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海…

大いなる生物の母体。

優しく、時には恐ろしく。

命を与え、奪い、果てしなくたゆたうもの。

そのすべてを手に入れながら…

不満げな男が一人、いた。


三界いずれを統べるかを賭けたくじ引きにおいて、手にしたかった天界を逃した海王(ポセイドン)

不正があると文句を付けたら、クロノスの腹から助け出した恩を忘れたか、と返された。

「ゼウスめ…」

銀色に輝く三又の矛を腕に抱えなおして小さく呟く。

なぜ、次男の自分がこんな海の底から弟を見上げなければならない。

せめて、兄のハデスがもう少しごねてくれれば良かったが、彼は冥界という一番大穴っぽい結果にあっさり納得して地下に下ってしまった。

…そういえば、彼は昔からあまり対人関係が得意ではなかった気がする。

冥土に来るのは死者ばかりで、多分その方が気楽なのだろうとポセイドンは決め付けた。


海の者たちが自分に向ける視線をも、彼を苛立たせていた。

けして、不満を表に出すわけではない。

珊瑚や大理石で作られた瀟洒な神殿に迎えられ、毎日豪勢な貢物が届けられる。

少しでも彼に取り入ろうと、自分の娘を寵姫に、と差し出すものも少なくない。

しかし、それはクロノスの御子である自分を畏怖し、宥めるためのものに過ぎないことを感じていた。

今更新しく君臨する海王など、欲しくないのが本音だろう。

女も美酒も宝物も、なんの苦労もなく手に入る。そんな生活は、ポセイドンにとって退屈に過ぎなかった。媚を売る眼差しにも、おべっかや陰口にも飽き飽きする。

そのうち彼は広い海を駆け回り、怪物を探し出しては退治という口実で戦いを挑むのを日課とするようになった。それが今唯一ポセイドンの生活の刺激であり、楽しみでもあった。

…思えば、クロノスを倒すまでオリンポスで戦線を張っていた時が、自分にとって一番の愉悦に満ちた時間だったのかもしれない、とぼんやり思う。

平和な世界には、自分の居場所などどこにもないのかもしれない。

このまま退屈に埋もれるぐらいなら、いっそ天界を賭けてゼウスに戦を仕掛けてみるか…などと物騒な考えが頭にこびり付く。


その夜も、ポセイドンは化け物鯨の群れと対決し、その殆どを銀の鉾で仕留めた。

返り血を身体一杯に浴びながら、戦闘の興奮も冷めてしまうと、奇妙な虚無感が胸を満たす。

「は…ははははは…」

笑い声さえ虚ろに響く。もうどうしても今日は神殿に帰りたくなかった。どうせ、誰も自分を待っている者などいないのだから。

たゆたう波の赴くままに、彼は当て所もなく流されて行った。

やがて、光がいっぱいに差し込む水面に顔が届くまで。


浮かび上がったのは、小さな黒い岩の上。

久々に、海の上の景色をその瞳に納める。

一面の月夜だった。

波は銀色に輝いて穏やかに揺れ、水晶のように澄んだ風が彼に触れた。

その風が、不思議な音色を運んでくる。


くすくす…くすくす…

ポセイドンはそちらに目を凝らす。

美しい島の入り江が、月光を浴びて大きな舞台のように闇に浮かび上がっていた。

そこで、笑いさざめく楽しげな少女たち。

ある者は楽器を奏で、ある者は歌を唄い、そしてある者はそれにあわせて優雅に踊った。

4~50人は居るだろうか。一人一人がさえ際立って美しく、長い髪に煌く石や花を飾り、白い腕を上げ、ふわふわと美しい衣装を棚引かせて舞う姿に、ポセイドンは目を奪われた。

金色の髪、銀色の髪、漆黒の髪。入れ替わり少女の髪が揺れて漂う。そのうちの、濃い栗色の髪に、真珠のような肌が映える少女が、ふと、ポセイドンの方を振り返る。

「…アンピトリテ」

姉のテティスがその名を呼ぶ。

「どうかしたの?」

「…いいえ。誰かがこちらを見ていたような気がして…」

「誰もいないみたいだけど…」

ガラテイアが海の方に乗り出して波間を見つめる。

ポセイドンの青い髪と銀の瞳は、完全に海と一体になっており、岩の陰に隠れると彼女達でさえ見つけることが出来なかった。

「ねぇ、それよりも踊ってよ、アンピトリテ。私が楽を奏でるから」

妹にそうせっつかれて、アンピトリテは微笑み、踊り始めた。

膝まで垂らした長い髪が、後光のように彼女を彩る。

黒い瞳が月光に透けると、深い紺青になることにポセイドンは気付いた。

”あれは…誰だ?”

何故あんなに魅惑的な笑みを浮かべ、何故あんなに優美に踊れるのだろう。

今や、大きな獲物を前にしたような興奮が、ポセイドンの身体を包んでいた。それでいて、心はどこまでも穏やかに澄み渡って、満ちていくのを感じる。


あの少女が欲しい。

海界に来て初めて、ポセイドンが自ら欲したものだった。



「キャー!!!」

鋭い悲鳴が、ポセイドンの意識を引き戻す。

黒い影が入り江から島へと上陸しつつあった。

巨大な体躯、鋭い鍵爪、そして片目は潰れて血が流れている。

その痛みのためか、体を振り空を引っ掻き、少女達に襲い掛かかろうというように見えた。

「何故、化け物鯨がこんな場所に!!」

踊りの輪はちぢに乱れて、少女達は恐怖の声を上げながら逃げ惑う。

”しまった、討ち漏らしか?!”

ポセイドンは矛を構え、波の上を走リ出した。


「テティス!みんなを纏めて!逸れないように連れて逃げて!!」

アンピトリテは、手近に落ちていた先の鋭い巻貝を手に取り、鯨に向って構えた。

「アンピトリテ、無理よ!お止めなさい!!」

テティスは悲鳴のように叫ぶ。しかし、キッと鯨を睨み付けた濃紺の瞳は揺るがなかった。

「ネレウスの娘に爪を向けるなんて、恥を知りなさい!!」

少しでも時間稼ぎになればいい…。悲痛な思いを乗せて紡がれた挑発の言葉は、まったく別方向の声によって応えられる。

「やれやれ、とんだお転婆だな…まぁ、それも悪くはないが」

とん、と長身の男が島の土を踏む。僅かに癖のある長い青髪。鋭くも透き通った銀色の瞳。見つめられるとぞくりとするような美貌はとても荒ぶれる海神とは思えなかったが、その手には確かに三又の矛が握られていた。

「ポ、ポセイドン、様…」

テティスの呟きに、アンピトリテはこの方が…と目を見開く。

新たな海の王に、長女のテティスはネレウスと共に目通りしていたが、アンピトリテは顔を合わせるのは初めてだった。

「悪いが、この女は俺が先に目をつけた。代償は高いぞ?」

鯨に向ってその矛を突きつける。相手は一瞬怯んだが、元より自分の目を潰した敵に容赦する様子もなく襲い掛かる。

思いの他俊敏な爪の動きにアンピトリテはひやりとしたが、海神の方が更に素早かった。

飛び退いた岩も砕かれて、鋭く矛が舞う。突き刺さった鯨の頭を支点にして、背後に回りこむ。痛みに声を上げる鯨の爪は、無茶苦茶にポセイドンを切り刻もうとする。

それを迎え討つ彼の顔を見て、アンピトリテは手を握り締める。

”この人は戦いを楽しんでいる…”

相手を傷付けることも、自分が傷付くことも厭わぬその眼差し。

鯨の抵抗が大きければ大きいほど、愉悦に満ち満ちて見える。

やがて、ドン!!と大きな揺れが島全体を襲った。ポセイドンが地震を起こしたのだ。

少女達は岩や樹にしがみついて、震える声を上げる。

「まるで、あの男も化け物だわ…」

返り血に濡れて、自らも傷を作りながら、地震によって体勢を崩した化け物鯨を易々と仕留める…。

その姿は、化け物同士の戦いのようだった。

動きが止まるまで切り刻み、完全に鯨が息絶えると、戦いの悦を味わいつくした銀の瞳がぐるりと彼女達を振り返った。

きゃあ…と恐れをなして逃げ出した少女たちの中で、アンピトリテだけがそこに留まりその瞳を真っ向から見つめ返す。

「……お前は俺のものだ」

ポセイドンは、彼女に近付いて細い手首を掴む。

「俺が命を救った。だからお前は…」


パァン!!


高い音が夜の闇に響き渡る。

「ふざけないで下さい!!」

アンピトリテは怒っていた。本気で。

平手打ちした方の手がじんじん痛んだが、そんなことは気にならない。

「こんな入り江で地震なんか起こして!どんな被害が出るか考えないんですか、貴方は!…それに、自分もこんなに傷だらけになって…!貴方はこの海を統べる王なのですよ!それを…」

月光を浴びて輝く濃紺の瞳が涙で潤む。何故、この少女の怒鳴り声はこんなに心地良いのだろう、とポセイドンは不思議に思った。

恩人であることも忘れ、本気で怒り、それでいて自分を心配する素振りも見せる。無鉄砲で、果敢で、勇ましい。

「…俺はお前に求愛しているのだが」

「だから、ふざけないでと!テティスにも同じことを仰ったのでしょう?」

「彼女は愛人にならないかと誘っただけだ。お前には、本気で求婚している」

唇を奪おうと顔を近づけると、今度は自由になる方の手でぺしぺしと小さく叩かれる。

「そんな人の本気は、信用できません!!」

「俺のどこが不満だ?」

眉を顰めて不機嫌げに問うと、アンピトリテは思わぬ力で手首を振り切り、小走りに逃げていく。

「…戦いを好む人は嫌いです!!」

彼女の最後の言葉が、ポセイドンの頭を激しく打ち付けた。


全アイデンティティを否定されたような気がする…。

あまりのショックに、アンピトリテを追いかけることも出来ぬまま、ポセイドンはしばしそこに立ち尽くした…。






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