(13)鎌鼬は死んだ
前回のあらすじ
由比凪の鎌鼬の『動機』。それはどんな形であれ噂と信仰集めではないかとシキは言う。
その言葉に三咲は全てを悟る。しかし、真実の刃でただ嘘を殺すつもりはなかった。
嘘は殺されたくない真実を守るためにあるから。
翌日、黄昏。
僕は再び、忘れられた廃神社を目指して参道を登っていた。
昨夜、新たにわかった情報。そのことで浮かんだ仮説のため、会えなかった彼女に確かめなければならないことが出来たからだ。
長い参道を登り切ると、廃社の前に小柄な背中はあった。
「今日はいてくれたか」
「三咲さん……?」
驚いたように振り返る葦裁の表情には斜陽がかかる。
「……っ」
彼女は微かな逡巡を見せ、伏せた。淑やかな足取りで歩み寄ってくると、年頃の少女のように小首を傾げた。その仕草はまるで、疑わず、疑われず、なにも知らずに穏やかな孤独を過ごす無垢な縁切りの神のよう。
本当にそうであってくれればいいと心底思う。だが残念ながらそうではない。
彼女だけは全てを知っているのだから。
「どうか……されたんですか?」
「大事な忘れ物を返しに来たんだ。君に」
赤い裁ちバサミ。古く錆びて、半身を失った救いの刃。
差し出されたそれを見た彼女は。
「え? あたしの……いいんですか?」
「大事なモノなんじゃないのか?」
「あ……え、ええ、もちろん……あ、ありがとうございます……」
葦裁は真っ赤な裁ちバサミの片割れに遠慮がちに手を伸ばす。何故か子犬のように辿々しく、時折僕の目線を窺うように見ながら。
それはまるで、手元に帰ってくるのが意外だったかのような反応だった。
彼女の白い手がハサミに触れるその瞬間。僕は手を引いた。
「そして僕の忘れ物も取りに来た」
「え……」
「これは葦裁にとって大事なモノだ。だから……僕の問いに答えてくれ。嘘偽りなく、正直に」
「…………」
空気が変わった。
小柄な彼女は数歩下がり、見上げる目線が対峙する。
「……やっぱりそうだったんですね。疑ってるから来たんですよね?」
「ああ」
風が吹き抜ける。沈黙の間を初夏の新緑がざぁっと奏でた。
揺れる黒髪が静かに下りて、見えない目線は確かに頷いた。
「……わかりました。いいですよ」
葦裁は睨むような緊迫感を纏いながら、僕の目をまっすぐに見据えている。
真実を解き明かすつもりで僕は来た。今、ここで。
「さて。まず簡単な質問から始めよう。君は何者だ?」
「……葦裁。しがない縁切りの神です」
「ならば訊こう。君が十字の傷を付けるのは何故なんだ? 縁切りに必要なルールなのか?」
彼女は胸に手を当て、懐の想い出をなぞるように言った。
「……その裁ちバサミは元々割れていたわけじゃなく、一本のハサミでした」
「一本だった……? どういうことだ?」
「前にもお話しましたよ。葦裁という神は一本の裁ちバサミから生まれたんです」
「それはおかしな話だ。この裁ちバサミは葦裁の神体、つまり君とは一心同体のはず。それが真っ二つに割れて、どうして君が無事でいられる?」
「……っ!」
瞬間、葦裁はほんのわずかに唇を歪めた。それは錯覚を疑う程度の動揺だったが、訊かれたくないというより、深い傷に触れられた痛みへの条件反射のように僕には見えた。
だがそれも一瞬で、一呼吸置いた彼女は落ち着いていた。
「……確かにそう思うのは自然ですね。でも絶対じゃありません。例えばシキさんはどうですか? 今は古い狐のぬいぐるみを依代にしていますけど、ぬいぐるみがボロボロになって壊れたらシキさんは死んでしまうんですか?」
「いや、違うはずだ」
「存在の拠り所は必ずしも一つじゃありません。それか、元々あたしが神体に囚われない独立した存在だったのか。どちらなのかはあたしにもわかりませんけど、そういうことです」
予め用意していたかのように理路整然とした受け答え。やはりさっきの動揺は僕の指摘が痛いところを突いたわけではなかったようだ。
そして特に矛盾もない。もちろん、彼女が葦裁を騙る偽者であるからという説でも矛盾はないが。
「そうか……無事でよかった」
「……そうですか? ……いえ、ええ……その通り……です」
奇妙な歯切れの悪さ。動揺という点ではさっきもそうだったが、『無事』という言葉に動揺しているのか……?
気にはなったが情報は繋がらず、適した問い返しはこの場では浮かばなかった。
結果、黙って話の続きを聞く。
「話を戻しますね。裁ちバサミが割れる以前は縁の繋がる赤い糸を挟み切るだけでした。ですからそもそも肌を傷つけることもなかったんです。でも半分に割れて、包丁みたいな今の形になってからはそういう切り方は出来なくなってしまって。どうしても傷をつけてしまうんです」
「十字型に切るのは?」
「ご存知の通り、ハサミは刃が二つあるのが正常です。ですから刃を二度入れなければ、縁を切ることは出来ないんです」
「刃を二度入れなければ縁が切れない。だから十字に刻む……それはおかしいな」
「え……ど、どういうことですか? なにがおかしいって言うんです?」
葦裁は三度目の動揺を見せた。小さく握った拳を胸に抱き、一歩後退る。
ようやく……ようやくだ。彼女が吐いた矛盾の尻尾をようやく捉えることが出来た。曖昧な表現で逃げられない、明確な矛盾を。
……悪いが逃がさない。ここで君の真実を見せてもらう。
「縁を切る時には二度刃を入れなければならない、と君は言った。だが過去に縁切りの神に救われた少女に刻まれた傷は十字なんかじゃなかった。これはどういうことなんだ?」
「過去……? それは……あ、あたしじゃないからです。その子はきっと別の神様に救われたか、怪我と偶然が重なっただけですよ。あたしとは無関係です!」
「僕が彼女に辿り着いたのは飼い猫の首輪からだった。そしてその首輪はこの葦裁神社から見つかった物だ。これで葦裁が無関係と言うのはあまりにも無理がある」
「……し、知りません。その首輪は誰かの悪戯なんじゃないですか。この場所は見ての通り……そういうの、多いですから」
「なら君はこう主張するのか? 縁切りの神に救われた少女というのはただ偶然が重なったのをそう思い込んでいるだけで、しかもそんなことを知らない悪戯犯によって首輪が持ち込まれた場所が偶然にも縁切りの神を祀る神社だった。そして偶然にもその全ては君が不在のタイミングで起きたのだと。本気で?」
「……あり得ないなんてことはないんです。そうなってしまったのだから仕方ないじゃないですか」
震える手前の固い声。唇を引き結び、視線は決して逸らすまいと僕に向けながら、白く細い指先は着物の裾をきゅっと小さく握っていた。
悪くない。最初と比べて明らかに葦裁の余裕がなくなっている。
「なるほど、確かにそういう偶然もあるのかもしれない。過去のことだ、証明しようもない。……だが今の君はどうだ?」
「今のあたし?」
「そう。由比凪の鎌鼬と呼ばれた君の行動だ。由比凪の鎌鼬の被害者は腕に浅い十字の傷を刻まれていた。そしてそれを実行したのは君だ。そもそも何故そんなことを?」
「き、決まっているじゃないですか。悪縁を切るためです」
「それは違う。被害者達は誰一人として縁の悩みなど抱えていなかった。彼らに刻まれた十字架は悪縁を切り、救うための傷じゃない」
「本人が気づいていなくても悪縁が絡まっていることはあります。それを事前に切除していただけです」
「どうかな。彼らが本当に失くしたのは悪縁じゃなかったと思うが?」
「あ、あたしはただ縁切りの神としてすべきことをしていただけです! 本当に彼らに悪縁が纏わりついていなかったっていう証拠でもあるんですか!?」
「証拠か……その証拠はないな」
「じゃあ、あたしが言ったことの筋は通って……!」
「けどその代わり。被害者達が別のモノを失ったことについては確認が取れている」
「べ、別のモノ……?」
「わかっているはずだ。奪ったのは君なのだから」
「……………………」
気勢を削がれたような沈黙。着物の裾は固く握られ、ついには目も背けた。
絞り出すように、抵抗。
「自白……させようとしても無駄です」
「ハッタリだと言いたいのか? 残念ながら僕は答えを知っている」
「…………」
「言いたくなければ僕が言おう。君が被害者から奪ったのは……金銭だ」
「……っ、お、お金、ですか? 妖が人間のお金なんか手に入れてどうするっていうんですか? なんの意味もないじゃないですか」
「その答えが、『それ』だ」
僕は葦裁の背後に人差し指を向け、彼女の視線もそれをまっすぐに追った。
その先にあるのは……朽ち果てた賽銭箱。
「賽銭、つまりは供物。信仰や想いを物に託して捧げる風習」
「…………」
ここでの黙秘は肯定と同義。だが、あくまで自白はしないらしい。
それならそれで構わない。
「順を追って話そうか。そもそも君は最初、自分が由比凪の鎌鼬だと自白した。しかしその割には中途半端な黙秘をして謎を残し、僕ら自身の手で情報を集めさせた。予め用意しておいた証拠を適度に隠し、僕らの思考を誘導しようとした。『葦裁は由比凪の鎌鼬ではなく、哀れな誤解を受けた縁切りの神だった』という結論に」
「え……えっ……?」
「その時点で君は葦裁を騙る別人だと僕は考えた。本物であればそもそも妙な謎解きをさせる理由がない。正直に自己紹介すれば済んだことだ」
「ま、まさか、気づかないフリをしていたんですか……? ずっと……?」
「僕は普段から嘘を吐き慣れていてね」
やはり気づかれているとは思っていなかったらしい。かなり息が乱れていた。
続ける。
「葦裁の名を騙る理由、それは本物に成り代わろうとしているから……そんな説も出た。確かにそうであれば、君が切り裂き魔をしていた理由も、必要もないのに十字の傷を刻んだ理由も見えてくる。全てはあえて目立って話題性を出すため。葦裁のハサミを使って噂を立て、ハサミに信仰を取り戻させる。そうして君は本物に成り代わる」
けれどそれはそれで不自然な点がいくつかあった。
まず一つ。
「この神社の荒れようと末路を見て、成り代わる相手として選ぶとは思えない。君自身が語った『葦裁の末路』……あれは君がこの神社の廃れた原因を察していたからこそ言えたことだ。にもかかわらず、それをなぞるかのように切り裂き魔という過激な求心をしている」
二つ目。
「君が金銭を集めているという情報だ」
「……彼が話したんですね」
「どうかな。だが実際、その賽銭箱の中身も最近持ち去られた痕跡があった。由比凪の鎌鼬の被害者に改めて聞き込みをしたところ、彼らも金銭か食物を手にしている時にしか襲われなかったことも確認が取れた」
そして三つ目。これが最も重要だ。
「由比凪の鎌鼬の噂は都市伝説のように波及していながら、その信仰の力は君にもハサミにも流れていなかった。それを知った時、僕は思った。膨れ上がる信仰の力はどこに消えたのか? まさか霧消したはずもない。必ずどこかには流れているはずだ」
「……どこに……ですか?」
「知っているのは、君の方だ」
「……………………」
日がずいぶん沈んできていた。一足早い夜の帳のように、沈黙も降りる。
葦裁は一番初めに自白をした。だが、事件の核心となることだけは一度たりとも口にしていない。
それは本当に大事なモノを心の奥底にしまい込む、最後の最後まで降参しない姿勢。
今も。ここに至ってもなお、真相を自ら口にすることはない。
だから僕は思う。やはり……そういうことなのだろう、と。
細い一息を吐き、僕は用意してきたセリフを吐く。
「……かつて、日本でも口裂け女や人面犬といった都市伝説が流行り、噂が広がったことがあった。その結果なにが起きたかと言えば、元々は架空の存在だった都市伝説は実体を得て、人々が想像した通りの形で人間を襲った。……今回もそれと同じだとしたら?」
「……同じ?」
「実際に犯行を行っているのは確かに君だ。しかし人々の想像力の矛先はあくまでも『由比凪の鎌鼬』にある。事件が広まり、想像が膨らみ続けた結果生まれるのは、葦裁への信仰じゃない。人々の恐ろしい想像……『由比凪の鎌鼬』を現実にするためだけの心無き怪物」
「……それが、あたしとどう関係」
「もういいだろう?」
無駄な抵抗を断じる。遮られた葦裁も少しも動じなかった。この話にもう結論は出ている。それを彼女自身わかっているはずだ。
だからここで突きつける。
「君の動機は『由比凪の鎌鼬』という都市伝説と、その怪物を生み出すことだった」
「…………っ」
「都市伝説というのは『噂通り』という性質を強く持つ。特徴、生態、ルール、弱点と対処法まで、人々が想像し口にする設定が反映される。今の由比凪の鎌鼬は駅周辺で由比凪北高校の生徒に浅い十字の傷を刻むだけの可愛いモノだ。だが噂というのは一度火が点くと際限なく過熱し、過激なモノであるほど延焼し、真実を焼き殺しながら広がっていく。君もよく知っているはずだな?」
散乱した絵馬に視線が行った。冗談のつもりの残酷、正義の名分で嫌厭を断じる諸刃。かつて絵馬掛けはそんなモノで埋め尽くされていた。
「冗談のつもりで安易に人死にを想像する。無関心な他人の不幸を願い喜ぶ。その残酷さは流行に乗せられて知られていき、そのまま由比凪の鎌鼬の性質になる。そしてやがて本当に誰か殺されてしまおうものなら……人々の想像は一層煽られ、恐怖はさらなる恐ろしい設定を連想させ、由比凪の鎌鼬は人々の手によって怪物へと変貌していく。噂が消えない限り何度退治しても現れ、噂通りに人を殺して回る、不死身で心無き殺人鬼の誕生だ」
「…………」
「君がしてきた不可解な行動の数々はその火種作りだった。目立つ特徴の切り裂き魔の噂、人々から少しずつかき集めた供物、広がった噂の持つ信仰。その全てを『由比凪の鎌鼬』に捧げ、自分はその存在を伏せるために影武者を演じて僕を欺こうとした。違うか?」
「…………」
「間違いがあるなら……言って欲しい」
葦裁は……訂正してはくれなかった。
俯いた顔は斜陽に翳って見えないが、着物の裾が歪むほど強く握りしめたその手は震えている。……夢破れた少女のようだった。
やがて……彼女の手がゆっくりと解け、細く長い息を吐いた。緊張ごと解けたような吐息が終わると、彼女は鬼火のようにゆらりと顔を上げ、僕にその顔を見せた。
敵意――!
「……っ!!」
感じたその瞬間に彼女は動いていた。振りかざした細い腕が風を切り僕の首元を狙い迫る。
だが無駄だ。
飛び込んでくる腕を軽くいなし手首を掴む。戸惑う隙に逆の手は指を絡めて繋ぐように握る。それだけ。だが二手詰みも当然だ。不意の動きの中でさえ狙いが見て取れるほど弱々しい攻め手では。
両腕を広げるように伸ばせば拘束になり、自然と身も寄る。心臓の鼓動さえ感じる至近距離。視線を逃がそうと必死に顔を背ける葦裁は小さく息を乱していた。
「君は他人を傷つけることに慣れていないな」
「はぁ……はぁ……っ」
「そんな君がどうして『由比凪の鎌鼬』なんて生み出そうとした?」
「は、ふぅ……そんなの、答えは目の前にあるじゃないですか」
「……どういうことだ?」
「あたしが人間に襲いかかったところで、結果は知れているからですよ」
「…………」
「……そんな顔しないでください。そういう意味じゃないことくらいわかってます。けど人を襲う都市伝説を生み出そうと思ったのはあたしです。そのために人を傷つけたのもこのあたしなんです。そんなことをした理由……動機だって、想像はついているはずです」
「前に聞いた過去の話のことか? けどあれは……」
彼女は首を横に振り、肩が小さく下りた。その心身のどこにも抵抗は込められていない。僕は折れてしまいそうな細い腕をゆっくりと放した。
彼女が赤くなった手首をさすりながらため息を吐いた時、背後に参道を駆け上がってくる声があった。
「三咲! 無事か!」
シキだった。葦裁から目を離さず待つ僕の肩に飛び込むように乗ってくる。
「一通り駅周辺を探ってきたが、お前の言う由比凪の鎌鼬はとりあえずおらんようじゃ。そっちは?」
「こっちも大体の話は聞けた。ほとんどが昨日お前に話した通りだったよ」
「そうか……じゃが結局何故由比凪の鎌鼬など生み出して人間を襲わせようとしたんじゃ?」
「それをこれから話してもらうところだ」
二人分の視線が向く。息を吐く葦裁は僕らではなく足下へ、ぽつりぽつりと語り始めた。
――この神社に辿り着いたのは一ヶ月ほど前のことでした。
あたしがどこから来たのか、どうやってここへ来たのか、具体的なことは訊かないでください。……ただ逃げてきたんです。人から、妖から……辛いことから。
人も妖も寄りつかない朽ちた神社はまさに求めていた理想的な居場所でした。あたしは一目で惹かれ、少しの間でいいからここに住まわせてもらおうと思い、家主を探して神社を調べました。
……でも、神社から出てきたのは酷い言葉の数々。
すぐにわかりました。この静かな場所で暮らしていた家主……葦裁は人間の幸せに尽くし、人間に弄ばれ、無慈悲に殺された。赤い裁ちバサミ……抵抗出来ない身体を真っ二つに引き裂かれて。
辛い場所から逃げてきた先で見たのは、あたしなんかよりもっと残酷に殺されたモノの末路。しばらく涙と吐き気が止まりませんでした。
枯れるまで泣き腫らして、吐き出す物もないくらい吐き出した後、赤い裁ちバサミを見ながらあたしは思ったんです。
葦裁は……あたしと同じだ。
でも彼女は逃げられなかった。最期の瞬間まで人間の幸せを願い、その人間達に殺された。
ああ。あたしが葦裁神社に辿り着いたのは偶然じゃなかった。このハサミに呼ばれたんだ。人間達に復讐して欲しいって、きっと彼女がそう言ってるんだ。
だからあたしは決めました。このハサミを使って葦裁の無念を晴らす。あたし自身にとっても復讐になる。立ち向かって死んだ葦裁の想いを継ぐこと。それが逃げ出して無様に生き延びたあたしのなすべきことだって。
……でも弱いあたしが真っ向から挑んでも簡単に捕まって終わるのはわかってました。だから考えて考えて、それで由比凪の鎌鼬の噂を流すことを思いついたんです。
酷い流言で葦裁を殺した人間達が、今度は自分自身が吐いた流言で身を切られればいい、って。
「……これで……納得しましたよね?」
「…………」
昨夜はあんな風に憤っていたシキも今は黙り込んでいた。沈黙の吐息からは言葉を発そうとしては呑み込んでいるのが伝わってくる。
どんな事情があれ許されないと正論を突きつけるのは簡単だ。だが自然と踏みとどまれるところにシキの優しさがある。
だが全員が黙りこくっていては話が進まない。僕から率先して口を開く。
「今の話、嘘はないんだな?」
「ありませんよ。今さら嘘を吐いても仕方ありません」
「……そうか」
嘘はない、と。君はそう言い切るのか。
そんなはずはないんだけどな。
「のんびり話していていいんですか? 由比凪の鎌鼬を生み出すためにすべきことは済みました。今さらあたしを殺してもなんの解決にもなりませんけど、根源は断ち切っておいた方がいいんじゃないですか?」
「三咲、どうする? こやつの言う通りじゃ。都市伝説の流布を止めるためには意味ないが、ここでやっておく方がよいぞ」
「…………いや。その必要はない」
「ど、どうしてじゃ! また何をしでかすか!」
「ハサミは僕の手元にある。今は由比凪の鎌鼬への対処が優先だ。彼女のことはその後でもいい」
「う……ま、まぁ、確かに大したことは出来んじゃろうし、お前がそう言うならそれでもよいが……」
社と葦裁に背を向け、去る。さすがのシキも不安そうな目で振り返っていた。逆の立場なら僕だってそう感じただろう。
けど……今ここで葦裁を殺すわけにはいかない。
何故なら、これでようやく……。
「っ、三咲!」
突如シキの焦燥が響き渡った。その声に反応するより早く、僕の身体が強引に引っ張られた。まるで車道に飛び出した子どものように、僕の身体は脇へと引っ張り込まれ、転がる。
石畳に打ち付ける鈍い痛み。その直後を人影が猛然と駆け抜けた。
不来方三咲を轢かんと迫った危機から守るため、シキが無理矢理に僕を転がしたのだ。
ブレーキを踏まぬ車のような勢いで駆け抜けた妖は言うまでもない……葦裁。その勢いは参道を下ろうと一歩を踏み出した僕をそのまま突き落とすそれだった。
「葦裁……! 三咲を背後から突き落とそうとしおった!」
「いや待て、違う!」
確かに葦裁は僕らに向けて突撃してきた。だがシキのおかげで回避した今なお、葦裁は僕らを少しも見ていなかった。
一点を見据えたまま勢いを止めない葦裁。その先にあるのはもう、下りの参道だけ。
転げ落ちるだけで簡単に死ねる、下り坂だ。
ダメだ、それだけは――!
嫌な直感が背筋に悪寒を走らせた。だが地に転がったまま咄嗟に手を伸ばしても、遠ざかる葦裁の背に届くはずもない。
縋るように、いや、紛れもなく縋りつきながら、僕は声を絞り出す。
「シキ……ッ! 頼む!」
「ああ、心配いらん!」
僕の掠れた声に頼もしく呼応して、シキが葦裁を追って大きく飛び出した。
跳躍。瞬間、小さなぬいぐるみの依代が蒼白い炎に包まれた。
シキの身体を包んだ妖の蒼炎は中空でみるみる膨らんでいく。その大きさが僕の体長の数倍にも膨れ上がった時、蒼い炎の中から威風堂々たる白狐の足が覗いた。続いて尾、鼻先、耳と、まるで炎という殻を破るかのように、白狐の毛並みが姿を現していく。
そして蒼炎はついに泡のように弾け、荘厳で巨大な白狐が生まれた。
四つの足と尾先に蒼い狐火を揺らめかせる、幻の如き妖獣。シキの本当の姿だ。
シキが空を踏めば、足先から蒼き炎が凝固する。足を離せば炎の波紋が散る。まるで水面を歩くかのように、シキは空を駆ける。
空っぽの参道。その空に身を投げ出した葦裁を大きな口で器用に捕らえ、親猫のように咥え、僕の下へと戻ってくる。
それがたった一呼吸の間の出来事だった。
一切無事な葦裁の姿を見て、僕は止まっていた呼吸をようやく再開出来た。
「ふぅぅ……助かったよ、シキ。ありがとう」
「ん……構わん」
この姿でいる時は声も普段と違う。聞くだけで背筋から竦み上がるような、威厳ある大妖怪の声だ。
咥えられていた葦裁は解放され、シキもいつもの姿に戻る。だが、地面にそっと寝かされた葦裁は動かなかった。
「……葦裁?」
「大丈夫じゃ。息はある」
確かに彼女の胸は微かに上下していた。しかし張り詰めた尋問による疲労からか、起き上がる気力も残っていないようだった。
唇だけがなにか言いたげに震えていた。だから僕は彼女が言いたいことを……そして欲しかったであろう言葉を、静かに先んじる。
「どうして他人の名を騙り人を傷つける切り裂き魔なんかを助けたのか……君はそう言いたいんだろう」
「…………」
「僕は他人の言葉より、自分の目で見たモノを信じる性質なんだ。僕の目に映る君は、自分の目的のために他人を殺せはしない。それが君を殺さない理由だ」
「…………でも……」
「縁切りの神が宿るハサミは僕の手元にあり、君はこれ以上の被害を出せない。音沙汰がなければ都市伝説の鎮火も時間の問題。……『由比凪の鎌鼬』はもう、死んだんだ」
「…………」
葦裁は今にも途切れそうなゆっくりと浅い呼吸で、僕を見つめていた。それは計画を邪魔された切り裂き魔のものとは到底思えない、心の底からの安堵の表情に思えた。
そして、葦裁は。
「……そう……ですか…………た……」
緊張と疲労の糸がプツリと切れて、意識を失った。穏やかな眠りとは言えないだろうが、それでもその頬は張り詰めてはいない。
一息、安堵。
僕は彼女を抱きかかえて社に連れて行き、そのままそっと寝かせた。澄んだ空気に満ちた寝床に。
静かな寝顔を見て、シキがポツリと口にする。
「これが妖絡みの事件の終わり方、か。穏やかなものじゃな」
「…………」
「どうした?」
「……いや」
自分の目的のために他人を傷つけていいわけじゃない。それは変わらない事実だ。
けど彼女は彼女なりに必死に生きようとしていた。その生き方を僕は破綻させ、生きる希望を一つ奪ったんだ。……僕の信じる真実のために、彼女の目的を。
「……真実は本当に正しいのか、そう考えていた」
考えすぎだとはわかっている。行動と想いが矛盾していることもわかっている。
この矛盾から目を背けられたなら、生きるのはもっと楽だったろう。人に紛れ、人生を恙なく進めることも。
けどそれはきっと僕じゃない。別の誰かの生き方だ。
「やれやれ……自分から雁字搦めになって、不幸になりに行くなよ?」
「……気をつけるよ。それより、僕らがこれ以上ここにいる意味もない。帰ろう」
「じゃな。そう考えると、こやつの顔も見納めか」
「彼女が復讐以外の生き方を見つけられたら、その時また会える」
「お、アフターケアまで首を突っ込む気か?」
「……いや、生きる希望を奪ったのは僕だ。そんなことを言える立場じゃない」
「そうか。……なら、三咲」
シキが定位置、僕の肩の上にひょいと飛び乗りながら、満面の笑みをたたえた。
「わしが全てを代表して言ってやろう。ありがとうな、三咲」
「…………それはこっちのセリフだよ。シキ」
斜陽がかかり始めた参道を下り、トンネルを抜ける。僕は人間の街に帰ってきた。
「のう? これからどうするんじゃ? やはり都市伝説の実体化をもう少し様子見して、なにもなければよし。実体を持ち始めておったら退治してようやく終わり、といったところか?」
「ああ、その話はまだしていなかったな」
「むぅ……しかしこればかりは都市伝説の流行具合によるところもある。お前の言っておった通り、噂がなくならない限り都市伝説は消えん。ただ退治しても再び出現するだけじゃ。根源を断つには人の口に戸を立てるしかないぞ。どうするつもりじゃ?」
「いや、そんなことをする必要はないよ」
「へ? 必要はないって、どういうことじゃ?」
キョトンと純真に首を傾げるシキに、僕はある真実を告げた。
「さっきの話は嘘だからな」
「はぇ……嘘? って、一体どこがじゃ?」
「『由比凪の鎌鼬という都市伝説を作り、人々を襲わせる』……彼女は最初から、そんなことを目的にしていない」
「へ……? えええぇぇっ!? じ、じゃあ、昨日してた推理だの、さっきの自白だのは一体なんじゃったんじゃ!」
「必要なことだったんだよ。葦裁の目的を成就させるために」
「あ、葦裁の目的を成就ぅ!?」
そう。
「そしてこれで今夜、ようやく真実が見える」