(7)寂寥の夜社
前回のあらすじ
由比凪の鎌鼬に切られたと言う少女、蒼の話は明らかに「鎌鼬によって救われた」と言えるもので、現在起きている被害とは矛盾していた。
どちらが本当の鎌鼬なのか。矛盾の中、三咲はある可能性に思い至るのだった。
深夜。
「はぁ……」
音無き夜に大きな吐息が響く。
足下の石ころさえ見えない、暗すぎる参道を登りながら。
「ここの参道は案外長いのう……疲れてきたわ」
「お前は肩に乗っているだけで、歩いているのは僕なんだけどな」
「不来方交通は揺れが酷くてのう」
「誰が不来方交通だ」
どうやらこいつは僕を乗り物だと思っているらしい。
僕らが黙れば、参道には足音だけが異様に響く。昨日も静かだったが、日が沈み切っているせいだろうか。鬱蒼と茂る静寂は一層不気味だった。
「この辺りは寂しいな。妖の気配もない」
「無理もなかろう。生命を奪う神の参道、それが朽ち果てた跡じゃぞ? 気味悪がって誰も近寄りゃせん」
「……生命を奪う神、ね」
「なんじゃ、誤解じゃとでも言いたげじゃな? 確かに蒼の話と矛盾するんじゃよなぁ。一体どういうことなんじゃ?」
「それを確かめるために来たんだ」
そうこう話している内、覆われていた視界が開け、蒼い静寂の月明かりが差し込んだ。
僕らを見下ろす赤い鳥居。淡い月光に眠る孤独の社。それはまるで、もういない誰かをずっと待ち続けているかのようだった。
人に造られ、人に忘れられ。そして誰にも思い出されることのない、死んだ場所。それでもあの社は誰かの再訪を願い、眠り続けている。繁茂する苔と蒼月の明かりに蝕まれながら。
物悲しい。……けれどあまりに幻想的だ。
「葦裁ー! 邪魔するぞー!」
シキの一声は誰に受け止められることもなく、ただ夜の洞に吸い込まれていった。呼び声は消え入り、耳鳴りがするほどの静寂に満たされる。
「……おらんのか?」
「改めて確認するが、葦裁はこのハサミがなければ人間に危害を加えられない。信じていいか?」
「大したことは出来んはずじゃ」
「なら留守は好都合だ。今の内に調べさせてもらおう」
この神社でまだ調べていない場所といえば、やはり正面の社……なのだが、僕はまず鳥居の前から敷地内を観察した。
社まで細く伸びた簡素で短い参道に、足の折れた絵馬掛け、そして背の低い鳥居のすぐそばの石柱に『葦裁神社』と彫られている。
目につくのはその程度。あっさりしたものだ。
「ここは正式な神社じゃないな」
「む、三咲も気づいたか」
「一般的な神社の形式を模してはいるが、社務所も手水舎も、葦裁がどんな神かという紹介の類すら見当たらない。参道も短く簡素な上に社自体も小さなもの。神に感謝と祈りを捧げるためというより、願いを聞いてもらいたい人間側の都合が強く見られる。神社の形態は様々だが、公に認知されているとは思えないな」
「じゃな。間違いなく田舎のローカル神社。素人が見よう見まねで作った感が出ておるわ」
「その割には一応……綺麗に作られてはいるみたいだが」
「わからんなりに一生懸命建てたんじゃろう。なに、マナーだの作法だの、守れておらんから即不敬というわけでもあるまい。夜景もよく見えるし、神社全体の雰囲気もなかなか悪くないぞ? 努力は認めよう」
「どの立場なんだお前は」
次に僕が向かったのは、足の朽ち折れた絵馬掛け。
散らばった絵馬をスマホのライトで照らすと、僕らの間に流れる空気が一気に固くなった。冗談を交じえた軽薄な空気は一瞬にして消え失せ、僕らは自然と息を詰めていた。
嫌でも目に入る暴力的な字体と願い。読む前から心臓がゾッと竦む。
「胸糞悪い光景じゃな」
シキの言葉に心の中で全面的に同意しながら、絵馬を一枚一枚丁寧に観察していく。
『あのバカが死にますように』
『由比凪市××町×××-×在住 小学校教員○○は生きるに値しません。アイツのせいでみんなひどい目に遭っています。何度もお願いしていますが、被害者の気持ちを救うためにも早く殺してください』
『本当に神なら俺の嫌いな奴を全員殺してみ?』
他にも似た内容の願いが掛けられている。
その文体は平静を装うもの、苛立ちに任せたもの、静かな恨みが積もったもの、ヘラヘラ書き殴ったものと様々だが、どの絵馬にも共通して願われているのは『他人の不幸』。徹底してそれだけが願われていた。
僕と一緒に文字を追いかけていたシキだったが、ついに我慢ならないといった声を上げた。
「まったく手前勝手な連中じゃ! 遊び半分のふざけた輩に、他人をダシに正当化しおる卑劣な輩! どいつもこいつも!」
「言う通りだな。けど今はこの絵馬掛けからわかる情報を確認しておこう」
僕は宥めるようにそう言ったが、シキは冷め切らぬ怒りに口を尖らせる。
「むぅ……そんなもの、やはり葦裁は殺しと人切りを願われる神。そして切り裂き魔じゃったということじゃろ? あの弱々しい態度もわしらを謀る演技じゃったんじゃ」
「確かにその可能性もある。葦裁という神は、ちゃんとした社まで建てられ、実際に殺しや不幸を願われる神だった。少なくともそれは間違いない」
「可能性って……あのなぁ三咲? 人間に祀られる神には由来と専門性があるんじゃ。学問の神に恋愛成就や家内安全は願わんじゃろ? つまり、一枚残らず他者の不幸を願われている葦裁は、間違いなく人を呪う残酷な神でしかあり得ん」
「そうかな」
「そうじゃよ。他の可能性が考えられるか?」
「蒼が救われたという証言は?」
「あれは……別件とかじゃろ」
「僕は同一の可能性も十分あると考えている」
「な、なんじゃと?」
海色の大きな瞳を丸くするシキ。僕は大量の絵馬を照らしながらひとつ、ゆっくりと大きく頷いた。
「葦裁という神はおそらく……縁切りの神だった」
「縁切り……? そうか縁切りか……」
「ああ。病、災害、悪人……そういった悪いモノとの縁を切り、良縁を新たに繋ぐ余地を作ってくれるのが縁切りだ。死んだ家族に囚われて道を外れかけた蒼も、死者との縁を切ることで前向きに生きる道を取り戻した」
「縁切りは救いの神であることがほとんどじゃが、一方で解釈を歪められることも少なくない。例えば……『他人との縁を切ってくれる。たとえ相手の命を奪ってでも』とか、な」
「不幸の絵馬と蒼の証言。一見相反していた二つは、縁切りという線で矛盾なく繋がる」
「うぅむ……」
シキは未だ納得いかない顔で唸った。
「確かに辻褄は合うが、少々強引ではないか? 大体、縁切りの神じゃというなら、多少は善き願いも掛けられていて然るべきじゃ。呪いを司る人切りの神じゃからこそ、全てがこのような絵馬なのではないか?」
「そう、『一枚残らず全て』が他人の不幸を願っている。まさにそれが問題だ」
「……?」
首を傾げるシキに僕の考えを説明するため、まずは問いかける。
「満場一致のパラドックスという言葉を知っているか?」
「知らん」
「正直でよろしい。大雑把に言えば、人によって差が出るべき状況において大勢の意見が満場一致に近い場合、その結果の信憑性はむしろ低くなるという理屈だ」
「へぁー……なるほど……?」
「……例え話でもしてみようか。僕が『好きなアイスのフレーバー』について、クラスメイトにアンケートを取ったとする。結果はどうなると思う?」
「そんなのまず王道のバニラが大半を占めるじゃろ? その次にチョコとかミックスが続いて、ミルク、イチゴ、抹茶辺りが続く。で、イロモノがちょろっとある。おふざけとかウケ狙いの答えをするやつもおるかもしれん……大体そんな感じじゃろ」
「しかし結果はチョコアイスが百パーセントを占めていた……そう言ったら?」
「はぁ!? なんじゃその結果は!? おまっ、不正を働いたじゃろ絶対! それか訊き方が下手くそじゃったんじゃないのか!?」
「あくまで例え話だよ」
怒りのあまりブルドッグの如く喉を鳴らすシキ。彼女をどうどう宥めながら、話を続ける。
「満場一致のパラドックスというのはそういうことだ。作為や偏り、欠陥無しに大勢の意見が百パーセント一致することは考えにくい」
「むむ……なるほどのう。よくわかったが……この絵馬にそのなんちゃらドックスは当てはまらんのではないか? 呪いの神には呪いを願うもの。好みや個人差とは話が違うんじゃから」
「たとえ葦裁が呪いの神だとしても、その解釈を勝手に広げた願いの一つや二つ、あるいは全く関係のない文言を書いた悪戯があってもおかしくない。いや、遊び半分に人の死を願う連中が来ていた治安の悪さだ。もっと収拾がつかない状態の方が自然だと思わないか?」
「つまり……意図的じゃと? 葦裁を呪いの神に仕立てようとした誰かが、作為的に善き願いの絵馬を持ち去ったと言いたいのか?」
「もちろん可能性の話だ。僕の方こそ自分の信じたいように事実を歪めて見ているのかもしれない。ただ……」
「……ただ?」
僕は絵馬掛けから目を離し、静かに顔を上げた。
蒼い月明かりがよく似合う、初夏の夜が広がっている。大きな木漏れ日のように差し込む光が、孤独な社を静けさで包んでいた。
「見えるか。この景色が」
ここは、寂しい場所だ。
孤独に朽ちる社。鳥居の向こうには由比凪の街が遥か遠く、星々のような明かりを点々と灯している。
地上の星の数だけ、そこには人間が息づいている。煌々と輝く星は、近づきすぎると眩しくて立ちくらみがする。
だからきっと、人には孤独を求める瞬間がある。
星空を遠くに眺める。そんな孤独に寄り添う。静かで綺麗な場所。
「この場所も、葦裁も……誰かを傷つけるために生まれてきたとは思えない」
論理性のない、これはただの印象に過ぎない。自分の感情に振り回されれば真実を見失うし、妖とは古来より人を欺く。それは僕自身一番よくわかっている。
けれど。
「騙されていてもいい。誰にもわからなくてもいい。けど可能性が残されている間だけでいいから信じたい。僕がこの目で見たモノと、感じたモノを」
「三咲、お前……」
僕の言葉を受けたシキは大きな瞳をさらに丸くしてきょとんとしていた。その戸惑ったような表情が心臓を揺さぶる。
シキは愉快げに口角を上げた。
「いひひっ。お前って案外繊細じゃよなぁ? そういうところがわしは好きじゃぞ?」
「僕は可能性の話をしただけだ。切り裂き魔にしろ縁切りにしろ、決めつけるにはまだ早い。それだけだ」
「なぁーんじゃ照れておるのかぁ? んんー?」
「…………」
シキの鬱陶しい視線から逃れるように背を向け、僕はさっさと次の調査に手を付けることにした。
次に調べるのは社の中だ。
前回は首輪が先に出てきたこともあって調べ損ねた。せっかくなら葦裁のいない内に調べてしまいたい。
朽ちた扉は開け放たれていた。確か前回は閉じていたはずだが。
「葦裁は中にも……おらんか。開けたまま出ていったのか?」
「妖も換気くらいするだろう」
「ふむ。まぁそれもそうじゃな」
中を照らしてみると、朽ちて埃が舞ってはいるものの空気は淀んでいなかった。廃屋と呼ぶべき状態ではあるが、葦裁は今でもここに住んでいるのだろうことが僕には一目でわかった。
「葦裁はここで静かに暮らしているみたいだな」
「わかるのか三咲? 人間には完全な廃墟にしか見えんじゃろ?」
「人間の目で見ればそうだな。だが妖が棲みついた場所はなんというか……匂いでわかる。本当になにもいない場所とは少し違うから」
「それは霊力の残滓を感じておるんじゃよ。五感とは別の感覚でな。お前ほど澄み切った霊力を持っておると、気配の残滓であっても繊細に感じ取りやすいんじゃろうな」
「その説明じゃ人間には伝わらないぞ」
「お前に伝わればよい」
言葉では説明しがたいが、無人の場所でも妖が棲みつく場所とそうでない場所にはハッキリとした違いがある。
霊感のある人間が『いる』場所を感じ取れるようなもの、と言えば多少伝わりやすいのだろうか。わからない人間には無意味な虚言にしか思えないだろう。だが誰に理解されずとも、違うものは違う。
足を踏み入れると床が鶯張りに軋んだ。中は決して広くはなく、最奥には神体を祀る祠があるだけ。外から見た通り最低限の造りだ。
「神社の中に祠ぁ? というか、こっちは一応拝殿ではないのか?」
「本殿と一緒になっているんだろう。元々はあの祠に小さな神体を祀っていただけなのかもしれないな」
「つくづく適当じゃのう」
神体が収められているはずの祠を開けてみると、祠の中はもぬけの殻だった。だが僕もシキも特に驚くことはない。
「空だが……あのハサミが神体として納められていたと見るのが順当か」
「まぁそうじゃろうな。即ち、あの裁ちバサミは葦裁そのものじゃ。……片割れのハサミというのは縁起の悪い印象じゃがな」
シキの苦々しい声色が、僕にふと考えをよぎらせた。
「……そういえば、ハサミのもう半分はどうしたんだ?」
「もう半分?」
考えてみれば、そもそもハサミが半分に割れていること自体がおかしい。失われたもう半分がどこかにあるとすれば、探してみる価値はある。
そう思ったのだが。
「わしは最初から半分の状態で祀られておったんじゃないかと思うが」
「どうして?」
「よいか? 葦裁がその裁ちバサミに宿った、あるいはそこから生まれたのじゃとすれば、あやつとハサミは一心同体。本体と言っても過言じゃない。そんな魂の宿った物が真っ二つに割れればただでは済まん。心宿りし物が壊れる時、生命も失われる……わしら妖にはままあることじゃ」
「……そうか。そうだったな」
心の宿った物が壊れる時、同時に生命が失われることがある。
大切なモノを亡くして生きる心が折れてしまう……という精神的な話ではなく、妖の命と実際に強く繋がっている場合がある。
そのことを僕はよく知っているはずだった。なのにその発想に至らなかったのは、思い出したくない記憶を無意識に避けているせいだと、自分でよくわかる。
「どうした三咲? 顔色が悪いぞ?」
「……なんでもない。半身のハサミから葦裁は生まれた。それがシキの見解か」
「んじゃ。仮に死なずともああも平然と己を保っておるとは考えにくい。ほれ、御神木を切ると祟られると言うじゃろ? 枝先を切られただけでブチ切れて祟りを起こすくらいには大事なんじゃから、真っ二つともなれば……のう?」
そういえば……初めて会った時も僕らから逃げるよりハサミを隠すことを優先していた。あれは凶器を隠していたわけじゃなく、神体を守ろうとしていたのだろうか。
周囲の捜索を再開しながらそんな考えを巡らせる。本殿に戻すよりも、自分が懐に隠し持つよりも、埋めてしまった方が安全だと咄嗟に考えた……あり得ない話ではないか。
引き続き社の中を観察する。床、壁、天井とスマホのライトが白く照らす。
「見たところ、独り暮らしの廃屋にしては空気に清潔感があるな。誰かを招き入れるみたいだ」
「考えすぎじゃろ。ただ綺麗好きなだけかもしれんし」
「さすがにそうかもしれないが……ん?」
足の裏にふと違和感を覚えた。
床板の一枚から妙な感触がする。体重をかけると他の場所よりも深く柔らかく沈み、軋んだ音を立てた。照らしてみると、素人のパッチワークのように明らかに周りの材木と色が違っていた。隙間に指を引っかけると板が外れて、そこから小さな空間が覗いた。
「おっ、なにか見つけたか三咲?」
「床下に隠し部屋が」
ひょこっと顔を出したシキと共に隠し部屋を覗き込む。床下収納とも言えない小さな空間をライトで照らすが、収められていたのはたった一つ、箱だけだった。
それは古びたブリキ製の箱だった。くすんでほとんど消えているが、元は綺麗なデザインだったことが窺える。錠前を付けるはずだった突起も付いている。
まるで、大切な宝物や贈り物を入れておくための宝箱のようだった。
箱を開ける。そこに入っていたのは。
「……絵馬だ」
見覚えのあるデザインの絵馬が何枚か入っていた。『葦裁様に願います』と刷られた、外の絵馬掛けに掛けてあったのと同じもの。ただしほとんどがひび割れたり、欠けたりしていた。中には真っ二つに割れて半身を失った物もある。それらが丁寧に箱に詰められていた。
絵馬……暴力的な字で書き殴られた願いが一瞬脳裏をよぎった。それでも僕は一息に絵馬を裏返した。
そこに書かれていたのは。
『彼の病気が治りますように』
「「…………」」
僕らは沈黙し、顔を見合わせた。
箱に入っていた残りの数枚にも似たようなことが書かれていた。人の力ではどうにもならないことへの救いを求める切実な声。他人の不幸を願う言葉など一つもなく、一文字一文字が丁寧に書かれている。
「大切な者と病との縁切りを願う絵馬……絵馬掛けから意図的に弾かれた善なる願いか。三咲の言う通り、本当に縁切りの神じゃったんじゃな」
「…………」
小箱に収められていた他の絵馬にも目を通す。
その内容は『病との縁切り』『暴力的な人との縁切り』『自身の悪癖との縁切り』と、明らかに善き願いばかりだった。絵馬掛けから意図的に弾かれここに収められていたのだろう。
僕は内容を記憶するとそっと小箱を元に戻した。
「置いてくのか?」
「これは一つの証拠だ。けど大事な物だ」
「……じゃな」
微笑するようにシキは言い、僕の肩に飛び乗った。改めてざっと中を見渡すが、今はこれ以上気になる点はなさそうだ。
社を出ると優しい月明かりが再び僕らを照らした。涼しい風が木々と頬を撫でる。
シキが夜空に託すような声で、呟くように言った。
「……危うく葦裁が本当に切り裂き魔じゃと思い込むところじゃった。あやつはあのような願いを掛けられてなお、陰から人を支えておったんじゃな」
「この神社には確かに葦裁という名の縁切りの神が住んでいた。となれば、蒼を救ったのも葦裁だろう」
「じゃが、人の悪意によって誤解が広まり廃れてしまった、と。わかってしまえばなんてことない事件じゃったな。あとは葦裁と会ってハサミを返してやれば万事解決じゃ」
シキは毛並みを月に自慢するように伸びをしている。ついでに大きなあくびも一つ。
そんな彼女には悪いが、僕はしっかり冷や水をぶっかけた。
「いや、ハサミはまだ返さない」
「……は?」
「僕達の調査はこれからだ」
「いやいやいや待て待て待て!」
シキは急いで僕の肩から飛び下り、慌てた様子で問い質してくる。
「なにを打ち切り漫画みたいなことを言っておる!? 由比凪の鎌鼬は世のため人のための行為じゃった、というのが結論じゃろ? これ以上なにを戦う必要がある!?」
「僕は葦裁が縁切りの神だと言っただけで、切り裂き魔が人を救うための行為だとは言っていない」
「はあ……?」
「なぁ、シキ。もし鎌鼬が縁切りの神として当然の人助けだとして、彼女は何故そう言わなかった?」
「え……」
詰め寄る勢いが急ブレーキを踏んだ。逆立っていた耳と尾はしおしおと垂れ、瞳の中の荒波も凪いでいく。
「後ろめたいことがなかったのなら正直に言えば済んだ話だ。だが彼女が選んだ振る舞いはなんだった?」
「由比凪の鎌鼬じゃという自白と……動機の黙秘じゃ」
「そう。誤解を生む自白に中途半端な黙秘だ。そして社の床下に隠されていた縁切りの神への絵馬。彼女は何故、身の潔白に繋がる絵馬をわざわざ自分の手で隠したのか?」
「えっえっ、ちょちょちょっと待て!」
今日一番慌てた声での待ったがかかる。情報を整理しようとしているせいか、シキの顔は頭痛を抑えるような形相になっている。
「あの絵馬達を弾いたのは葦裁自身じゃと!? 初耳なんじゃが!? あれ、あれはっ、葦裁を貶めようとした何者かの仕業じゃないのか!?」
「悪意ある他人の仕業だったならとっくに捨てられてそもそも見つからなかっただろう。社の中に隠されていたのは、それが彼女自身の仕業だという証明だ。そうでなかったとしても、僕でさえ気づいた床板にまさか気づかないということはないだろう。自分の寝床に気を遣っている様子はあったからな」
「じゃが三咲……っ! 表の絵馬掛けに悪意ある絵馬だけを残したのが葦裁自身じゃとすると……それではまるで……まるで……!」
どうやらシキも気づいたらしい。僕は深呼吸の分だけ首肯し、言った。
「彼女は最初から、自分自身を縁切りの神ではなく悪意ある切り裂き魔だと認識させようとしている」
彼女を追いかけて辿り着いたこの場所。あの瞬間のことを僕はよく覚えている。
小さな身体を緊張に強張らせ、何度も息を吸っては吐いて、僕と目を合わせようとしては俯いて。しかしそれでも、最後には意を決したように唇を引き締め、僕をまっすぐに見据えて言った。
――由比凪の鎌鼬の正体はあたしです……!
動揺や緊張に支配され、慌てて口走った言葉じゃない。あれは彼女自身の意思で発した言葉だ。
「じ、じゃが三咲……それはそれでおかしくないか? それこそ、自分が縁切りの神じゃという証拠など捨ててしまえばよかった。隠すにしても社の中に隠すなど、見つけてくれと言わんばかりじゃぞ? なんの意味がある?」
「隠した上であえて見つけてもらう意味なら、既にシキが口にしている」
「どっ、どういうことじゃ?」
「お前はさっき言っただろう? 『危うく葦裁が本当に切り裂き魔じゃと思い込むところじゃった』と。人は自分で考え、見つけ出した答えを真実だと思い込む傾向にある。であれば誘導するのは簡単だ。安易な謎を与え、解かせてやるだけでいい」
「つまりわしは真実を見つけたと思って、まんまと葦裁の撒いた餌に釣られたということか……?」
「可能性の一つだ。シキの見解が正しくて、真実はなんてことないのかもしれない。けど別の可能性の話をするならば……」
僕は手を伸ばし促す。心得たとばかりシキは僕の腕を伝って肩まで駆け乗った。
真実を抱いて眠る孤独の社を後にする。暗闇の参道を外さぬよう、一歩一歩踏みしめながら。
「ここに住んでいた葦裁は確かに縁切りの神だった。だが……『彼女』もそうであるとは限らない」