踏み固め、静かに剣を抜いた。
呼吸を整える。
肺が冷たい空気で満ち、血がゆっくりと全身を巡るのを感じる。
余計なことを考えない。考えるべきことはただ一つ。
刃筋。
それだけだ。
「絶対に、来年正騎士になる」
声は誰に向けてでもない。夜に向かって置く、約束の印。
「いや、その先だ。上級騎士に飛び級して、戦場で活躍してやる」
口に出すと、目標は形を持つ。
「そして……騎士団長になって、父ちゃんと母ちゃんを王都に呼ぶ。できれば、そろそろ孫の顔も――」
脳裏に、サーシャの顔が浮かんだ。
慌てて頭を振る。
「ば、バカか俺は。雑念、去れ。全部、剣に注げ!」
剣が振り下ろされる。
空気の皮膜が裂ける音が、薄く鋭く耳朶を打つ。
俺の内側で、何かが「カチリ」と噛み合った。
――飛んだ。
目には見えない。だが確かに、圧が走った。
刃が生むはずのない「余波」が、弧を描いて川面を渡る。
遠くの崖――昼間の訓練場からさらに先、月明かりに白く浮かぶ岩肌に、線が入る。
次の瞬間、岩肌が静かに、しかし確実に、斜めに割れた。
「こ、これは……」
剣先が震えるのは、恐怖ではない。
歓喜だ。
十二年、掴めなかったものが、今、指の腹に形を持って乗っている。
三十の夜。
ノミの心臓と笑われ続けた男は、その夜、遅すぎる一歩を、確かに踏み出した。
◇
河原を渡る風は冷たい。
でも、胸の中には、焚き火みたいな熱が生まれていた。
剣を納め、柄頭に額を当てる。
深く、長く息を吐いた。
(ここからだ。ここから、俺の物語が始まる)
読んでくださってありがとうございます!
開眼したリーザス、ついに次回騎士になるのか!?
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