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婚約が破談になったので義弟の幸せのために身を引いて修道院に行こうとした結果

作者: 中村くらら

氷雨そら様主催「愛が重いヒーロー企画」参加作品です。

 トランクを閉めかけた手を止め、他に忘れ物はなかっただろうかと、私は部屋の中をぐるりと見回した。

 生まれてから二十年を過ごした自室は、日の光がたっぷり差し込む明るい部屋。柔らかな色合いの壁紙とファブリック。家具や調度品は、シンプルながら公爵家にふさわしい上質なもので揃えられている。


 ベッドサイドのクマのぬいぐるみは、五歳の時、お父様が外国のお土産にと下さったもの。

 クッションカバーの菫の刺繍は、刺繍上手のお母様の手ほどきを受けながら初めて仕上げた大作。

 どちらも思い出深い大切な物だけれど、修道院に持ち込める荷物はトランク一つ分までと決められている。

 荷造りをしながら俗世への未練を断ち切る。きっと、そのための決まりなのだろう。


 部屋の中をゆっくりと歩き回りながら、隅々まで目に焼き付けていく。

 ふと、本棚の左上で視線が止まった。

 擦り切れた背表紙は、弟のエリクがまだ幼い頃、一緒のベッドに潜り込んで何度も読んであげた子ども向けの冒険物語。


 パラパラとページをめくると、目当ての物はすぐに見付かった。シロツメクサの押し花で作った栞に、口の端がわずかに緩む。

 エリクが「姉さまに」とくれた花束の一輪。可愛い弟からの初めてのプレゼントが嬉しくて、枯れて朽ちてしまうのが惜しくて押し花にしたのだ。


 公爵家の後継者となるべく、遠縁の子爵家から引き取られたエリク。

 初めて会った時のことは今でもよく覚えている。当時八歳だったエリクは、ふわふわの金髪に夢見るようなブルーグレーの大きな瞳、肌が白く整った顔立ちの少年で、小柄な体格と相まって天使のような愛らしさだった。


『可愛い弟ができて嬉しいわ。姉さまと呼んでくれる?』


 高揚した気持ちで差し出した手は、すげなく拒絶された。


『いやだ! 姉さまだなんて認めない!』


 今にも泣き出しそうに顔を歪めたエリクは、環境の変化に戸惑っていたのだろう。たったの八歳で家族と引き離されたのだから無理もない。


 幼いエリクに寂しい思いをしてほしくなくて、逃げられても避けられても根気強く構っていたら、一ヶ月もしないうちに懐いてくれて、「レティシア、レティ」と私の後をついて回るようになった。

 それがたまらなく可愛くて、だけど最初が肝心と、


『私は四つも年上なのよ。名前ではなく姉さまと呼んでね』


 と言い聞かせたがなかなか改まらない。仕方なく、


『姉さまと呼んでくれないなら、エリクとはもうお話ししないわ』


 と強硬策に出てようやく「姉さま」と呼んでくれるようになり、安堵したことを覚えている。


 シロツメクサの栞をじっと見つめ、少し迷ってからワンピースのポケットにそっと忍ばせた。

 いつの間にか呼び方が「姉上」に変わり、天使のように可愛らしかった声もすっかり大人びた。あんなに小さかったのに、背だってとっくに追い越されている。

 エリクにも婚約者ができ、お互いに忙しくなって姉弟二人で過ごす時間はほとんどなくなってしまったけれど、今でもエリクが可愛い弟であることに変わりはない。


 そんなエリクを不幸にはしたくない。

 あんな醜聞に晒され、微妙な立場になってしまった私の扱いに、お父様達が頭を抱えていることも知っている。

 だから私は修道院に行くことを決めた。

 誰に強要されたわけでもない、私自身の意志で。


 優しい家族が知れば引き留められるのは分かっていたから、誰にも相談しなかった。

 両親とエリクが出かけているこの隙に、密かに屋敷を出て修道院に向かう計画だ。

 チェストの引き出しに、行き先を書いた手紙を残しておいた。悲しませてしまうだろうけど、きっと分かってくれるはずだ。


 トランクの蓋を閉め、両手で持ち上げる。


「……さようなら」

  

 思い出が詰まった部屋に背を向け、私は扉に手をかけた。




 

 婚約が破談になった。

 十年前、私が十歳の時に結ばれた婚約の相手は、この国の第一王子パトリック殿下。

 対する私、レティシアは筆頭公爵家の一人娘。

 釣り合いの取れる家柄、さらに殿下が私を見初めたからと、王家から望まれての婚約だった。


 立太子こそされていなかったけれど、第一王子であるパトリック殿下は次期国王の最有力候補。

 私も次期王妃として相応しくあるべく、来る日も来る日も勉強と社交に明け暮れた。遊ぶ時間も、眠る時間さえも削って。

 きっと至らない点もあったことだろう。けれど私は精一杯努めていたつもりだった。


 ところが殿下と私が二十歳を迎え、半年後には正式に婚姻というタイミングで、この婚約は解消された。

 パトリック殿下の不貞が原因で。


 普通なら、男性側に一度不貞があったというだけでは、婚約解消にまでは至らない。

 王族や貴族の殿方が愛人を持つなんて珍しいことではないし、現にパトリック殿下のお父上――つまり国王陛下にも、お妃様の他に三人のご愛妾様がいらっしゃる。

 それにもかかわらず婚約解消に至ったのには二つの理由があった。


 まず、不貞の相手が悪かった。

 よりによって、私の弟エリクの婚約者であるミレーヌさんと浮気をしていたのだ。


 さらに、不貞が発覚した経緯も救いようのないものだった。

 王宮で開かれた夜会の最中に、他国の賓客も利用する可能性のある応接室で、鍵もかけずに密会していたのだ。


 私達公爵家の家族が、懇意にしている隣国の公爵夫妻と語らうために応接室に入ると、眩いシャンデリアの真下の長椅子に、生まれたままの姿で絡み合う若い男女の姿があった。それがパトリック殿下とミレーヌさんだった。

 隣にいたエリクがすぐさま我に返り、「姉上は見ちゃ駄目だ」と手の平で私の目を覆ってくれたおかげで、おぞましい光景をほんの一瞬しか見ずに済んだのは不幸中の幸いだった。


 半狂乱で悲鳴を上げ続けるミレーヌさん。「ちっ、違うんだレティ、これは!」としどろもどろで言い訳を連ねる殿下。「殿下、これはいったいどういうことですかな!?」と怒気を隠さないお父様。ショックのあまりふらりと倒れたお母様。呆気に取られる隣国の客人。騒ぎを聞いて駆けつけてきた衛兵や野次馬の夜会参加者達。

 恐慌状態に陥った応接室で、私はなんだか現実味のないまま、エリクの手はいつの間にこんなに大きくなったのだろうと、ぼんやり考えていたのだった。


 その日はどうにも収拾がつかず、翌日改めて王宮に関係者が集められ、話し合いの場が設けられた。

 その結果、私とパトリック殿下の婚約、エリクとミレーヌさんの婚約は、いずれも解消することが決まった。


 国王夫妻とパトリック殿下は婚約の継続を希望したが、お父様の怒りは収まらず、最終的には私の意向を最優先するということになった。

 それを聞くとパトリック殿下は顔に希望の色を浮かべ、私の方に身を乗り出した。


「本当にすまなかった、レティ。私が愛してるのはレティだけなんだ。だけどレティは結婚するまで口づけも駄目だと言うから、その、寂しくて、それであの女に誘惑されてつい……。ほんの出来心というか、遊びだったんだ、全然本気なんかじゃなくて! だから、な? 許してくれるだろう?」


 許して貰えるに違いないと期待する眼差し。次期王妃の座を簡単に手放しはしないだろうと、タカをくくる気持ちもあったのかもしれない。

 けれど殿下が言葉を重ねれば重ねるほど私の失望は深まり、心は冷めていった。


 色々なものを我慢し、諦めて、婚約者として殿下に尽くしてきた。それをあっさり裏切っておいて、まるで私が悪かったかのように言う神経が理解できない。

 それに、殿下の不貞は多くの人に目撃されてしまった。あっという間に社交界中に知れ渡ることだろう。

 私はこの先、好奇と同情と侮蔑の視線に晒されることになる。そんな中で平然と殿下の隣で微笑んでいられるほど、私は図太くもなければ次期王妃への執着もなかった。


 それでも――。

 私は、心配そうに私を見つめるエリクの顔をちらりと盗み見る。

 もしも殿下の浮気相手がミレーヌさんではなく他の女性だったなら、私は婚約を解消しようとまでは思わなかったかもしれない。

 国王夫妻やパトリック殿下に請われて流されてしまっていたかもしれない。

 けれど、私が殿下を許せば、エリクもミレーヌさんを許さなくてはならなくなるのではないか。そんな不安があった。


 すでに退室を命じられてこの場にはいないミレーヌさんの態度を思い出す。

 ミレーヌさんは一応謝罪の言葉を口にしながらも、自分の非を認めようとはしなかった。


「寂しかったの! わたくしはこんなに好きなのに、エリクはそうじゃない! だってエリクの一番は、婚約者のわたくしではなくレティシア様なんだもの! 寂しくて憎くて、だからレティシア様の婚約者と――」

「姉上のことはもちろん大切に思ってるよ。……家族だからね。だけど貴女のことも、婚約者として誠実に尽くしてきたつもりだったんだけどな……」

「そんなの! 所詮はレティシア様の身代わりとしてだわ!」

「……貴女を姉上の身代わりだと思ったことは一度もないよ」

「嘘、嘘、嘘! エリクは嘘ばっかり!」


 髪を振り乱して泣き喚くミレーヌさんを見つめるエリクの顔は、困惑に満ちていた。

 私も同じ気持ちだった。

 ミレーヌさんはいったい何が不満だったのだろう。なぜ私への嫉妬に憑りつかれてしまったのだろう。

 婚約者として堂々とエリクにエスコートされ、記念日には美しい贈り物を贈られ、誰よりも近くでエリクの微笑みを独占していたのは、私でも他の誰でもない、ミレーヌさんだったというのに。


 憂いを帯びたエリクの横顔を見れば、彼がこの婚約からの解放を望んでいることは明らかだった。

 私も姉として、可愛い弟にはもっと良い人と幸せになってほしいと願っている。


 だからパトリック殿下との婚約を解消したことに悔いはないのだけれど、私の立場はかなり微妙なものになってしまった。

 二十歳になっての婚約解消。急いで新しい婚約者を探さなければならないけれど、家柄や年齢で釣り合いの取れる未婚の男性には皆、すでに決まった婚約者がいる。

 後妻や外国の王侯貴族にまで選択肢を広げるべきかと頭を悩ませたお父様は、悩みすぎたのか、とんでもないことを言い出した。


「エリクと結婚して二人で我が家を継ぐ気はないか?」


 そういう選択肢があることには、とっくに気付いていた。

 私は公爵家の一人娘。もしパトリック殿下との婚約がなければ、婿を取ってこの家に残っていたはずだった。その相手がエリクだった可能性も――きっと、あった。


 だけど現実には、エリクは私の弟としてこの家にやってきて、姉弟として育ってしまった。

 長い間、姉として接していた四つも年上の女を、妻として娶らねばならないなんて、そんなのあんまりだ。エリクが気の毒すぎる。エリクには、いくらでも選択肢があるというのに。


 お父様からエリクに話が行ってしまっては、養子の立場で拒否することはできないだろう。

 だから私はお父様に断りを入れ、急いで修道院に入る準備を始めた。幸い、私の名前でいくつかの修道院に毎年寄付をしていたから、受け入れてくれる修道院はすぐに見付かった。

 密かに荷造りをしながら、心の整理もつけたつもりだ。

 あとは修道院に向かうだけ――。





 自室を出て一歩踏み出すと、目の前に、外出しているはずのエリクの姿があった。


「ど、どうして……」


 エリクは何も答えず、無言で私の手首を掴むと、今しがた出てきたばかりの部屋に私を引っ張りこんだ。扉を閉め、ご丁寧に鍵までかける。

 思わず後ずさった私だったが、背中が壁にぶつかり止まってしまう。その私の顔のすぐ横の壁に、まるで私を閉じ込めるようにエリクが両手をついた。

 私を見下ろすエリクの顔を見て、ヒュッと息をのんだ。怒っている。ものすごく。


「エ、エリク、怒ってる、よね……?」

「ええ、怒ってますよ。姉上が僕から逃げようとするから」

「逃げるって……」

「なぜ修道院なんかに? 相談もなしに。そんなに……そんなに僕と結婚するのが嫌ですか」

「い、嫌とか、そういうことでは……。でも、だって、私達は姉弟だもの。結婚なんて……」


 穏やかで朗らかで紳士的ないつものエリクと全然違う様子に戸惑いながら、しどろもどろに答えると、エリクは傷ついたように表情を歪ませた。

 初めて会ったときのような、今にも泣き出しそうな顔。心の奥がぎゅっと苦しくなる。エリクにこんな顔をさせるつもりではなかったのに。


「エリク、あのね――んっ……⁉」


 どうにか言葉を紡ごうとした私の口は、エリクの唇によって塞がれた。

 手から離れたトランクが重たい音を立てて床に転がったが、気にかける余裕もない。

 強引に割り入ってきた分厚い舌が、私の口の中を隅々まで蹂躙する。

 ぐいと顎を掴まれ、苦しいくらいに上を向かされて。まるで私を食らいつくそうとするかのように。

 恐ろしいほどに甘美な感覚が腹の奥から全身に広がり、不安や羞恥を駆逐していく。

 どのくらいそうして貪られていたのだろう。頭の芯が痺れて何も考えられなくなり、足ががくがくと震え始めた頃、エリクはようやく私から唇を離した。

 エリクは私の顎を片手で捕えたまま、腫れてジンジンする私の唇を親指の腹で撫でた。


「姉上は、キスは結婚相手としかしないんですよね? これでもう、僕と結婚するしかなくなりましたね?」


 ね、と私の目を覗き込み、エリクが自分の唇をペロリと舐める。

 その表情に背筋がぞくりと震えた。無垢で可愛い弟の面影は、そこにはなかった。


「ど、どうして、こんなこと……」


 頭の中がぐちゃぐちゃで、自分でも分からない感情で胸がいっぱいになって。溢れ出したものが涙となって頬を伝う。

 途端にエリクが顔色を悪くした。


「そんな……姉上、泣くほど嫌だったなんて……」


 私の顎を掴んでいた手が力なく離れ、よろめくように一歩下がる。

 さっきまで私を好き勝手に翻弄していた唇が、青褪めてわななく。

 

「ごめん、ごめんなさい、姉上……」

「エリク……」

「僕が公爵家を出るから。だから……僕を嫌いにならないで……」


 ぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙に、今度は私がぎょっとする番だった。


「あっ、姉上に、き、嫌われたら、生きていけない、僕に生きてる価値なんか、ない……」

「エリク、落ち着いて、エリク」


 おずおずと手をのばすが、エリクは逃げるようにふらふらと後ずさる。

 やがて長椅子にぶつかったエリクは、尻餅をつくようにその場に座り込んだ。


 見上げるほど背が伸びて、逃れられないほど力も強くなったエリク。

 けれどこうして小さくしゃくり上げながら項垂れる姿は、幼い少年のようで――。


「嫌いになったりしないわ」


 傍らに跪き、頭を両腕でそっと抱きしめると、エリクが小さく身を震わせた。


「ほんとに……?」


 腕の中で、私を見上げるブルーグレーの瞳が不安げに揺れる。安心させるように微笑んで見せた。


「本当よ。エリクを嫌いになるなんてありえない」


 だって、初めて私の前に現れたあの日から、エリクはずっと特別な存在なのだから。

 少し癖のある金髪をそっと撫でる。数年ぶりの柔らかな感触に、愛おしさが込み上げた。


「エリクには幸せになってほしいの。この家の跡取りとして、ずっと頑張ってきたのを知ってるわ。それなのに、大切にしていた婚約者に裏切られて、その上、嫁き遅れの姉を押し付けられるなんて、そんなのあんまりだわ。だから修道院に行こうと……」

「僕の、幸せのため……?」


 こくりと頷くと、「だったら!」とエリクが声を上擦らせた。


「だったら……僕の幸せを願ってくれるというなら、ずっと僕のそばにいて。僕と結婚して下さい」

「でも……」

「姉上を妻にしたいと、僕が父上にお願いしたんです。姉上と結婚できないなら、後継者の地位を降りると」

「そんな! そんなの駄目よ! 今までの努力を無駄にするなんて!」

「姉上がいたから頑張れたんだ。姉上がいなきゃ頑張れない……」


 エリクが私の腰にぎゅっと抱きつき、甘えるように頭をぐりぐりと押しつけてくる。


「……本当に、私でいいの?」

「姉上がいい。姉上じゃなきゃ嫌だ。好きなんです。ずっと好きだった。姉としてでなく、一人の女性として」


 潤んだ目で見つめられ、顔に熱が集まるのを自覚する。

 エリクが私を好きだなんて、都合の良い夢でも見ているんじゃないだろうか。

 もし夢でないなら――どうかこのまま覚めないでほしい。


「これから先も、死ぬまで姉上だけを愛すると誓います。だからお願い。どうか頷いて……」


 懇願するような眼差し。どくどくと、苦しいほどに鼓動が鳴る。

 ずっと、見ないようにしてきた。

 初めて「姉さま」と呼ばれた時、安堵しつつも胸の奥が小さく痛んだこと。

 エリクの身長が私を追い越し、ミレーヌさんと婚約した頃から、「そろそろ弟離れしなきゃね」と、エリクと距離を置くようになった。その裏側にあった、恐れに似た気持ちの正体に。

 もう、自分を誤魔化すことはできない。


「……結婚、するわ。エリクと」


 覚悟を決めてそう告げると、エリクがパッと顔を輝かせた。蕩けるような笑顔に見惚れているうちにぐいっと腰を引き寄せられる。

 エリクと向かい合わせに、その膝に跨がるように座っていることに気付き、頬が熱くなる。慌てて降りようとしたが、腰に回されたエリクの腕はビクともしなかった。

 エリクが真正面から私を抱きしめる。感極まったような吐息が、首筋を熱くくすぐった。


「……ごめんね、姉上。僕のこと、嫌いにならないで……」


 あれだけ強引なことをしておいて今さら弱気なことを言うエリクがおかしくて、思わず笑みが漏れた。


「もう。心配性ね、エリクは。嫌いになんてならないわ。私も……エリクのことが好きだもの」


 もう、自分の気持ちを偽ることはしない。私もエリクのことが好きだった。いつから? たぶん、そう、初めて会ったあの時から――。

 

「……ねぇ、姉上。もう一度キスしてもいい? それとも、やっぱり結婚するまでは駄目……?」


 上目遣いに私を見つめるエリクは、ずるいくらいに可愛い。


「駄目……じゃない、けど」


 恥ずかしい、という言葉は甘いキスに飲み込まれた。

 初めての時の荒々しいキスとは違う、触れるだけの優しいキス。


「愛してる、レティ……」


 掠れた声で名を呼ばれ、胸の奥が歓喜に震えた。

 何度も何度も、角度を変えて贈られる口づけ。

 私はそっと目を閉じて、その甘美な幸福に身を委ねた。






◆  ◆  ◆






 姉の婚約が破談になった。

 ――僕の計画通りに。


 初めて出逢った時、女神様は本当にいたんだと、そんな陳腐な思いがよぎったことを覚えている。


『姉さまと呼んでくれる?』


 その人は、そう言って手を差し出した。

 サラサラと光を弾くプラチナブロンドの髪。宝石のように深い青の瞳は、美しい笑みの形に細められている。

 ひと目で心を奪われた。

 と同時に、僕は初恋が砕け散ったことを知った。


 レティシア。

 公爵家の一人娘で、僕の義理の姉になる人。

 そして、第一王子の婚約者――。


 その事実を受け入れることができなくて、レティシアを姉と呼ぶのを拒絶した。

 レティシアはほんの一瞬傷ついた顔をしたけれど、根気強く僕に寄り添おうとしてくれた。押しつけがましくない、適度な距離感で。

 そのおかげで僕はすんなりと公爵家に馴染むことができたけれど、レティシアを諦められない気持ちはますます募っていった。


 一ヵ月ほど考えた末、僕は一旦、弟の立場を受け入れることにした。

 誰よりもレティシアの近くにいるために。

 弟として甘えれば、レティシアは嬉しそうに応えてくれた。

 頭を撫で、抱きしめ、一緒のベッドに潜り込んで本を読み、額におやすみのキスをしてくれた。僕が密かに恋情を募らせているとも知らずに。


 やがて僕に婚約者ができた頃、レティシアは「そろそろ弟離れしなきゃね」と冗談めかして言い、僕と距離を取るようになった。

 家族として食事などを共にすることはあれど、二人きりになることのないよう立ち回っていた。

 顔を合わせれば笑顔で話してくれるけれど、頭を撫でてくれることも、抱きしめてくれることもない。レティシアが足りなくて、気が狂いそうだった。


 唯一触れることが許されるのは、夜会でエスコートするときくらい。でも、それすらも稀にしかなかった。

 レティシアにも僕にも、婚約者がいたから。


 レティシアの目の前で他の女をエスコートし、微笑みかけ、贈り物をすることは苦痛でしかなかった。

 僕がミレーヌをレティシアの身代わりにしたって? 冗談じゃない。他の女に愛しいレティシアを重ねたことなど、ただの一瞬もない。

 だけどどれほど業腹でも、ミレーヌは僕の計画に必要な駒だった。惚れっぽくて、嫉妬深く、貞操観念の緩い駒。そんな女を慎重に選び、ぜひ彼女を婚約者にと希望した。


 僕はミレーヌに誠実に接し期待を持たせ、けれど一定以上は踏み込ませない絶妙な距離感を維持した。

 そうしながら、「婚約者の弟」の立場を利用して、パトリック王子とミレーヌを度々引き合わせた。

 王子はレティシアの見た目に惚れている。貞淑で口付けも許さないレティシアに不満を抱いていることを、男同士の会話の中で零していた。

 そしてミレーヌは、外見だけならレティシアと似ているところがある。


 目論見はうまくいき、パトリック王子はミレーヌに興味を示し、レティシアの身代わりにミレーヌの体を求めた。

 あの夜会の日、さりげなく情報を与えて二人をあの応接室に誘導した。密かに施錠を解除し、それからタイミングを見計らって皆を応接室に案内した。

 全てが計画通りに進んだ。無垢なレティシアに汚らわしいものを見せてしまったのだけは後悔しているけれど。他の男の裸など、今すぐにレティシアの記憶から抹消してしまいたい。


 唯一不安だったのは、レティシアが王子との婚約解消を決断してくれるかどうか、ということだった。

 ただの浮気では、心優しく責任感の強いレティシアは許してしまう。だからここまでお膳立てしたけれど、不安で不安で吐きそうなほどだった。婚約解消が決まったときは天にも昇る心地だった。


 こうして二つの婚約は破談になり、僕はすぐさま父上にレティシアとの婚約を願い出た。

 父上は迷いつつも、レティシアが了承するなら、という条件付きで許してくれた。


 それなのに、レティシアは誰にも告げずに修道院に行こうとした。僕から逃げようとした。

 僕から離れるなんて許さない。絶対に逃すものか。

 強引に唇を奪い、それなのに抵抗されなかったときは、昏い喜びに我を失いそうになった。

 涙を見せれば、レティシアは僕を優しく抱きしめ、最後には結婚に応じてくれた。昔からそう。レティシアは弱くて可愛い僕に甘い。


 例の騒動で、王子は無期限謹慎処分になった。優秀な第二王子もいることだし、王太子の座は一気に遠のいたことだろう。

 ミレーヌは修道院に入ることになったと聞いている。

 二人に悪いことをしたという気持ちは微塵もない。だって僕は場を整えただけ。選んだのは彼ら自身なのだから。


 ――なんて、僕が考えていることを知ったら、レティシアはどう思うだろう?


「……ごめんね、姉上。僕のこと、嫌いにならないで……」

 

 首筋に顔を埋めて囁けば、くすくすと小さな笑みが返ってきた。


「もう。心配性ね、エリクは。嫌いになんてならないわ。私も……エリクのことが好きだもの」


 ああ――本当に、本当にレティシアは僕に甘い。僕なんかにこんなに簡単に付け込まれて。なんて可哀想で可愛いレティシア。


 恥じらうレティシアに、今度は優しく口付ける。

 ずっとずっと、こうして触れたかった。

 キスを重ねる度にうっとりと蕩けていく顔に、切れそうになる理性をどうにか繋ぎ止める。

 今日はキスだけで我慢すると決めている。レティシアに嫌われたくはないから。

 ――嫌われたって、もう逃がしてなんてあげられないんだけど。

 

「愛してる、レティ……」


 細い腰を強く抱き寄せ、浅ましい思いを注ぎ込むように、僕は彼女に深く口付けた。


最後までお読み頂きありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
重すぎて石になってしまったわ。 全部計画通りなの弟君すごいね! あとそれにホイホイ引っ掛かる二人も二人だけど
きれいなお姉さんには勝てないよね。 きれいなお姉さんのレプリカも直感でわかるんだなーと関心。 キスだけじゃなくドロドロの欲望を注ぎ込んでも大丈夫。 貴族の貞操観念なんて低い。
ミレーヌは順番さえ間違えなければ…
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