三十五の夜
「帰りたくないって言ったら、ダメですか?」
「……っ!?」
背中から腕が回ってきた感触に、心臓が一段跳ねる。
抱きしめてしまいたい衝動が、手の甲のあたりでうずうず暴れた。
「……ビアンカは、俺のこと――?」
「嫌いだったら、一人で訪ねてなんか来ませんよ」
耳元で、迷いのない声。
ドキドキドキドキ。
頭の中で言葉が渋滞を起こす。
(待て落ち着け俺/奇跡!?/いや罰ゲーム?/かわいい/え、本当に!?/ハニトラ??/かわいい/俺も好き/かわいい/かわいいかわいいかわいい)
「……っ!」
気づけば、俺はガシッと彼女を抱きしめていた。
腕の中の体温が、こちらの迷いを一気に溶かしていく。
ビアンカが顔を上げる。灯りに照らされた蜂蜜色の瞳が、とろりと潤む。
(ダメだ。理性が負ける)
引き寄せて、ぶちゅっと、やや不器用な音で唇を重ねた。
(止められない!)
二人の呼吸が絡む。
唇が離れて、ぷはっと短く息を吐く。
部屋には二人分のドドドドドという心音だけが残った。
ビアンカは上目遣いで、声を落とす。
「……灯、消してくれますか?」
俺の視界が、カチッと切り替わるのが分かった。
「……ああ」
ランプがふっと落ち、暗がりが部屋を満たす。
背中へ押し寄せてくる彼女の重みごと、ベッドへぽすんと倒れ込んだ。
◇
――長い描写はやめておく。
互いが互いの輪郭を確かめる時間が、ゆっくりと流れた。
手の震え、肩越しの呼吸、こぼれる笑い。
それは戦いではないが、俺にとってはこれもまた本番だった。
(よし……行くぞ)
胸の鼓動がドックンと強く鳴る。
その瞬間――
「……あれ?」
体のどこかで、見えないブレーキが下りた。
汗が冷たくなる。
「ど、どうかしましたか?」
暗がりの中で、ビアンカの声が震える。
「いや、ごめん。ちょっと、待って」
数息。
数分。
数十秒が、数分に感じられた。
「……本当に、ごめん。どうしても緊張して……本当に君と繋がりたいんだけど」
(まただ)
最悪のタイミングで現れる、俺の最大の敵――あがり症。
俺ももう三十五だ。過去にこういう場面がなかったわけじゃない。
なのに、いざとなると、毎回緊張して失敗する。
「リーザスさん?」
「……ビアンカ。実は俺さ、女性とそういう雰囲気になると、毎回緊張して……」
言葉が喉で引っかかる。でも、ここで取り繕う方がよほど不誠実だ。
覚悟を決めて、腹の底から出した。
「……いまだに、童貞なんだ」
暗闇で、ビアンカの目がきょとんと丸くなるのが分かった。
(気づけば、洗いざらい話していた。年下相手の羞恥で、俺のタガが外れたらしい)
「俺が“ノミの心臓”って言われてるの、知ってるだろ? そのせいで、騎士の試験だって十七回連続で落ちた。……本番になると、どうしても震えが――」
言い切るより早く、暗闇がぷっと弾けた。
「あははははははは!」
「……はは」
(もう、いい。失望させたなら、せめてピエロとして笑わせる役くらいはやり切ろう)
ところが、ビアンカは笑いながら、すぐに手を握ってきた。
「なんでリーザスさんって、そんなに素直で正直なんですか!」
「え?」
「私がリーザスさんを“いいな”って思ったの、剣の腕だけじゃないですよ?」
「……」
「騎士志望って、“自分が自分が”の人が多いじゃないですか。
でもリーザスさんは、いつも周りの人を見てる。新人が嫌がる雑用もさっと代わってあげるし、困ってる人がいたら何も言わずに動く。――ずっと、素敵だなって思ってたんです」
目に浮かぶ。訓練後の片付け、破れた鎧紐の修繕、忘れ物の届け――誰も見ていないところで手を動かしてきた、取るに足らない作業の積み重ね。
「……ビアンカ」
「それに――リーザスさんが初めてで良かった」
「……っ!?」
「だって、私も初めてだから。二十は過ぎてますけど……本当は少し、怖かったんです」
胸のあたりで、何かがきゅううんと締めつけられた。
安堵とも、幸福ともつかない、熱のある痛み。
「私、本当にリーザスさんが好きですよ。
いいじゃないですか。時間をかけて、お互いをゆっくり知っていきましょう?」
「……ビアンカ!」
思わず抱き寄せる。
「きゃっ」
小さな悲鳴と一緒に、腕の中に収まる体温。
世界は何も解決していない。俺の欠点も、戦争も、試験も。
それでも――
(何かが大きく変わったわけじゃない。
でも、王都に来て初めて、幸せだと感じた)
窓の外で、夜風が静かにカーテンを揺らす。
心臓が、落ち着いたリズムを取り戻していく。
「――三十五の夜」
呟くと、ビアンカがくすりと笑って、額をこつんと合わせてきた。
「もう歳は気にしないでください」
「……約束する」
暗闇の中で、小さな指切りを交わした。




