三十歳、崖っぷちの昇級試験
王都セイラムの夜は、夜明けの時が近づいていた。
川霧が低く這い、石造りの長橋と石畳を白く濡らす。東の空がようやく薄藍から橙へと溶けていき、街の屋根や尖塔の輪郭に光が縁取りを描いた。
「良いすこぶる、良いすこぶる調子が良い!」
その河原に、ひとりの男がつぶやいた。
――リーザス・モートン、三十歳。
セイラム王国騎士団に所属、肩書は「騎士」。
だが実情は末端の、いわゆる雑兵である。
その手に持たれているのは大剣。刃は朝焼けを受けて薄く金色に曇り、石の肌に光の線を描いた。
目の前にあるのは、人の背丈ほどもある川石。積年の水流で角が落ち、鈍く重たそうな、ただの岩。だが、剣士にとっては確かめの相手に不足はない。
(吸って――)
鼻腔を冷気が刺す。胸が広がる。
(吐く)
喉の奥で音もなく呼気がほどけ、肩の力が落ちる。
握りは深く、肘はわずかに内。踵は砂利の中でぐっと踏ん張り、腰の線が真っ直ぐに立った。
ビュン、と風が鳴った。
刃が走る音は、耳ではなく掌で聞く。衝撃はなく、ただ抵抗が消え、空を切るように軽い。
次の瞬間、岩の表面が——ずれる。
砂粒が音もなく崩れ、その隙間から朝の光が線になって滲み、左右二つの塊は別れを告げるようにゆっくりと倒れた。
「ふむ」
剣をひと息で納める。
河岩の切断面を指でなぞる。
研磨したようにピッカピカだ。
背中に朝日。逆光の中に立つ自分の影が長く伸び、河原の小石ひとつひとつまでくっきりと黒く塗りつぶした。リーザスは確信した。
(時間はかかった。だがまちがいなく今日、俺は騎士になる!!!!)
◇
騎士団駐屯地の中央広場は、朝になると土の匂いが強い。
四角く固められた地面のあちこちに踏みしめた靴跡が残り、木製の訓練人形には昨日の刃こぼれが刻まれている。
その日の広場には、五十名ほどの「候補者」が集まっていた。年端もいかない若造から、俺のように顔に疲れの線が出る歳の者まで。皆、胸甲を磨き、帯剣の柄に手を置き、無理やりにでも背筋を伸ばして見せる。
(みながセイラム王国騎士団所属の正騎士を目指している)
(一応俺も、俺リーザスもセイラム王国騎士団所属ではあるが)
(階級は最下層。雑兵。)
雑兵ができる仕事は、王宮や貴族の屋敷の警護。
戦に呼ばれることはほとんどない。
一方、正騎士になると違う。
貴族としての騎士の身分を与えられ、生涯恩給が発生する。
戦で戦功を上げて、騎士団長にもなれば国の中枢レベルにまで出世できるだろう。
幼き頃、地元のリンドー村で剣の神童と呼ばれ
18歳で村総出で盛大にこの王都に送り出された。
それから12年。
そして俺は30歳になっていた。
この年でまだ「正騎士」に昇格できていない者の将来は、決して明るくはない。
知っている。俺は知っている。だからこそ、今日だけは――。
胸の内側で、太鼓が鳴る。
ドクン、ドクン。
最初は遠い。耳のすぐ外側で鳴るような錯覚がして、次第に近づいてくる。
(大丈夫だ。調子はいい。朝の斬岩は完璧だった。練習だって……)
百回振って、百回斬れていた。汗が眼に入った時でさえ、刃は迷いなく岩を割った。
「次! リーザス!」
試験官の声音が鋭く空を切る。
「はっ、はい!」
名を呼ばれた瞬間、世界の輪郭が僅かに歪んだ。視界の端が白く薄れて、足裏から砂が逃げる感覚がする。
列から一歩進み出る。
汗が、出る。額から、こめかみから、背中から、掌から。
鼓動が音を大きくして、胸郭を内側から叩く。ド、ド、ド。鼓の皮が張り過ぎて破けそうな、嫌な高鳴り。
「本日の試験は――斬岩剣。正騎士の基本スキルだ。試験は一度きり」
斬岩剣。
岩を斬るための剣ではない。心を真っ直ぐ通すための一撃。
それを身に付けて初めて、ひとり前の「正騎士」。
頭ではわかっている。体も覚えている。なのに――。
(できる。できるはずだ。朝は完璧だった。俺は、俺は――)
刃を構える手が、震える。
柄巻きに吸い付くはずの指が、汗に滑る。
視界の中で、岩が、不気味なほど大きい。
周囲の視線が、刺さる。候補者たちの目。試験官の目。城壁の上からの兵士の目。人の気配が波になって押し寄せ、足首を絡め取る。
「いつまで待たせる。早くやれ!」
「はっ、はいいいい!」
喉が乾いて声が裏返った。
叩きつけるように、剣を振り下ろす。
刃は岩に届く前に、空気の中で重くなる。
刃筋はわずかに泳ぎ、肩に余計な力が入り、腰の線が崩れた。
硬い音がした。
岩は、欠けもしない。
手が痺れた。刃の震えが骨に伝わり、肘から肩へ、首のうなじへとぞわりと駆け上がっていく。
試験官の溜息が、遠くでひとつ。
その音が合図のように、俺の世界はふたたび静かになった。
◇
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次回、リーザス覚醒か!?
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