表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/16

(14)ただ、ただ。

前回のあらすじ

最初から犯人であった葦裁の真実。それを三咲に突きつけられてようやく、彼女の犯行計画は成就した。

今宵こそ、全ての真相が明かされる。



 夜。月の見えない雲がかった夜。この日はそんな夜だった。


 そんな日に明かりもない山奥に身を置けば、夜闇に紛れて全てが見えなくなる。だが人は慣れる生き物だ。夜に慣れた目を凝らせば、見えないモノでもハッキリと見ることが出来る。


 鬱蒼とした孤独な山の奥。縁切りの神を祀った廃神社のさらに向こう。そこに隠された真実はあった。


「やっと……やっと終わったよ……」


 聞き覚えのある優しい声が聞こえる。力を出し切ったようにへたり込む和装の小さな背中……葦裁は穏やかに『誰か』へと終わりを告げていた。

 その『誰か』は小さな手作りの祠のようだった。周囲には小銭が散らばってもいた。


 それを目の当たりにするシキは、僕の隣で身を震わせ、声を震わせる。


「お、おい三咲……! お前にも見えるよな……!?」

「ああ。……見えている」

「しかもこの臭い……嘘じゃろ!? こ、これがあやつの本当の計画……! あんなっ、あんなモノを……!?」


 夜更けの静寂は簡単に切り裂かれる。息を呑むシキの声に、葦裁の背中はびくりと脱兎のように反応した。


「だ、誰かいるんですかっ!?」

「悪いな。君の居場所に勝手に踏み込んで」

「え、な……!? み、三咲さん!? どうしてここが……!?」


 本気で動じる彼女の前に身を晒す。


「単純に後を尾けてきただけだ。君は事件を終わらせたと思うことでようやく油断してくれた。いや、これまで一切油断せずに一番大事なモノだけは隠し通してきた、と言うべきか。……後ろにいる『それ』を」

「そ、それ以上、近寄らないでくださいッ!!」


 叩きつけるような絶叫が僕の足を止めさせる。荒く息を乱し震える彼女の手には『真っ赤な裁ちバサミの片割れ』が握りしめられ、その決死の刃は僕らに向けられていた。


「なっ!? 馬鹿な、そのハサミは三咲が持っておるはずじゃ!」

「もちろん持っている。ただ、もっと早く疑問に思うべきだったんだ。ハサミが片割れなら、その相方は絶対にどこかに存在するはずだと」

「えぇっ!? ど、どういうことじゃ!? じゃってそれは葦裁という神の本体で、元々祀られた時から半分の形じゃったはずで……! というか! ハサミは最初から両方持っておったのに、何故か片方だけ隠し持っておったことにならんか!?」

「そうなるな」

「あぁっ! また意味のわからんことを……!」


 混乱で頭を抱えるシキを撫で、落ち着かせる。


「噂と信仰の力が本当に流れていた先。それが今、彼女が手にしている方の裁ちバサミ。つまりあれこそが由比凪の鎌鼬事件の動機そのもの。……全ての真相だ」

「隠しておったもう片割れ……全ての動機、じゃと……?」


 そう。由比凪の鎌鼬事件はあのもう片方のハサミのために生まれた。その謎をこれから一つずつ明かす。


 まずは前提の確認からしておこうか。


「そもそもの話……葦裁。君は偽者なんかじゃなく葦裁本人。そうだろう?」

「……っ」

「その反応で十分だよ」

「…………いつから気づいてたんですか」


 睨むように僕を見る。


「いつから、か。川に飛び込んだ君を引き上げた橋の上。二人で話した時かな」

「え……そんな前から……?」


 やはり気づいていなかったか。


「あの時、溺れていたことに関して僕は『蒼と関係があるのか?』と訊き、君は『関係ない』と即答した。蒼、とだけ聞いて咄嗟に岩名蒼を連想出来るのは、蒼が四ヶ月前あの橋で切り裂き魔に救われた事件を知る者だけ。飼い猫の首輪が縁切りの神社から出てきたことを踏まえれば、ハッキリ言って君は当事者と見るのが自然だ。少なくとも、君は岩名蒼と四ヶ月前の事件についてよく知っていたことになる。反射的に否定してしまう程度には」


 だがその時点ではまだ疑いに過ぎなかった。


「僕らが蒼と繋がるきっかけになった首輪は神社から見つかった物だったし、タグからは持ち主を追えずともなんらかの手段で辿れた可能性はある。事件内容も他所に聞き込むことは可能だろう。だから君が事件の当事者……蒼を助けた本物の葦裁だと確信したのはもう少し後」


 それが、他ならぬ君の自白だ。


「あの時、君が自ら語った経緯いきさつはこうだった。『自分は一ヶ月ほど前に偶然神社を訪れ、葦裁を名乗ることを決めた偽者である』と。……一ヶ月前にやってきたばかりの赤の他人が、四ヶ月前の事件の仔細をどうして知っている? 自供した経緯が正しければ、その後すぐに由比凪の鎌鼬として活動を始めているのに? 妙な話だ」

「……矛盾とまでは……言えないはずです」

「ならこの場で筋の通った供述をし直してくれて構わない」

「……………………」

「君は自分が偽者だと欺いたつもりで、自分が蒼を救った葦裁と同一人物であると自白していたんだよ。あの時点で、既に」


 矛盾はせずとも疑わしい。そういう時、まっすぐ突きつけても『矛盾はしていない』と逃げられるだけだ。実際証拠もない。だから引っかけて自白を誘うのは常套手段だ。妖相手では特に。


 葦裁はそれでも僕から目と刃を逸らさなかった。だが理路整然とした否定も出来ずにいた。それは黙秘だが、ほとんど肯定と同義だ。


 異を唱えたのは別の妖だった。


「ま、待て三咲! あの橋で拾い物を返した妖は、過去の葦裁とこやつは別人じゃと言っておったぞ! 姿形はそっくりじゃが、精神的には絶対に別人じゃと! その話はどうなる?」

「仮に姿形を似せるとしても、本物をよく知らなければ出来ないことだ」

「確かにそうじゃけど……じゃが以前と人格が丸っきり違うという話はどうなる? 本物の姿をどこかで知り、それで真似ておるのやもしれん!」

「それはないだろう」

「どうして言い切れる? 大体、まだ最大の問題が残っておるぞ。こやつが本物であるならば、神体の裁ちバサミが壊れておるのに無事でいられるはずがない! なにせ真っ二つなんじゃぞ!?」


 シキの言う通り、そもそも葦裁偽者説を特に強く印象付けたのがこれ。葦裁という神の本体である裁ちバサミが壊れていること。それは最後まで僕の中でも説明のつかない矛盾だった。

 だがそれもこの場所まで来てようやく説明がついた。


「確かに、葦裁とは縁切りの神。裁ちバサミを神体としているのも事実だろう。だからその神体が真っ二つに壊れても葦裁が無事でいるのはおかしい」

「じゃろ?」

「だから葦裁は……無事じゃ済まなかったんだ」

「は、はぁ? なにを言っておるんじゃお前は?」

「そうだな……なら次はその話をしよう」


 再び葦裁に向き直る。

 破壊された神体を見てなお、彼女を本物であるとする根拠。


「今回の事件の幕引きは『噂と信仰を集めて由比凪の鎌鼬を生み出そうとしたが、結局ほとんど集まっていない。そして不来方三咲に真相を暴かれて終わる』というものだった。だが葦裁が供物と信仰を集めていたのも事実だ。それならその力は結局どこへ行ってしまったのか? 供物と信仰を捧げていたはずの切り裂き魔にも、葦裁自身にも流れていない。ならば別のどこかであるはずだ」

「……信仰が足りなかっただけ、とは考えなかったんですか?」

「君はそう思わせたかったんだろう。だがここまで来てそうは思えない。君の手にあるハサミの片割れ、その手製の祠の中にある何者かの気配。そして祠の周囲に散らばる賽銭……それが答えだ」


 僕も赤い裁ちバサミ、その片割れを取り出す。錆びた古めかしさも、大きさもそっくりだ。


「君は熱心に噂と信仰を広め、供物を捧げていた。だがその先は由比凪の鎌鼬なんかじゃなく、その小さな祠と裁ちバサミだった。こっちのハサミと君のハサミ……大きさ、錆びた色、古めかしさまで瓜二つだな。どう見ても同じ一本のハサミから分かたれた存在だ」

「…………」

「同じ一つだった存在が分かれて生まれた二つの存在。それは一般的に、双子と呼ばれる」

「っ!」


 葦裁だけでなくシキも息を呑む中、続ける。


「一本の裁ちバサミから生まれた葦裁という魂はどういうわけか二人分だった。そしてそれが真っ二つに壊れた時、片方だけが死んでしまった」

「そ、そんな片方だけなんてことがあるのか……? いや、そうか。じゃから別人……」

「おそらく亡くなった双子に守られたおかげで彼女は無事で済んだ。だからこんな手の込んだ計画を考えてでも信仰の力を集めたかった。身を挺して自分を助けてくれた大事な家族を、今度は自分が助けるために」

「既に死んだ双子を助ける……じゃと? じ、じゃあ、こやつの目的は、まさか……!?」

「信仰を糧とする神であり、大事な家族……その存在を再びこの世に取り戻すこと」

「こ、こやつが生み出そうとしておったのはっ、あの後ろの祠におる『あれ』は……っ!? 本気か!?」

「冗談でそんなことが出来るほど彼女は冷酷じゃないよ」


 死者をこの世に呼び戻そうなど、到底信じられることではない。だが葦裁がどこまでも本気で、真摯で、懸命であり続けたことは、複雑に流れる事件を追ってきた僕にはよくわかる。


 そして、この複雑な事件の中で、彼女は一度たりとも双子とハサミのもう片割れの存在を仄めかすことはなかった。話題に出すことも徹底的に避けていた。

 それはつまり……それほど心の奥深く、大事にしまい込んで守りたかったから。もう二度と壊されることのないように。


 だから今も決して肯定しない。強く口を噤んで、ひた隠す。


「君は本気だった。守れなかった家族を今度こそ助け、今度こそ守り通すことだけを考えてきた。そうでなければ、由比凪の鎌鼬という架空の存在を立てるほど複雑で手の込んだ計画を実行に移すことはない。だが一方で、本気で心を傾けるには根拠が必要だったはずだ」

「根拠……?」

「なんの根拠もなく死者の魂を呼び戻せると信じ込むはずはない。もしかしてこれなら……そう思える希望を君は見つけ、今回の計画を思いついた。きっかけがあったはずだ」

「…………」

「そのきっかけは一ヶ月ほど前だろう。当然、由比凪の鎌鼬事件が始まる少し前のことだ」

「どうしてわかるんです……?」

「君が見つけたきっかけとは……」


 視線を軽く移動させ、その『きっかけ』へと向ける。『きっかけ』はきょとんと、海色の瞳を丸くしていた。


「シキだ」

「え、わし? どういうことじゃ?」

「順を追って説明しよう。まず僕らが葦裁と出会ったのは、由比凪の鎌鼬の噂を聞いて調査を始めた日。古道付近で出会い、この神社まで追いかけてきた時のことだ。だが葦裁の方はそうじゃない。……葦裁、君はそれより以前から僕とシキのことを知っていたな?」

「…………はい」

「認めてくれると話が早い。君が自白した時、こういう会話があった」



 ――裁ちバサミは葦裁の神体、つまり一心同体となる物のはずだ。それが真っ二つに割れて、どうして君が無事でいる?

 ――っ! ……そう思うのは自然です。でも絶対じゃありません。例えば、シキさんはどうですか? 今は古い狐のぬいぐるみを依代にしていますけど、ぬいぐるみがボロボロになって壊れたらシキさんは死んでしまうんですか?

 ――いや、違うはずだ。



「シキの依代はこの通りのデザインだからな。子犬と勘違いされることの方が多い。だが君は『古い狐のぬいぐるみを依代とした妖』と淀みなく言った。清潔にもしているし古いかどうかも簡単には区別出来ないはず。そもそも狐だとして、ぬいぐるみはただの依代だとどうして思ったのか。君と同じようにぬいぐるみから生まれた付喪神の類かもしれないのに。それはシキが狐のぬいぐるみを器としているだけの、本質的には別の妖だと知っていたからだ。以前、どこかで僕らの会話でも聞いていたか、他の妖にでも聞いたんだろう」

「……ええ。その通りです」

「シキは所謂封印に近い状態だが、要は器となる依代を用意し、そこに別の魂を定着させることが君の思いついた手段だった。裁ちバサミに信仰が集まったことで生まれた君らしい思いつきだな。壊れた裁ちバサミをも利用して、自分が最初の信者となって信仰を捧げようというのは」


 それでも根拠と呼ぶには弱いと僕は思うが、少なくとも葦裁自身はそう信じていた。……いや、信じることから始めた。藁にも縋る想いだったのだろう。


 再び疑問を呈してきたのはシキ。


「じゃが、それならストレートに計画を実行すればよかったではないか。あの絵馬掛けだの、変な自白未遂だの、葦裁のフリをした偽者がどうじゃの、都市伝説の切り裂き魔がどうじゃの、面倒くさい細工の数々はなんじゃったんじゃ? 最初から計画に組み込んでおったわけじゃろ?」

「それはシキの依代のことを知ると同時にもう一つ、彼女がとあることを知ってしまったせいだ」

「とあること?」

「不来方三咲の存在だよ」


 頷く。


「シキのことを知ったということは、同時に僕のことも知ることになる。自分で言うのもなんだが、僕は妖を見て見ぬフリ出来ない厄介な性質たちだ。君は僕に計画を知られたら必ず阻止されると思った。で、どうすれば自分の計画を邪魔されずに済むのか、考え抜いた結果が……あの遠回しで奇妙な『由比凪の鎌鼬事件』だ」

「計画を邪魔されないための計画ぅ? マトリョーシカか?」

「僕らと古道で遭遇し、妙な疑いと謎を追いかけさせ、葦裁を騙る偽者であるという真実に辿り着かせる……つまり、一連の『由比凪の鎌鼬事件』は内側に潜ませた本命を隠すためのフェイクだった」


 そうだな……これについてもう少し詳しく話しておこうか。


「人は謎や疑問、そして未知や秘密を解き明かさずにはいられない生き物だ。もはや調査のしようもない遥か過去の未解決事件にさえ想像と考察を膨らませ続ける。なら、人間から秘密を守りたいと考えた時、難解な謎やトリックで道を塞ごうとするのは逆効果。むしろ好奇心を煽る結果になりかねない。それはわかるな?」

「うむ」

「ならば有効な手段とは何か? それはエンディングを与えて好奇心を満たしてやることだ。もうこの事件は全て解き明かした、完全に終わったのだと思わせれば、気が済んだ人間は自ら手を引いてくれる。映画館の消えた明かりが灯れば、客は勝手に立ち上がり帰っていくものだ」

「無理矢理押すのではなく、自ら手を引かせる、か……」

「事件発生から解決まで、という一つのストーリーが完結さえすれば、中身はなんでもよかった。それを踏まえれば、由比凪の鎌鼬の行動法則から外れ浮いている件についても説明がつく」

「あー……確か、一番最初の一件か。古道付近で初めて出会った時じゃよな? あれは高校の生徒でもないし、現場も違っておった」

「そう。あれは僕らとの出会い、そして事件の始まりという演出に過ぎない。僕が由比凪の鎌鼬の噂を知っていようがいまいが、目の前で他人に刃物を向けているのを見過ごすはずがないと葦裁はわかっていたのだから。そして見事に僕は釣られ、仕組まれた事件の渦中に誘い込まれた」


 実際、見事な導入だった。僕という標的を確実に事件に引きずり込める上、あの一件自体はいくらつつかれても痛くない。由比凪の鎌鼬からは明らかに浮いていたが、あそこまでなんの意味も見出せないとなると、一旦置いておいて次に行く。そして大きなオチがつく頃には、些細な違和感などそれっぽい理由で勝手に補完して忘れ去られる。僕自身、危うく見逃すところだった。


「ただ、導入こそ計画通りで完璧だったが……想定外の展開になったのはエンディングの方だった。そうだな? 葦裁」

「……誰のせいだと思ってるんですか?」

「ボロが出ることを期待して気づかないフリをしていた僕のせい、かな」

「…………」


 葦裁が口端を顰めたのは失策を悔いてか、それとも僕が言い訳の一つもしないせいか。


 ここには想像も多く混じることになる。記憶と想像を繋ぎ合わせながら言葉を紡ぐ。


「君は最初から僕らに疑念を抱かせていた。調査の結果、最初に至った結論は『犯人は葦裁を騙る偽者である』というものだ。おそらく当初の計画では『葦裁を騙る偽者を不来方三咲が懲らしめること』が想定されたエンディングだった」

「……そのためにあたしは絵馬をわざと隠したんです。この人ならきっと、正体を正直に明かさない違和感に気づいてくれるはずだって。なのに……!」

「不来方三咲はその違和感に気づいていない様子だった。社の床下から出てきた絵馬を見て、本物の善良な葦裁だと素直に思い込んでしまった。本来なら疑いが晴れれば嬉しいところだが、君に限ってはそれでは困る。自分は『懲らしめられて終わった悪人』になる予定だったのだから」


 葦裁が練った由比凪の鎌鼬事件の目的は、真意を隠すためのカモフラージュとすること。そして不来方三咲は妖を放っておかない厄介な人間だ。良好な関係を築こうものなら、まるで友人のようにふらりと訪ねられ、致命的な現場を目撃されるかもしれない。


 彼女にとって、僕との関係は敵対であり続ける必要があった。


「計画の軌道修正を焦った君は、とにもかくにも『犯人の逮捕と事件の解決』という結果を欲した。そこで、大事な神体であるハサミの返却についてあえて触れずに泳がせた。最初と同じだな。わざと違和感を抱かせ疑いを持たせるところから再スタートしようとしたんだ。次の狙いは由比凪の鎌鼬の誕生を企てる復讐者……信仰集めに、人に傷つけられた過去。元々自分の中にあったモノを上手く活用したシナリオだったんだろう」

「…………」

「……葦裁。君があの日、橋の上で見せてくれた心の傷。あれはでっち上げなんかじゃなく……本物だったんじゃないのか」

「…………」

「君は……君達は人間をずっと助けてきた。なのにその人間に解釈を歪められ、殺しの神なんて流言を流布され、そのせいで悪意の人望が集まった。……そして裁ちバサミは」

「知りません! そんなのあたしは知らないッ!」


 霹靂のような拒絶が響いた。

 擦り切れたような渇きを喉から漏らし、震える刃を向けてくる葦裁。その姿は無力を悟りながら怖れに踏ん張る幼子のようで……あまりに痛ましい。


 知らない……か。それはおかしな返答なんだよ、葦裁。……文脈でも、事実でも。


「はぁ……っ、はぁ……っ!」

「……とにかく君は次の工作に取り掛かろうとした。君の描こうとした次のエンディングは実に単純。『都市伝説の怪物は生まれず、犯人である葦裁が死ぬ』というもの。犯人の死……事件が終わったのだと思わせるにはうってつけのオチだ。……それに、君にとって双子のことは大事な存在でも、自分の存在は大事じゃないから」

「……まさか……まさか三咲さん、わかっていてあたしを誘導したんですか……!?」

「もちろん細部まで読めるわけはないが、僕に『事件が終わったと思い込ませたい』ということは勘づいていた。だから自死を選んだ君に『由比凪の鎌鼬はもう死んだ』と言ったんだ。そうしないと君は安心してくれなかったからな」


 これで、由比凪の鎌鼬事件の真相は全て揃った。


「葦裁。君は亡くした双子を取り戻すため、用意した依代に信心と供物を捧げ、由比凪の鎌鼬の噂を広めて人間からの信仰も集めた。それと同時に、首を突っ込んでくるであろう厄介な人間の目を欺き、手を引かせるために悪人を演じ続けた。それがこの由比凪の鎌鼬事件の全てだ」

「はぁっ、はぁっ!」

「今度こそ幕引きにしよう。葦裁」

「嫌……嫌です! そんなの嫌ッ!」

「葦裁!」


 僕の身じろぎさえ彼女は許さない。葦裁は頭を押さえ髪を振り乱しながら、真っ赤な刃と、血の色の絶叫を見境なく振り回す。


「お姉ちゃんは絶対にあたしが助けるんだッ! お姉ちゃんだけが生きていればいい! 邪魔なモノは全部、全部あたしが消します! この場にいる全員、みんな邪魔なんだッ!」

「……もうやめないか。君は」

「うるさい! 人間の言葉なんかたくさんです! 要らない! 要らない要らない要らない! 聞きたくない……!」


 葦裁は息を乱して祠の前に立ち塞がる。小柄な身体でたった一人、頼りない刃を握りしめて。……まだ堪えようとしている。


 ……それでも涙だけは止め処なく溢れていた。


「お姉ちゃんは……っ、あたしとは違った……なにもかも正反対でした……」




『お、お姉ちゃん……あの……』

『あらどうしたの? 寝れない? 嫌なことでもあった?』

『ううん。そうじゃなくて……絵馬、見てもいいかな?』

『珍しいわね。いいわよ、こっちおいで』

『う、うん……あ、これって昼間来てた男の子の?』

『そうね。……ふふっ。彼の大声にすごくびっくりしてたから、覚えてたのかしら?』

『い、いいでしょその話は! ……でもあの子、こんなこと書いてったんだね』

『好きな女の子とケガとの縁を切って欲しい、ってことね。でも見てきたらその女の子、今はケガしてなくて、大会が控えてるみたい』

『自分じゃなくて、他人のために願いに来たんだね……こんな山道を登って』

『そうね。ふふ、可愛いわよね』

『…………』

『どうかした?』

『あ、あのねお姉ちゃん。あたしもまた縁切りに挑戦したい……』

『え? どうしたの急に? 不器用だから失敗しそうだって、失敗して願いが叶わなかったら人の子が可哀想だって言ってたじゃない?』

『それはそうなんだけど……でもいつまでも全部お姉ちゃんに任せきりは申し訳ないよ。あたしだって役に立ちたい! お姉ちゃんと、それから来てくれる人の助けになりたいよ!』

『……そうね。じゃあお言葉に甘えて、少しずつお願いしようかしら?』

『うん! 頑張るから教えてねお姉ちゃん!』




『……嫌っ! 嫌だ! もうやめてよ! こんなっ、こんな酷い言葉……見たくないよ……!』

『大丈夫、大丈夫よ。お姉ちゃんが一緒にいるから。落ち着いて? ね?』

『っ、お姉ちゃん……。でも、グズのあたしなんかが余計な手出ししたせいで……』

『役に立ちたいって思って、行動までしてくれた。その気持ちだけで十分嬉しいから』

『…………』

『今日はもうゆっくり寝て。あとはお姉ちゃんがなんとかしておくから』

『っ! やっぱり……邪魔、だよね……』

『え……違うわ、お姉ちゃんはそんなことを言いたいわけじゃ……』

『……いいの。事実だから。足引っ張って……ごめんなさい……』

『そうじゃない! あなたが一緒にいてくれるから、お姉ちゃんは……!』

『一緒にいる必要なんかないよ! お姉ちゃんはあたしと違って、一人で誰かの役に立てるんだから! あたしの気持ちなんかわかんないよ!』

『ッ!』

『……ぁ……ち、ちが……あたし、そんなこと言うつもりじゃ……』

『……そう、よね。ごめんね……』

『お姉ちゃん! ……ぅっ、あたしはどうしていつも……こんな……こんなこと望んでないのに……!』




『お姉ちゃん……? お姉ちゃんどうしたの!? 酷い傷……! しっかりして!』

『……ああ……おかえりなさい。少しは気晴らし……出来た……?』

『そ、そんなのどうでもいいよ! どうしてこんな傷が!? なにがあったの!?』

『……ごめんね。御神体、守れなくて……あなたが生きられるようにするには……こうするしか……』

『御神体……!? ま、まさか、あたしのせいで……!』

『言ったでしょ。あなたのせいじゃないって。他人を想ってくれた行動が間違ってるわけない。ただタイミングと運が悪かっただけ』

『そんな……お姉ちゃん! 死なないで!』

『大丈夫。本当はあなただってちゃんと一人でやっていける。お姉ちゃんなんか必要ないんだから。それにまだ気づけてないだけ』

『必要とか必要じゃないとか、そういうことじゃないよ! あたし……っ、あたしはただお姉ちゃんと……!』

『……ごめんね。ずっと、お姉ちゃんのせいで。……これからは幸せに、生きて……』




「――あたしがお姉ちゃんを殺したんだ!!」


 葦裁の悲痛な動機が、夜をつんざいた。


 その小さな胸をずっと切り裂いていたのは他でもない彼女自身だ。その傷は決して他人には見えない。シキにも、僕にも。


「お姉ちゃんはどんなに辛くても痛くても、決して他人の命を奪うようなことはしなかった! でもそんなお姉ちゃんをあたしが殺したんです! あたしが余計なこと考えずに大人しくしていればよかった! ……っ、ぅ……最初から生まれてなんか来なければ……よかったのに……っ」

「……君は大切なモノを幸せにしたかっただけだ」

「ふ、フフ……ねぇ三咲さん? ハサミが真っ二つに割れてどうして無事なのかって、前にそう訊きましたよね? そうですその通りですよ! 教えてください三咲さん……どうしてお姉ちゃんが死んで、あたしなんかが無事なんですか!? どうして他人を照らす綺麗な存在が虐げられて、苦しい思いをして! なのに傷つけた方は知らん顔してのうのうと生きて、あまつさえ幸せになろうとするんですか!? わかんない! あたしにはわかんないですよッ!」


 止め処ない嗚咽を漏らし、涙と辛さで顔をぐしゃぐしゃにしながら、葦裁は立っている。たった一つの武器を僕に向けたまま、大切なモノを守るために退かない。


 思う。


 彼女の望みは姉と幸せを取り戻すことじゃない。姉の幸せだけがあればそれでよかった。だから『殺してください』という結末を提案したし、己の死を当たり前のように計画に組み込んだ。

 こんなにも痛ましい切り裂き魔を糾弾し殺す権利など、どこにあるのだろうか。この孤独な少女の守りたいモノを奪っていい正しさなど、あるはずがない。


 だが僕は真実を見ようとしてここまで来た。そして知った。

 だから僕が言わなければならない。たとえ泣きじゃくる彼女を傷つけ、幸せを奪うことになっても。


 この目に映る真実に、嘘を吐くわけにはいかない。


「……葦裁。君に一つ訊きたい」

「ぅ……っく……なん、ですか……」

「君の後ろにあるその小さな祠。それは依代を保管し、捧げ物をするための場として君が作った物だな。そしてその中に今いるのが、新たな器を得つつある双子の姉」

「そうです……それがなんですか!」


 僕は小さく首を横に振る。


「……そんなモノが君の姉だと言うのか?」

「な……『そんなモノ』……!? どうして!? どうして人間はそんな言い方をするんです!? 妖なんか取るに足らないくだらないモノだって言いたいんですか!? ……ぅ、ひどい……ひどいですよ……。あたし達が誰かを大事に想っちゃ、いけないって言うんですか……?」

「僕だけじゃなくシキにも見えている。その祠から漏れ出る気配は今にも腐り落ちそうで、本来この世にあってはならないモノの色だ。……腐臭も酷い」

「定着しきってないだけです! あと少し、信仰と時間があと少しあれば! 必ず……!」


 ……違う。違うんだ葦裁。

 まだ計画が成就していないだとか、信仰の力と時間が足りないだとか。そもそもそういう話じゃない。


 やはり葦裁には見えていないようだ。だとしたら……突きつけるしかない。


 ……ごめん。


 口にしちゃならない謝罪は心の中でだけ吐露し、代わりに細いため息を一つだけ吐き出した。


「……四ヶ月前。君は死んだ飼い猫であるモミの声に呼ばれ囚われていた岩名蒼という少女に絡まる悪縁を切り、救った。君が本物の葦裁である以上、それは間違いなく君の行いだ」

「……? な、なんの話です……?」

「僕はその首輪から辿り、蒼の家を実際に訪ねて詳しい話を聞いてきた。……蒼は君のおかげでずいぶん元気で前向きになれたと感謝していた」

「だからっ、なんの話が……!」

「その時、妙な話を聞いたんだ。蒼が救われたあの日、死んだ飼い猫の首輪だけじゃなく、亡骸を納めた骨壺も行方不明になった、と」

「……!!」


 葦裁は大きく息を呑み、言葉を呑んだ。


「ただ、それ自体はなにもおかしな話じゃない。死んだ飼い猫のモミに呼ばれた蒼が、首輪と亡骸の両方を持ち出し、救い出した君が回収して神社に保管していた。由比凪の鎌鼬計画は当時まだなかったから、物理的な距離を遠ざける意味も、浄化の意味もあったのだろう。そして計画を思いついた時、ちょうど手元に残っていたモミの亡骸を依代として使うことにした。……つまり、その祠に納められている姉のための依代はモミの遺骨だ」

「それが……? 今さら倫理観にでも訴えようって言うんですか!?」

「納骨は基本的に一部であることを考えると、元の身体である片割れの裁ちバサミと合わせて一人前の依代、と君の発想はそんなところか。もしも計画が上手くいったら、君の姉はモミそっくりの可愛らしい猫の姿で帰ってきただろう。それが妖なのか、シキ同様に人間にも視認出来るかは知らないが」

「だから!」

「そう、ここまでは君もよく知っている話だ。問題はそこじゃなく、もう一つの話の方だ」

「え……? もう一つの……話……?」

「心当たりはなさそうだな」

「っ、な、なんですか。ハッタリなんか意味ありません! あたしはもうなにも隠してなんかいませんから……!」

「……蒼はこうも言っていた」



 ――あと……ね? 最近、またモミの声が聞こえることがあるの……。



「え……?」


 葦裁が固まった。

 驚のきょうのねを吐き出した口はそのまま、二の句が継げずにいる。


 彼女はこのことを知らなかった。そしておそらく……気づいた。


「命を落とし、未練と縁も絶たれて完全に消えたはずのモミの声が聞こえる……それがなにを意味するのか、わかるはずだ」

「そ、そんな……嫌……嘘、嘘です!!」

「蒼の気持ちは間違いなく快方に向かっている。それは話をした僕らもそう感じた。だがそれなら何故、亡きモミの声を再び聞くようになったのか。それも事件解決から四ヶ月も経った今になって突然」

「あ……あぁ、ああああっ! もう、もうやめてください……!」

「蒼に異変が起きていないとすれば……異変が起きたのは死んだはずのモミの方」

「嫌ッ! 言わないでください!」


 ……葦裁。もう一度だけ訊く。


「その依代に帰ってきたのは……本当に君の姉なのか?」

「――――!!!!」


 時が、凍りついたようだった。


 止められた呼吸が氷のように融け出して、夜も意識を取り戻していく。


 かつて葦裁に願いを託した人々が建てた拙い神社のように、手製の祠は拙く佇む。

 そこに願いを託した少女の喉が、過呼吸に擦り切れる。


 小さな背中越しに見えるのは覆い尽くすような淀み。生きた肉の腐り落ちる臭いが辺りに鈍く溜まり、甲高い猫鳴りの遠吠えがガラスのように鼓膜を引っ掻く。


 ――はぁっ! はぁ……っ!


 少女はおそるおそる振り向いて、ようやく……真実を目にした。

 渇き切った喉を冷たい空気が通り抜ける、悲鳴のような音がして。


 少女の背中は、膝から崩れ落ちた。


「あ、ああぁぁぁ……! なんで……なんであたしはいつも……こんな……!」


 手を離れたハサミが散らばる小銭の上を跳ね、甲高く、終わりを告げた。


 葦裁はこれまで突きつけられたどんな真実より打ちひしがれて、ただ声を殺して泣き、しゃくり上げることしか出来ずにいた。


 その背中に僕はそっと歩み寄る。近づく足音と気配は悟っていたはずだが、彼女からの拒絶はない。

 だから、すぐそばに膝を落とした。


「葦裁。君はやれることを精いっぱいやった」

「う……っ、く……でも、でもぉ……」

「……そのせいで失敗しかしてこなかった、か?」

「っ……」


 こくり、と。弱々しくもハッキリ頷いた。


 全部失った葦裁に最後に残された肯定が、過ちだけ。


「それは違う」

「…………」

「葦裁が……君がしてきたことは決して失敗だけじゃない。ただ、今の君には苦しいことしか見えないだけだ」

「ありません……ありませんよそんなの!! あるわけないッ!」


 抑えの効かない感情が僕に食ってかかった。間近にある葦裁の顔はあとからあとから溢れ出す涙でぐしゃぐしゃで、叫び慣れない掠れかけの悲鳴は、それでも誰にも止められない。


「じゃあどうしてこんな結果になるんですか!? 他人を傷つけてまで得たモノは別の誰かを傷つけることだった! お姉ちゃんを死に追いやって! 罪のない魂を閉じ込めて苦しめていただけ! よかったことなんかどこにあるって言うんですか!? なのにあたしは! ……あたし……っ!」


 一息で叫び続けた呼吸が詰まった。震える唇を結び、心が溢れ出すのを必死に堪えようとしていた。黙秘しなければと、まだ。


 だから、葦裁をただ強く抱きしめた。


「……もういいんだ。葦裁」

「ぁ……っ、ぁ……!」


 他人に見えない妖の身体はあたたかかった。鼓動だって感じられた。


 躊躇いながら、縋るように抱きしめ返される。堪えるように結んだ唇が、震えながら、零れた。


「…………あたしはただ……幸せになって欲しいって……思っただけなんです……」

「ああ。みんなわかっている」

「なのに……なのになんでこんなに苦しいんですか……? わかんない……わかんないですよぉ……っ」

「……辛かったな」


 静かな嗚咽を漏らす葦裁の隣、放り出された裁ちバサミの片割れが目の端に映った。僕はもう片割れを取り出し、その隣に並べて置いた。……やっと返すことが出来た。


 だがあと一つだけ。感傷に浸るより先にやらなければならないことがある。


 酷な願いだが、彼女にしか出来ないことを。


「……葦裁。モミを解放してあげて欲しい」

「……っ、ぅ…………」


 返事はなかった。だがそっと離れて袖で顔を強く拭い、彼女が手に取った刃は僕が預かっていた側。

 祠が開かれる。その中から漏れ出る苦しみと悲鳴。縁を繋ぐ赤い糸が、長く長く、いずこかの虚空へと伸びている。


 真っ赤な裁ちバサミが、赤い糸に触れて。


「……お姉ちゃん……あたし……っ、あたし……」


 呟いた葦裁は言葉を呑み込んで、振り払うように首を振って。


「ごめんなさい……ごめんなさい!」


 パチン、と。糸を裁ち切った。


 切られた赤い糸が散り散りになって空に霧消していく。囚われていた魂と共に天へ昇っていくのを、葦裁は最後まで見送っていた。嗚咽を懸命に堪えながら。


「……これで終わり、じゃな」


 静かに終わりを告げるシキの声に、葦裁の肩が小さく反応した。


 虫の声もない静寂に取り残された妖。ハサミがするりと手を離れる。ゆっくりと振り返った彼女は呆然と僕を見る。


「……三咲、さん……? 終わったんですよね……?」

「……ああ」

「あたし、もう……誰も傷つけなくて……いいんですよね……?」

「いいんだ。……よく頑張ったよ」

「でも……じゃあ……お姉ちゃんは……?」

「…………いない。どこにもいないんだ」

「……お姉ちゃん……ぅっ、ぁ……! うわああああぁぁん! あああああああぁぁっ!」


 葦裁は僕の胸に縋りついて、子どものように泣き叫んだ。抑え込んできた孤独をようやく吐き出すように。強く握りしめた細い指が縋るシャツを悔しげに歪めながら。


 由比凪の鎌鼬事件はこうして終わった。


 けれど本当に全てが終わるのを、僕はただ黙って受け止めた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ