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判然としない

 ——俺はすずちゃんのこと、愛してるよ。


 ——私もタカくんを愛してる。タカくんを離したくないよ。


 私は脳内であの日の会話が延々と再生されていて、鮮明に想い出せる筈なのに、彼の身長がどのくらいか、垂れ目か吊り目か、鼻筋がとおっていたか通っていないかといった彼の身体の特徴が判然としない。

 私に健忘症の類いとみられる予兆は起こっていない。健忘症に陥る不幸な出来事に遭遇したわけでも、そのような歳でもない。

 私は、まだ32歳という(わかさ)だ。


 山に建つコンクリート造りの監獄のような夫のアトリエから街へと下りた現在(いま)の私は、猛暑で強い陽射しを身体に浴びながら、歩道を歩いている。

 結婚した夫は、小説の執筆の最中でスランプに陥っていた。

 彼は、私が鼻唄を奏でたら、声を荒げるようになった。

 私は彼にアトリエから追い出され、気分転換に街へと下り、昼食に出来立てのパンを食べようとパン屋に赴く最中だ。


 擦れ違う主婦やサラリーマン、はしゃぐ子供等の顔の造形や着ている洋服がどのようであったか、記憶に留まらず、抜け落ちて忘れていく。

 愛している夫——八多谷和貴とは生まれ育った県を出て、この街に移り住み、5年以上共に過ごしている。

 高校生の頃から交際して、現在に至るまで彼と別れたいと思ったことはないが、たまに自ら生命を絶ちたいという衝動にかられることがある。

 幸せなのに……幸福なのに、夫の前から姿を消してしまいたいと思ってしまう。

 彼が新作として出版した4作目の小説——『パレード』は読めずにいる。

 私は彼が書き上げた『パレード』という長篇小説を開かず、一行すら読まずにいる。

 私は、彼が私の谷間に顔を埋め、「僕は……すずちゃんのココロがどこにあるか、知りたいんだ」と囁き、心臓の鼓動を聴いている記憶が蘇り、『パレード』が読めない。


 私は彼と交際してから不可解なことに遭遇するようになった。

 私が彼と想い出を語っていると彼が話す想い出の内容とくい違い、齟齬が生じる。

 デートで私がいつまで待たしたとか食べた食事のメニューが違っていたとか、思い出の記憶に齟齬が生じていった。


 パン屋に到着した私は、入店してトレーとトングを両手に持ち、品定めに取りかかる。

 夏で冷房が効いているのは普通だが、山を下りてから今に至るまで鳥肌が全身にたつ程寒い私だったので、店員に、要望を告げる。

「あの〜寒いので冷房を——」

「寒い……?こんな茹るような猛暑日に、寒いですか……?」

「す、すみません……」

 店員が首を傾げ、怪訝な表情を浮かべたので、か細い声で謝罪し引くことにした私。

 カウンター内に戻っていく店員の背中から並べられた数々のパンに意識を戻した。

 私はクロワッサン、カットされたフランスパン、メロンパンをトングで掴み、トレーに載せていく。

 私は会計時にホットコーヒーを頼んで、店内で昼食を摂ることにした。


 私はカウンター席に腰を下ろし、トレーに載ったクロワッサンを口に運び、咀嚼する。

 私はふと街に下りてパン屋でパンを食べているのか、疑問を抱き、記憶を辿ろうとした。


 脳内に浮かんだ記憶は、夫がマンションを出て行き、音信不通で友人に相談して、やりたいことをすれば良いと言われ、空腹な腹に好きなパンを収める為にパン屋に赴いたというものだった。

 木漏れ日の道を歩いた光景が一瞬ではあったが、脳内に浮かんだ。


 まあ、どうでも良いか……今は。


 私がフランスパンを齧っていると、ショルダーバッグに収まっていたスマホが着信を告げた。

 スマホを掴み、画面に視線を移すと友人の苗字が表示されていて、通話に出る。


 私は通話を終え、マグカップから湯気が立ち昇るホットコーヒーに怪訝な表情を向けた。

 こんな猛暑日に外出して、ホットコーヒーを頼んでいることに不可解さを感じた私だった。


 なんで私……ホットコーヒーなんて頼んだんだろう?


 パン屋を出て、着ている肩を露出させたノースリーブの白いワンピースにも首を傾げた。

 八多谷に肌の露出を控えた洋服を着てほしいと言われていた筈なのに……





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