三話 『記憶』
「ネラさん、あなたどこかで、高濃度の魔粒子に溺れませんでしたか? 例えば装備もなしにAランクのエリアに踏み入ってしまった……とか」
ネラはその言葉に覚えがあった。
一度だけ、仲間と共に死の大地を北上していたときに突然呼吸ができなくなった。足が浮き上がり、空中をもがくが何もできずに、仲間に押し出された。助けてくれた仲間は逆に溺れて……あれは、高濃度の魔粒子に溺れたものだとネラも思っていた。
それも、かなり局所的な……。
ヴェイルグリーン症候群になったのも、その時だ。
「……」
「まあ、意識がなくなったり、暴力衝動がわいてきたり――なんてことは無いと思うので、安心してください。今までと変わらないと思います。何か変化があれば、かならず言ってくださいねー」
手を振りながら去って行くヘイケがそんなことを言っていたが、ネラの気分は最悪だった。
ただ、ヘイケが言ったことも、この資料のことも信じられない――信じたくないとネラは思った。
パルスリート君主国の人間にとってプロティアン、ましてや魔法に関する内容のものは忌避される。戦後にモースランドル共和国とは共同歩調をとってきたといっても、友好同盟を結ぶほどに両国の関係は改善していない。とくにパルスリート君主国からみたモースランドル共和国は、プロティアンの原因となっている魔粒子を魔法という形態で軍事のみならず日常生活でも利用されているのが理解ができなかった。
ただ、ネラにとっては、魔法はあくまで一つの技術体系程度の認識で、他国の人間が魔法を使おうが使わないが関係がなかった。
だが、自身がその同じような対象、ましてやプロティアンと同じ生物に変わろうとしているなんて到底受け入れられるものではなかった。身が捩れそうな思いが胸を締め付けた。
歯ぎしりをするように親指をかみ切ると、指先からはポタポタと赤い血が流れ出てくる。
――あいつらの血と違う……。プロティアンなら青緑色の血液が流れているはず。理屈があわない。
「……ルーベン…………」
腕にまで広がっていたヴェイルグリーン症候群の跡を見ながら、かつての仲間の名前を口にして、少しだけ恨んだ。
「あんたが助けてくれたから、私はどうすればいいか分からないわ――」
‡‡‡
「ヘイケせんせー、いる?」
「あら、ヒルダさん、今日って定期検診の……日ではないのに珍しいですね、風邪でも引かれましたか?」
「んー、いやちょっと……さ」
ウィッチャーにおいて、医療部隊として活動する灰の部隊は各町や村に拠点となる支部が点在する。
その数はどの部隊よりも多く、ほとんどの支部は医療施設――病院――として民間人も利用されている。
ティアミンにある灰の部隊の支部はヘイケ・ベールがセンター長として稼働しているが、規模としては十人のスタッフが働いている、小規模の診療所に近い施設だ。
ここでは、風邪症状や腹痛、腸炎などの内科診療が主だが、魔法使い特有の病気などを治療する魔療内科もここで対応できる。
「顔色が良くないですね。ヘイケ先生に取り次げば良いですか?」
「うん。お願い、ココさん」
朝起きてから、ヒルダは気分がすぐれなかった。
漂う空気に不快さを感じた。それは、ほんの少しだけいつもより空気が冷たく、湿気が張り付いたような感覚だった。窓の外を見ると空がよどんでおり、雨が降る前触れかとヒルダは思いながら、傘を手に持ち外に出かけた。
特に意味も無く町を歩いているだけだったのに、気付くと、診療所の扉の前に立っていた。
受付を済ませたヒルダは待合室の椅子に腰掛けて、昨日見た空を思い出す。
魔粒子によって青緑色に輝く空が海のように波打ち、徐々に押し寄せてくる、その異様な光景と、低音で響く鐘の音は不気味で、思い出しただけで息が詰まる。
そして、ヒルダの古い記憶がフラッシュバックする。それは、小さい頃にカーララで経験した、溺れる記憶――。
その時も同じ空だった。同じように鐘の音が聞こえていた。
その後は、皆が逃げ回り、そして村が壊れていく光景を、私も逃げながら見ていた。
そして溺れた。池や湖で溺れたわけではない。何もない道だった、ただそこを走り抜けたときに地面から足が浮き、呼吸ができなくなった。まるで水の中のように。
今なら知っている、あれは、魔粒子濃度が高い場所で起きる現象だ。人間はもとよりプロティアン以外の生物は、まともな活動はできない。
魔粒子が極端に多くなることで、酸素濃度が薄くなるためだとユディが教えてくれた。体が浮く理由は私には難しすぎて理解できなかった。
こんな気分になったのも全て、あの空を見てからだ。波打つあの空をまた見ることになるとは思わなかった。自分にこんなトラウマがあったなんて知らなかった――。
「一昨日のあれ、どうなったんだろう……そういえば、ネラってやつも……どうなるんだろう」
波打つ空の事も、ネラのことも報告はしているが、隊長達がどう判断するのかは分からない。
なにか、対策をするのだろうか……色々なことが頭の中をグルグルと巡る。
記憶と思考に脳みそをかき回されて、どうにかなりそうだった。
降り出した外の雨音がヒルダの耳をざわつかせる。
「雨の日は、子鹿のように元気がなくなりますねぇ、ほんと」
いつのまにか、ヘイケが隣に立っていた。
「ヘイケせんせ、頭痛い……」
「また、いろいろと考えていましたね? 顔色、よくないですよ……薬、出しますから、処置室①で待っててください」
「……うん、あんがと」
ヒルダはのそりと歩きながら、処置室①の扉を引くと、すぐ手前に椅子と狭いベットがあった。
ヒルダは迷うことなく慣れた様子でベットに倒れ込む。
硬い枕に頭をおき、周囲を見渡すと乱雑に置かれている様々な医療器具や薬品類が目についた。
「相変わらず汚い……ユディがナースなら一番に片付けそう……」
ヒルダはユディタが看護師をしている姿を想像する。愛想はなく、淡々と業務に励んでいる姿が想像できた。きっとユディならウィッチャーをやっていようが看護師をやっていようが、あまり変わらないのだろうなとヒルダは思った。
「ヒルちゃん、薬をどうぞ。飲んだら頭痛が治まるまで寝ててください」
ヒルダはゆっくりと体を起こし、差し出された薬を指先でつまむようにして口に運んだ。その苦味を感じながら、お盆に乗せられていたコップを手に取り、一気に水で飲み下す。
ヘイケにコップを手渡すと、力が抜けたように再びベッドへ身を預けた。かたいマットのような感触を肩に抱きながら、彼女はそのまま深く息を吐いて目をつむる。
「そーいえば、せんせー」
「? どうかしましたか」
「あんときと同じもの見たよ。子供んときのと同じ……」
「……見て、どうでしたか?」
「動けなかった……驚いて、背筋が凍って、息ができないんじゃないかって、体が慌てた……てか、ユディが肩を叩いてくれるまで、硬直してたことにすら気付かなかった」
「繊細ですねぇ、でもそれは、ヒルちゃんの本能がそうさせたんです、なにも落ち込むことではありませんよ。むしろ、強さに繋がるものです」
「……恐怖で怯えたことが強さに、なんて思わないんだけど」
「おやぁーこれは手厳しい」
「冗談はいらないし……」
ヒルダはベッドの上で膝を抱え、俯いてじっとしていた。悔しさが胸の奥で静かに燃えるように広がり、手を握りしめる。無力さを突きつけられた瞬間の記憶が、頭の中で何度も再生されるのを止められない。
自分は、こんなにも弱かったのか――その思いが頭を離れず、唇をきつく噛みしめた。
「自分が、まだ、こんなに弱いなんて思わなかった……」
「だれにだって怖い物はあるものですよ。努力をしても急には強くなれません。ぼくだってそうです」
普段はふざけたように話すヘイケは、ヒルダの前では優しい声音に変わっていた。
その声は子供をあやすような優しさで、ヒルダの心は理由も無く落ち着いていく。
ヘイケは続けた。
「ただ、ヒルちゃんは逃げたいわけじゃない、そうでしょう?」
「……」
そう、別に逃げたいわけではない。
恐怖で怯えるなんてあたしらしくない。それに、恐怖に怯え、無力感を晒した自分自身にぎゃふんと言わせてやりたい――その思いが胸の中で静かに熱を帯びていく。
逃げたくない。逃げずに戦える自分でありたい。心のどこかでそう願う自分がいるのが、はっきりと分かっていた。
「今は、休みましょう。眠ってしまえば、少しは楽になりますよ」
「――うん」
ヘイケの言葉で温まってきた気持ちは、彼の優しい声が耳に残る感覚とともに、今度は意識をぼんやりと曇らせていく。
視界が霞み、身体がだんだんと重くなる。
薬のせいかもしれない。思考がそう囁いたが、どうでもよくなってきた。重いまぶたがゆっくりと閉じる。
柔らかな眠気に引き込まれながら、ヒルダは最後に小さく息を吐いた。
「その恐怖を忘れないでください、きっとあなたの武器となる――」
ヘイケの声は、もうヒルダには届いていなかった。硬いベッドの上で、静寂が暖かさとともに彼女を包み込んでいた。
ヘイケのかけた毛布がそっと彼女の肩を覆った。
《毎週金曜日に更新予定》
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