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(10)『アシタチ様』

前回のあらすじ

三咲は「彼女は葦裁を騙る別人の可能性」を考えながら調査を始める。事件を複数に分類し、最も浮いた箇所から調べたが、そこに証拠らしい証拠は見出せず。

しかし、次に向かった先では……。


 蒼が救われたという現場は、葦裁神社と同じくらい寂しい場所だった。


 細い遊歩道沿いにある古ぼけた小さな橋。そう聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると橋よりもその向こう、山の方に目が行く。

 見るからに人の手が入っていない寂れた山。田舎にある誰の所有地とも知れない裏山、という表現をすれば伝わるだろうか。雑然と茂る木々に埋もれた山は、全貌が見えず薄暗い。


 橋の方も想像よりずっと不気味だ。この橋を隔て、世が分かたれているかのようにさえ思える。向こう側……あの真っ暗な山に踏み入れば、人は二度と戻ってこない。

 蒼という大人しくも優しい少女がこの山へ連れて行かれそうになったのだと思うと、それだけでゾッとする。


 ……と、そのような感想も後付けだ。僕らがここに到着した瞬間は、山だろうと橋だろうと、観察している余裕などなかったからだ。

 何故なら。


「み、三咲! 誰か溺れておるぞ!?」


 橋の下でもがく派手な水飛沫を聞き、見たからだった。


 決して清流とは呼べない川は僕らの直下を流れる。鬱蒼に翳る深緑の下、細く白い腕を必死に伸ばしてもがく何者か。姿形までは暗くてよく見えない。

 僕は橋の袂へ走り、一直線に滑り降りる。背後からシキの叱責が飛ぶ。


「おい三咲、迂闊に飛び込むな! 妖の罠かもしれんじゃろ!」

「罠じゃなかったら一刻を争う」

「罠じゃったら!?」

「フォローは任せる」

「ばっ!? 馬鹿じゃなお前はぁ!」


 腕と頬を切りながら滑り降りた僕は、溺れる手を迷いなく掴んだ。すぐに強く握り返されたのを痛みで確認し、引っ張り上げる。


「……っ!!」


 だが腕は引き上がらない。向こうからも誰かが引っ張っているような感覚があった。油断すれば僕ごと引きずり込まれそうだ。僕の手を握る力の強さが、溺れる者の息苦しさを物語る。


「大丈夫だ、今助ける……!」


 川に片足を突っ込み、全身の力で引き上げる。ぐ、ぐ、と、地面に突き刺さった杭が抜けるような感触と共に、じわじわと腕が川から引き上がる。


 もう少し……! 少しずつ抜けていく腕。袖口まで見えてきている。


 そして川に引き込まれるような重い感触が一気に抜けた瞬間、腕は完全に引き上がった。


「……っ!?」


 だが同時に、僕の足をなにかが捉えた。人間ではとても抵抗しようのない強い握力が、逃がした獲物の代わりに僕を淀んだ水の底へと引きずり込もうとする。

 体勢を崩して転び、水面が大きく跳ねたその瞬間。


「狼藉! 許すかっ!」


 目の前が蒼白く輝き、熱風が吹いた。シキが狐火を放って水面を叩いたのだと悟った時には、足首を握る手も消え、水面も凪いだ後だった。


 一陣の風が通り、一呼吸。


「はぁっ……はぁっ、ありがとう。助かった」

「いひひっ。任されたからには当然じゃ」


 得意げな顔で撫でられながら、その尻尾は嬉しそうだった。

 そのまま、上機嫌なシキは溺れていた誰かにも声を――。


「お前も大じょ……」


 ――かけようとして、あまりの驚きに言葉を失った。僕も同じように驚き、同じような顔をしているだろう。


 溺れかけ、あと一歩遅ければ助からなかったかもしれない彼女。全身ずぶ濡れで、長い髪からぽたぽたと雫を垂らしている彼女に、僕はどうにか声を絞り出した。


「まさか君だったとは」

「…………」

「……葦裁」




 ――鯉ノ堀こいのぼりという妖がいる。

 浅い水面にあぶくが立っていたら、その下には鯉ノ堀がいて、水底に引きずり込むと言われている。一説によると、あれはかつて城の堀に捨てられた錦鯉の亡霊が妖になったモノらしい。


 昔、ある屋敷の主人が庭で錦鯉を飼っていた。ある時、その内の一匹が病に罹った。鮮やかな錦模様もくすみ、鯉が吐く水で池も汚れていった。主人は他の鯉にうつってはかなわないと、その鯉を庭の池から引き上げた。

 だが主人は病気の錦鯉を看病するでも弔うでもなく、屋敷を囲う細い堀に投げ捨てた。子供の足首にも満たぬ浅い堀に捨てられた鯉は弱々しく水面を叩いていたが、すぐに動かなくなった。


 後日。主人の息子が堀の水面にあぶくが一つ、立っているのを見つけた。


 こぽっ……こぽっ……。


 底の見える浅い水面に、同じ感覚で小さくあぶくが立つ。もちろん水の下にはなにも見えない。

 だが、息子にはそれが庭の鯉達に似て見えた。餌を持って行くと一斉に顔を出し、口をぱくぱくと開いてねだる時と同じに。


 もしかしたら、あの泡の下には鯉がいるのかもしれない。息子は掘に足を踏み入れ、あぶくに触れた。


 わっ……!


 息子はいきなり足を引っ張られた。その身体は浅いはずの堀の底にずぶずぶ沈み、飲み込まれていく。必死にもがく手が水面を激しく叩いても、それは虚しく、誰にも届かなかった。


 やがて水面は動かなくなった。病に臥せった鯉のように。


 それ以来、その堀では時折、泡が二つ、立っていることがあるという。


 こぽこぽっ……こぽこぽっ……と。




「……それが……あの泡の下にいるんですか」

「あくまで言い伝えだ。この手の怪談にありがちだが、誰も見ていなかったはずの現場の様子を誰が伝えたのかという矛盾もある。けど、水面に泡を立て、近づいたモノを見境なく引きずり込む妖がいるのは確かだ。きっと昔からいたんだろうな」


 静かに泡立つ水面を橋の上から眺めつつ、僕は葦裁と言葉を交わす。


「彼らも悪意があるわけじゃない。鯉ノ堀という妖は近づいた者を引きずり込む。ただそういうモノであるだけだ。近づかなければ害はないし、パンを投げ入れてやると喜ぶ可愛げもある」

「そうですか…………あ、あの、助けてくれて、ありがとうございます……」

「本当にケガはないか? 不調は隠していいことはない」

「それは大丈夫です……本当に」

「ならいいんだ。タオルを取りに行ったシキもすぐに戻ってくる」

「……すみません……」


 今日の葦裁は随分としおらしい。俯き加減で声も小さく、引っ込み思案な印象を受ける。


 助けられた負い目もあるだろうが、むしろこっちが彼女の本来の性格なのだろうと僕は思った。根拠らしい根拠はなく、ただ今の方が自然に見えるというだけだが。以前会った時ほど、気を張ってはいない。


「それで? 君は何故ここに?」

「そっ、それは……」


 問いかけた瞬間、緊張が走った。張り詰めた雰囲気は、問い詰められる切り裂き魔のそれだった。


「……三咲さんこそ」

「僕は調査だ。言うまでもなく、君の隠しごとについて」

「……はい」

「それで、君は何故ここにいた?」

「…………」

「いや、少し違うな。何故この川に下りたんだ? 蒼と関係があるのか?」

「それは……ありません」

「関係ない、か。なるほど」

「な、なんです……?」


 不安たっぷりの声が震えている。僕は触れずに話を続ける。


「いや。だがまさか溺れに来たわけでもないだろう? そんなに隠したい理由なのか?」

「……っ」


 葦裁の視線――目元は隠れているため顔の角度からの判断だが――が彼女自身の固く握られた左手に向いた。無意識に、だが明確に。


 どうやらなにかを握りしめている。僕の視線が自然と向くと、彼女はそれを慌てて背中に隠した。


「大丈夫だ。奪ったりしない」

「あ……ご、ごめんなさい……つい」


 肩を落とす葦裁。どうやら彼女自身そのつもりはなく、反射的に隠そうとしただけだったようだ。


 反射的にモノを隠す仕草……後ろめたさを抱えていると考えることも出来るが……いや、そうじゃない。おそらく彼女は……。


 僕は一つの考えに至ったが、今は伏せておくことにした。仮にそれが当たっていたとして、すぐに正面から突きつけるのは愚策だ。ただ彼女を傷つけた上、解決の道も潰えるだろう。それを突きつけるタイミングは、今じゃない。


「神社から隠された絵馬が出てきた。君は単なる切り裂き魔ではなく、縁切りの神なんだろう?」

「……もうそこまでわかってるんですね。……流石です」

「どうして言ってくれなかったんだ? 正直に言ってくれれば最初から話が拗れることもなかった」

「え……?」


 葦裁はずいぶん驚いた目で僕を見た。それはまるで、信じられない、あり得ない光景を目の当たりにしたかのようだった。明らかに動揺した息遣いで、見るからに思考も乱れている。

 しかし僕がそれに反応しないとわかると、彼女は懊悩を伏せるように、ゆっくり俯いた。


「…………」


 その沈黙は短いが、重たい。詰まる吐息が空気を押し潰す。


「三咲さんも見ましたよね……絵馬」

「ああ。酷いものだった」

「あれは全部……あたしへのメッセージなんです」


 静かな、他人事のように静かな口調で、葦裁は語り始めた。




『悪しきえにしを裁ち切って欲しい』。それが葦裁という神の由来でした。

 病、怪我、災害、飢饉、悪人……結びたくない悪しき縁を断ち切り、守って欲しい。だから葦裁。


 あたしに出来るのは縁を切ることだけ。次にいい縁を結べるか、幸福になれるかはその人の行動次第です。それでも、自分に出来ることで幸せの手助けがしたかった。悪縁の赤い糸に絡め取られて苦しむ人が、次の縁を結べるよう歩き出すのを見送りたかった。


 昔の社は小さくひっそりとして、おかげで一人一人の顔がよく見えました。二度目に訪れてくれる人もいて、そういう人は一度目とは違う晴れやかな顔で……それがなにより嬉しかった。


 ……でもある日。こんな噂が人々の間で広まり始めました。


『アシタチ様は縁切りのためなら人を殺してくれる』


 どうしてそんな噂が流れたのかはわかりません。でもそれからはあっという間でした。訪れる人は一気に増え、立派な社も建てられ……あたしはいつの間にか、人を殺す呪いの神にされていました。


 毎日たくさんの人がやってきては、面白がって人殺しを願いました。目を覆いたくなる酷いことを願いました。『やめて』って叫んでも誰も聞いてくれなかった。誰にも届かなかった。


 そうして『アシタチ様』に注目が集まるほど、裁ちバサミは大きく力を持って、人々から存在を望まれて、神社も立派になって……嗤い声を聞かされることも……増えていきました。


 わかりますか? ただ悪縁を切るだけの神様なんかより、人殺しの方が遥かに人望を集めたんです。


 幸せになりたい人の手助けは続けたかった。でもそのためには願いと向き合わなきゃいけません。ぐちゃぐちゃに混ざってしまった願いの中から悪意だけを見抜いて弾くなんて不可能です。震える手で願いを開いて、恐ろしい言葉が流れ込んでくる度に吐き気がして……いつしか、願いに耳を傾けようとするだけで怖くて手が震えるようになってました。




「願いを聞くのが怖くて、全部に耳を塞ぐしかなくて、引きこもって、失望されて……大事なモノまで失って……これでもまだわかりませんか? 隠す必要もないことをどうして隠していたのか……」

「……いや」

「っ、……っぅ……っ」


 葦裁は顔を背けて嗚咽を漏らし始めた。手を伸ばせば届くはずの彼女が、ずいぶん遠くに感じられた。


 彼女は切り裂き魔だ。そしておそらく葦裁を騙る偽者でもある。であれば、語られた話は同情を誘うでっち上げで、この涙だって嘘なのかもしれない。この瞬間も心中では嘲笑しているのかもしれない。


 むしろその可能性の方が高いのだろう。そもそも彼女が偽者という仮説を提唱したのは僕自身。率先して疑い、指摘し、追い詰めるのが僕のすべきことなのだろう。それは重々わかっている。


 けれど……それでも。

 もし本当に胸を痛めていたらと、そう考えてしまう。

 涙を拭うために手を伸ばせたらと、そう思ってしまう。


「ありがとう。君の傷を見せてくれて」

「……っ」

「愛してくれる言葉だけを見て、悪意なんか無視すればいいと人間は言う。けど見なかったフリをしても痛みが消えるわけじゃない。他人にはそれがわからないんだ。……辛いな」

「っ……はい……」


 半歩だけ、僕は葦裁に歩み寄った。彼女は逃げなかった。


 ……我ながら呆れる。つくづく人は矛盾しないと生きていけないらしい。

 少し経つと葦裁も泣き止んだ。だが鞄をアタッチメントされたシキが帰ってくるまで、僕らは言葉を交わさなかった。


 切り裂き魔と隣り合って過ごす時間には、ただ静けさだけが寄り添っていた。



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