(6)蒼と鎌鼬の秘密
前回のあらすじ
葦裁神社で見つけた首輪を元に、持ち主の岩名蒼の家を訪れる。
四ヶ月ほど前、小学生の蒼は飼い猫の死をきっかけに傷心していたが、由比凪の鎌鼬に切られたことで復調。まるで神様に救われたようだったと言う。
現在の由比凪の鎌鼬とは名だけが同じで中身のかけ離れた事件。そこで、詳しい話を本人から聞くことに。
さて。
後ろ手に閉めた扉。部屋の前に僕は待機する。気配を消しながら耳をそばだてると、中から早速声が聞こえてきた。
「大丈夫。怖くないよ。こっちおいで」
声色からはさっきよりも明らかな気楽さが伝わってくる。シキに任せた判断はとりあえず成功と言えよう。
「いい匂いするね。えっと……あ……名前聞いてなかった……」
「シキじゃ」
「えうえぇっ!? えっ、えっ!?」
「驚かせてすまんのう。わしはシキという」
「喋れるの……!? なんで!?」
「それは……あー、あれじゃ、わしがすごいからじゃな。頑張って人間の言葉を覚えたんじゃ」
「確かにすごい……! シキはすごいね!」
「お、本当か? わしすごい? うひひっ、褒められると気持ちがよいのう」
自分で言わせて気持ちよくなるな。
「おっとそうじゃ。お前の名前は?」
「岩名 蒼」
「蒼。いい名前じゃ。少し親近感を覚えるのう。ほれ、わしの目も蒼いんじゃ」
シキの声は聞いたことのない声色だ。器が広くおおらかで、大人びた雰囲気。普段の様子からはとても想像出来ない。甘える相手がいなくなると途端に面倒見がよくなるタイプなのかもしれない。
「あっ、そうだ。どうして元気ないの? あの人心配してたよ?」
「そのことか? いやまぁ、それはあれじゃ。あやつの勘違いじゃ。まったくあやつは心配性なんじゃよ」
「でも大丈夫なら大丈夫って教えなきゃダメ。元気ないと心配だし……辛いんだよ……」
「む……そうか。蒼は老いてゆく猫を隣で見てきたんじゃったな」
「うん……」
沈みかける空気に、シキは間を置かず言葉を続けた。
「心配といえば、わしも蒼に心配しておることがあるぞ」
「え? わたし?」
「そうじゃ。お前、家出したことがあったんじゃろ? しかも知らない場所で倒れておったとか。本当に大丈夫じゃったのか?」
自然な流れで本命の話題に誘導するシキ。
ここからが重要だ。心を語るのは言葉だけじゃない。声色や表情、細かい仕草の方がむしろ本心を語るものだ。そこから断定は出来ずとも推定は出来る。言葉を持たない飼い猫の望みや機嫌が察せるのと同じことだ。
だからと一言も聞き漏らさぬよう傾けた耳に聞こえてきたのは、意外な声だった。
「えっ? え、な、大丈夫ってなにが? な、なんのこと?」
焦燥と動揺。
扉越しの少女から最も強く聞き取れた感情はその二つだった。
だが何故? 彼女はただの被害者のはずだ。嫌な記憶を話したがらないのならともかく、動揺を見せる理由は思い当たらないが……。
「いや、なんのこともなにも、蒼が気を失って倒れておったと聞いて心配になっただけじゃ」
「なんでそんなこと訊くの?」
「……蒼はそのことを訊かれたくないのか?」
「えっ? そ、そんなこと言ってないでしょ。なんでそんなこと訊くのって言ってるの!」
「…………」
沈黙の息遣いが思い至ったのは、おそらく僕と同じ考えだろう。
この子はなにか隠している。
シキは考えるような間を置いてから、先と変わらぬ優しい声で言った。
「そうじゃのう……わしがそんなこと訊く理由はな、蒼と同じじゃ」
「……? 同じってなに?」
「蒼もさっきわしに訊いてくれたじゃろ? 『どうして元気ないの? あの人心配してたよ』と。それは蒼自身がわしのことと、あやつのことも心配して訊いてくれた。違うか?」
「うん……そう。だって、きっと困ってるし、辛いの可哀想だし……」
「わしも同じじゃ。お前が辛いことを抱え込んでおるなら、助けたいと思ったんじゃよ。もしそうなら、わしに話してみてくれんか? 誰かに話すだけでも気持ちが楽になるかもしれん」
「うーん……」
「嫌ならこの話はやめにして、もっと楽しい話をしよう。わしは探偵でもなんでもないんじゃ。後のことは知らん」
蒼の隠していること。そしてその裏にあるかもしれない手がかりが手に入らなくてもどうでもいい。シキは彼女に向けて……いや、僕に向けてそう言い切った。
小さな諦めと大きな安堵を胸に、僕は思う。
これは、草の根を分けてでも手がかりを探す覚悟をしておかなきゃいけないかもしれないな。
「「…………」」
扉の向こうで、しばらく沈黙の時間が続いた。二人の表情は杳として知れないが、その空気は決して重苦しくはなく、緊迫したものでもないように思えた。
やがて扉の向こう、蒼が躊躇いながら口を開いた。
「……あのね。誰にも秘密にしてたことがあるの」
「ほう。わしに聞かせてくれるのか?」
「うん……わたし、本当は家出してないの」
「……どういうことじゃ? まさか誘拐されたのか?」
「ううん。あ、でも、そうなのかな……? どっちだろ……?」
どうにも要領を得ない証言だ。僕も、そしてシキも首を傾げていることだろう。
蒼は手探りで言葉を懸命に探しながら、少しずつ説明し始めた。
「えっと、あの頃ね、毎日モミに呼ばれてたの」
「モミ……は確か、その時には死んでしまっておったはずじゃが?」
「うん。でも、独りでお部屋にいると寂しそうなモミの声がして、わたしを呼んでた。だからね、モミに会いたくなって、わたしも寂しくて泣いてて……」
「それでモミを探すために家を飛び出した、というわけじゃな?」
「ううん、違う」
「む、違うのか?」
違う? ならどういうことなのだろうか。僕らは疑問符を浮かべながら続きを待つ。
「えっと、そうじゃなくて……うんと……」
「ゆっくりでよい。時間はたっぷりあるからの」
「……モミに、毎日呼ばれて。悲しい気持ちが消えなくて。それであの日はね、気づいたら外に出てたの」
「家出は自分の意思じゃなかった……ということか?」
「そう。なんか、寝てる時みたいな、夢を見てる時みたいな感じでね、身体が勝手に動いて、こっちだよーって言ってるモミの後を追いかけてたの」
「ふむう。蒼はもういないはずのモミに毎日呼ばれておって、あの日は自分の意思でなく勝手に身体がふらふらと外に出ておったと」
「うん……それでね、それで……っ、ぅぅ……っ」
「わっ、泣くな蒼! 無理ならもうやめてもよいから、な?」
少女のすすり泣きはここまで聞こえてくる。
この話は岩名さんからは出なかった。蒼自身秘密にしていたと言っていたし、おそらく知らないのだろう。確かに、身体機能には異常がないのに身体が言うことを聞かないという状態は、わからない人間には作り話にしか聞こえないだろう。
「あのっ、あのね? あの時、身体が勝手に動いててね? わたし、夢を見てるみたいであんまりなにも考えられなくて、でもね、歩きながらずっとね、思ってたことがあってね……?」
「うん、うん。なにを思っておった?」
「ひ、ぅく……っ、も、モミのところに行かなきゃって、独りは可哀想だから、一緒にいてあげなきゃ、って……」
「死者の悲しみに感応して『連れて行かれそうになった』のか……」
「……ぅぅ、っく……うええぇん……っ!」
「おおよしよし。大丈夫、大丈夫じゃぞ。もう怖いことはないからのう」
息を詰まらせながら必死に話していた蒼だったが、ついに堰を切ってしまった。もふもふした感触に顔を埋めながら泣く、くぐもった声が漏れ聞こえてくる。
連れて行かれそうになった……シキはそう表現したが、大雑把に言ってしまえば取り憑かれたという話だ。
ごく普通の人間が、ある日を境に常軌を逸した行動を繰り返すようになる。特定の物に異常に執着するようになる。それまでとはまるで別人のように変わってしまう。
そして、憔悴しきった心の持ち主は、誰にも見えない、聞こえないなにかに誘われるかのようにして、向こうの世界に『連れて行かれる』こともある。
受け入れがたい大きな喪失。消えない心の傷。悪しき妖はその隙間に囁きかける。……いや、それは妖に限った話でもないか。事実、蒼の負った傷に真っ先に寄ってたかったのは人間だったのだから。
シキが宥めること数分。
「落ち着いたか?」
「うん……シキありがとう」
「何度も言うが、無理に話さなくてよいからな? 嫌ならいつでもやめて、おやつでもねだりに行こう」
「っ……ううん……シキに聞いて欲しい。誰にも言えなかったから最後まで聞いて?」
「そうか……蒼がそう言うなら」
「モミについていったらね、橋のところで急に手が痛くなって、見たら血が出てて、そしたら全然寒くなかったのに急に寒くなって、モミもいなくなったの。……あとは覚えてない。気づいたら病院で寝てた」
「ふむう。つまり……なにかに切られて蒼は我に返り、そして気を失った、ということじゃな。腕のところを十字型に切られたんじゃよな?」
「へ? 違うよ?」
「……なんじゃと?」
それは僕にとっても意外な答えだった。蒼の声色が『何故そんなことを言い出したのか』と言わんばかり、きょとんとしていることがリアリティを感じさせ、だからこそ意味がわからない。
「待て待て待て待つんじゃ蒼……ならば切られた傷はどうなっておったんじゃ?」
「どうって……普通だよ? ここにこう、一本、シュッて。……変?」
「い、いや……すまんな。変なのはわしの方じゃ。それが普通じゃよな」
固い苦笑いで誤魔化すシキ。幸いなのか気遣ってくれたのか、蒼がそれ以上ツッコんでくることはなかった。
「な、ならば、それは噂になっておる由比凪の鎌鼬じゃったか?」
「わかんない。だって見てないもん」
「は、はは、そりゃあそうじゃよな? いやーなにを言っておるんじゃろうなわしは。テンパってしもうた。失敬失敬」
「うふふっ。変なの」
和やかな空気の後、一瞬の間。
次に扉越しに届いてきた蒼の声は、慎重で強張ったものだった。
「あと……ね? 最近、またモミの声が聞こえることがあるの」
「な、なに? 大丈夫なのか?」
「大丈夫、ホントに大丈夫だよ。確かにモミがわたしを呼んでる気がするんだけど、でもその度にあの時のことを思い出して、安心するの。そうしたら……モミの声は聞こえなくなっちゃうけど……」
「……寂しいか?」
「寂しいけど、モミについてっちゃいけないの。そしたらお父さんとお母さんに会えなくなっちゃうし、それに、今度は二人が今のわたしみたいに寂しくなっちゃうから……」
「……そうじゃな。お前は賢く優しい子じゃ」
「でもね、それは最初に鎌鼬が助けてくれたからなんだよ。だから……」
変わらず慎重に、言葉を選ぶようにゆっくりと、蒼は言った。
「……だから、怪我したって言ってる人は、嘘吐きだよ」
「嘘?」
「だって、本当に切られたことあるなら絶対わかるはずだもん。鎌鼬はいい人だって」
「蒼はよほど信用しておるんじゃな。まぁ、今の話を聞く限り、そう思って当然じゃが……」
「うん。えっと、だから……本当に切られたことがあるのはわたしだけだと思う。他の人のは、嘘か、偽者だと思う……」
「……蒼は本当に鎌鼬に救われたんじゃな」
死んだ猫の声と悲しみに囚われていた蒼が、由比凪の鎌鼬に切られたことで憑き物が落ちた……この事件の流れはそういうことで間違いない。
ということは由比凪の鎌鼬は……葦裁は人間を救うために……?
だが被害者の蒼が庇うための嘘を吐く理由はないし、興味本位の瀬々良木が一切無視されていたことにも筋が通る。
そうなると何故葦裁は隠そうとしていたのか、という新たな疑問は生まれるが……今はそれよりも気になっていることがあった。
どうやらシキも僕と同じ疑問を抱いたようで、純粋な問いかけが聞こえてきた。
「のう蒼? さっきお前は、この話を誰にも言えなかったと言っておったが、お母さんにもしておらんのか?」
「……うん。してない」
「何故じゃ? 仲が悪そうには見えんかったが……」
「…………」
固唾を飲む気配。秘密は隠したい理由があるから秘密という。それを打ち明けるのはいつだって緊張するものだ。そうして扉の向こうからかすかに漏れ聞こえてきたのは、悲しい呟きだった。
「……信じてくれないもん」
「そんなことはないじゃろ。嫌われてると思っておるのか?」
「ううん。でも信じてくれないと思う」
「なんでじゃ?」
「あのね、モミの声がするって最初に言った時、お母さんも……誰も全然信じてくれなかったの。だから……病院で起きた時、お母さんに色々訊かれたけど、言えなかった。だって、モミが呼んでたのも本当にずっと聞こえてて、本当に身体が勝手に動いててっ、それに……それに、本当に怖かったんだよ? でも、でも……本当のこと言って、怖かったって言っても……嘘吐きって決めつけられると……思って……」
「……そうじゃな。頑張って打ち明けた傷を大事な人に拒絶されるなど、想像するだけで耐え難い」
「うん。でもお母さんのことも好きだから……だから、えと……言わない方がいいかなって思ったの」
「そうか。お母さんのことも傷つけたくなかったんじゃな。蒼は本当にいい子じゃのう」
蒼の秘密の理由は、事件の調査には無関係で益のないことだ。けれどおかげで一つの小さな謎が解けた。
思い出すのは、切り裂き魔の話題になった時の岩名さんの言葉。
――今度こそ向き合うべきなのかもね。
今度こそ向き合う、か。
「じゃがな蒼。お母さんも蒼の本当の気持ちはわかっておるはずじゃぞ」
「えっ?」
「蒼がお母さんを大事にしたい気持ちも、それ故に辛い過去を打ち明けない気持ちも伝わっておる。じゃから、蒼の苦しみも大事にしてくれるはずじゃ。ちゃんと聞いてくれると思うぞ」
「そう、かな……?」
「そうじゃとも。家族をこんなにも大切に思っておる蒼が、家族から大切にされないはずないじゃろ?」
「……うん。わかった」
「たくさん悩み、たくさん頼り、たくさん愛されて育つんじゃぞ?」
「えー? シキの方が子供なのにそんなこと言うの変」
「なっ、わしは子供じゃないぞ失礼な!」
二人のじゃれ合う声が聞こえてきて、暗い空気はあっさりとどこかへ吹き飛んでいた。それからはもう神妙な話題が出ることもなく、二人で楽しく遊んでいるようだった。
それを扉越しに聞きながら、思う。
家族をこんなにも大切に思っておる蒼が、家族から大切にされないはずないじゃろ? ……か。僕なら堂々と胸を張ってそう言ってあげられなかっただろう。たとえ今がそうでも、未来もそうであるとは限らない。なにかが変わり、違ってしまった時、信じた言葉に裏切られて苦しむのは言われた彼女の方だから。そんな風に考えすぎてしまう。
けれどシキは屈託なく言い切って、蒼の心に明るい陽光を射した。それは僕には到底出来ないことで……少々羨ましくもある。
けど僕も無い物ねだりをいつまでもする気はない。僕に出来るのは無いモノは無いと受け入れ、有るモノを最大限利用することだけ。それが誰かの助けになれたなら、それでいい。
それからしばらく僕は少女達の笑い声を背にして考え、そしてある仮説に行き着いた。
「葦裁という神の正体……そうか。そういうことか」