みんなお陀仏 MLBの豪腕 ライン・デュレン
100マイル超えのコーナーぎりぎりの豪速球がスタンド上段まで運ばれることもあれば、ど真ん中の90マイルがバットにかすりもしないこともある。ライン・デュレンのストレートは大谷翔平や山本由伸ほどの球速はなくとも、打者の恐怖心を煽り、打席で硬直させてしまうほどの魔力を持った恐るべき魔球だった。
仮にもプロ野球選手が、デッドボールを怖がるようになってはおしまいである。一度、頭部にぶつけられたり、顔面付近をビーンボールまがいの球で攻められたりしただけで、腰が引けて踏み込めなくなり、体力的には何の問題もないにもかかわらずレギュラーの座を失ってしまう選手だって少なくない。だからこそ、それを逆手に取って、厳しい内角攻めを生命線とする投手がいるのだ。
もちろん、メジャー一流のスラッガーともなると、ビーンボールやデッドボールに対する恐怖を克服した者ばかりだが、そんな猛者連中でさえ対戦を恐れた豪腕投手がいた。名将ケーシー・ステンゲルをして「もし頭に当たったら、お陀仏だぞ」と言わさしめた往年のリリーフエース、ライン・デュレンである。
超ど近眼のデュレンは、牛乳瓶の底のような度の強い眼鏡をかけたいかにも野暮ったい男である。ところが、彼がひとたびマウンドに上がれば、眼鏡を外し忘れたままスーパーマンのコスチュームに身を固めたクラーク・ケントのように、火を噴くような豪速球で並み居る強打者たちを手玉に取るのだ。それも変化球は滅多に放らず、ほとんどストレート一点張りである。それでいて打てないのは、デュレンはホームベースがぼやけて見えるほど視力が低いため、球がどこに来るかわからないからだ。
球速が一〇〇マイルを超えるノーラン・ライアンやアロルディス・チャプマンもノーコンの部類ではあるが、細かいコントロールが苦手というだけで、危険球が多いわけではない。ところがデュレンのストレートときたら、とてもキャッチャー目がけて投げているとは思えない方向に向かってくることも珍しくはなかった。それも、故意でビーンボールを投げているわけではないため、投げている本人は悪びれることもなく、行き先のわからない豪速球をビュンビュンと投げてくるから余計始末が悪い。
実際、国から障害者認定を受け、福祉手当まで受給されていたデュレンは、自動車の運転免許すら取得できなかった。弱視がひどく、矯正視力でさえ運転には不適格と判断されたのだろう。これでは捕手のサインがよく見えないのも当然で、捕手にとっても、サインを見間違って投げないように常に神経を使わなければならない投手だった。
とある日のナイトゲームでのこと。デュレンが振りかぶったところで、球場全体が突然の停電で真っ暗になった。間もなく停電は復旧したが、照明がついたとき観客が目にしたのは、ホームプレートから十メートルは離れた場所にうずくまって頭を抱えている主審と捕手と打者の姿だった。
デュレンはといえば、照明が落ちると同時に投球動作を止めて、マウンドに突っ立っていたが、投球方向にいる三者は危険を察知して一斉にホームプレート付近から飛びのいたのだ。無防備な打者はともかく、プロテクターをつけている主審と捕手までが逃げ惑ったくらいだから、デュレンの速球の威力がいかに危険視されていたかがわかるだろう。
デュレンのプロ生活は一九四九年、ウィスコンシンのステートリーグ、ウォーソーからスタートした。当初は先発オンリーで投球回数を超える奪三振と、それとほぼ同数の四死球を連発する典型的なノーコン豪速球投手だった。
一九五三年、2Aサンアントニオでの好投が認められ、初めてメジャーから声がかかった。2Aで十二勝十二敗、防御率二・六三、二一二奪三振というのはまずまずの成績だが、投球回数二〇二イニングスで一九九個もの四死球があった。
一九五四年にボルチモアオ・リオールズからメジャーデビューを果たしたのも束の間、先発で三回にナックアウトされ、この一試合だけで、再びサンアントニオに送り返されている。
その後も一時的にカンザスシティ・アスレチックスのマウンドを踏む機会はあったが、メジャーでは全く使い物にならず、またしてもマイナー落ち。ようやくメジャーに定着できたのは、一九五八年、ヤンキースでリリーフを任されるようになってからのことだ。
すでにデュレンは二十九歳になっていた。
時のヤンキース監督、ケーシー・ステンゲルは、前年に3Aの先発で十三勝二敗という安定した成績を残したデュレンをあえて抑えに回した。先発で突然コントロールを乱して手がつけられなくなってはどうしようもないが、短い回数ならば、調子が悪いとみたところで、即座に次の投手にスイッチして、また翌日にリリーフに起用することも出来るからだ。
それにステンゲルには、あれほどの豪速球をリリーフで全力投球させれば、メジャーの強打者といえどもそうそう打てるものではないという確信があった。
監督の思惑通り、デュレンはリリーフに転向してからは投球が安定した。四十四試合に登板し、六勝四敗、防御率二・〇二、リーグトップの十九セーブの活躍ぶりでヤンキースのリーグ優勝の一翼を担うまでになった。
九十五マイル(一五三km)の荒れ球の威圧感は抜群で、対戦する打者の多くは、バッターボックスに入った瞬間から、五体満足でその打席を終えることを祈っていた。マイナー時代には、投球がダイレクトでベンチにいる選手を直撃したという信じられないようなエピソードを残しているだけに、バッターボックスに入ること自体が、地雷原に放り出されたも同然だったのだ。
初出場のワールドシリーズでは、第一戦こそ延長で打たれて黒星を喫したものの、第三戦、第五戦ではブレーブス打線をなで斬りにし、ワールドシリーズ制覇にも貢献している。九回三分の一投げて被安打六、失点二、奪三振十四はリリーフエースとしては申し分のない成績だった。
翌一九五九年も三勝六敗、防御率一・八八、十四セーブの好成績でリーグ屈指のリリーフエースとしての地位を確立したが、一九六〇年のワールドシリーズでの好投を最後に不振に陥り、一九六一年のシーズン途中でドジャースにトレードされた。
ドジャースでは一転して先発を任されたものの、六勝十二敗、防御率五・一八と振るわず、再びリリーフに戻っている。
一九六二年からは中継ぎ中心となったが、選手生活晩年の一九六四年が四十六回三分の二回で被本塁打一、一九六五年も三十四回で被本塁打一とその球威は健在だった。
しかし独り相撲のピッチングはさらに拍車がかかり、奪三振と同じ数の四球を連発しているようではベンチもたまったものではない。
一九六五年、すでにアルコール中毒に陥っていたデュレンは、セネタースを解雇されたショックで衝動的に飛び降り自殺を図ろうとするが、人格者で知られる監督のギル・ホッジスから諭され、何とか自殺は留まった。
その後、デュレンは改心し、アルコール中毒を克服した著名人としてもよく知られる存在となった。
全盛期は短かったが、デュレンの印象は強烈だった。リリーフで出てきてウォーミングアップを始めると、いきなり豪速球をバックネットに叩きつけるのがお約束で、次はホームプレートの手前にのめり込むような暴投、それから次第にキャッチャーミットに収まるように微修正してゆくところが何とも芝居がかっていて観客を喜ばせたものだった。
一九八九年度製作のパラマウント映画『メジャーリーグ』の監督・脚本を手掛けたデビッド・ウォードは、デュレンをチャーリー・シーン演じる主人公のリッキー・ボーンのキャラクターの参考にしている。
『メジャーリーグ』は、とんねるずの石橋貴明が選手の一人として出演していることもあって、日本でも大ヒットしたが、ガレージロックの名曲「ワイルドシング」の大合唱をバックにマウンドに向かうリッキーは、風采の上がらない黒縁眼鏡のノーコン豪速球投手で、まさに現代版デュレンだった。
現役時代のデュレンの綽名は「ブラインド・デュレン(盲目のデュレン)」だったが、映画のリッキーの愛称である「ワイルドシング」の方が、野性味溢れる彼のピッチングに合っているように思う。
映画の主題歌でもある「ワイルドシング」は、奇しくもデュレンが引退した一九六五年の年末にワイルドワンズというロックバンドがリリースし、それをカバーしたトロッグス版が一九六六年に全米ヒットチャート第一位に輝いた名曲である。
当時は、選手ごとのテーマソングを球場で流す習慣がなかったが、もしデュレンがもっと遅く生まれていれば、映画のリッキーさながらに球場を盛り上げていたに違いない。
ちなみに殿堂入りの名二塁手、ライン・サンバーグ(カブス)は、父親がデュレンのファンだったことから、ラインと名付けられたそうである。デュレンはまさに記録より記憶に残る名選手だったといえよう。
視覚障害者がMLBのマウンドに立つこと自体が奇跡だが、ミッキー・マントル、ロジャー・マリスのMM砲が並ぶ無敵ヤンキースのリリーフエースとしてヤンキースタジアムを興奮の坩堝に叩き込んでしまうなんて、まさに映画の世界である。才能ある天才児のアンビリーバボーな活躍もいいが、デュレンのようなハンディを背負った選手がスポットライトを浴びる世界の方が、私たちも幸せな時間が過ごせそうな気がする。




