悪魔憑き令嬢の幸福な生活
システィア・ガーランド伯爵令嬢は産まれたその時から不幸に愛されていた。
出生時に屋敷が何者かに襲われ、屋敷にいた母も祖父も祖母も、医者も使用人も全員が死亡した。
血の海の中で、産まれたばかりのシスティアの産声だけが響いていたという。
入婿だった父はそのとき、浮気相手と共に街にいたため難を逃れた。
システィアが五歳のとき、父はその浮気相手と再婚する。もちろん継母は前妻の子ども、それもとびきり不吉な子どもを嫌い、冷遇し、己の連れ子だけを可愛がった。父も追随した。
それでも殺されるほどの虐待を受けなかったのは、亡き母が持っていた伯爵位を継ぐ資格があるのがシスティアだけだったからに他ならない。
使用人同然の扱いを受けながら、システィアは十三歳まで育った。
来年になれば、いまは父が代理を務めている伯爵位を正式に継承できる。
そうなれば継母と連れ子である義弟を追い出せる。システィアはずっとその日を待っていた。
◇
その日はいつもより特別な夜だった。
長い入浴でピカピカに磨き上げられ、新しいドレスを着せられ、家族そろっての夕食となった。家族と一緒の食卓についたのはどれくらいぶりだろう。父が再婚してすぐに使用人同然の扱いとなったので、八年ぶりだろうか。
もちろん会話が弾むはずもなく、システィアはずっと黙っていたが。
自室に戻るとメイドがシスティアの寝支度をしてくれた。新しい寝間着を与えられ、鏡の前で丁寧に髪を梳いてくれた。
鏡の中の己の姿をぼんやりと見上げる。
長い銀の髪に、紫色の瞳。最近は随分顔色がよくなり肉付きもよくなったと自分でも思った。
成長のせいもあるだろうが、システィアが爵位を継げる年齢が近づいてきてから、明らかに扱いが変わってきた。屋敷の掃除を命じられることもなくなり、家庭教師がつき、食事の内容も変わった。昔は古く固くなった、カビが生えたパンを食べていたのに。
(いまさらご機嫌取りなのかしら)
いまさら決意が変わるわけもないのに。
最近父が新しい浮気相手に入れ込んでいるから、継母は己が捨てられるかもと焦っているのかもしれない。システィアを懐柔すればこの屋敷にずっといられると勘違いをしているのかもしれない。
父も父だ。
(あの浮気癖は一生治らないのかしら……)
システィアはもう家族にも男性にもこの世にも失望していた。
この世に信じられるものなんてない。
いずれ自分も跡継ぎを作るために結婚するのだろうが、ぞっとする。
避けられないのなら、せめて相手は自分で選びたい。
顔の美醜はどうでもいい。美しい人は浮気をするだろう。
頭の良さもどうでもいい。賢い人ほど悪知恵も働くだろう。
力の強さもどうでもいい。暴力を振るわれればどうやっても敵わない。
システィアが相手に求める条件はただ一つ。無害なこと。しかし無害な人間をどうやって見極めればいいのかわからない。
「お休みなさいませ、お嬢様」
寝支度が終わり、メイドが部屋から出ていく。
システィアはため息をついて、ベッドに移動し、腰を掛けた。
その時、さっき閉まったばかりの扉が開く。メイドが忘れ物をしたのかと思ったが、入ってきたのは義弟のルークだった。
「ルーク」
継母の連れ子であるルークはシスティアと同い年で、きらきらと輝く金色の髪と青い瞳を持つ、天使のような少年だった。
整った顔立ちはシスティアから見てもとてもきれいだが、中身は悪魔だと知っている。継母がシスティアを嫌っていることを察していて、自分の方が立場が上だと思っていて、昔から嫌がらせばかりしてくる。
いったいこんな時間に何の用だろう。システィアは警戒したが、ルークはお構いなしに部屋の中に入ってきて、鍵をかけた。
(えっ……?)
ぞっと、身体が震える。
ルークはずかずかとシスティアのところまでやってきて、ベッドに座っていたシスティアの身体を押し倒した。
本能が危険だと叫ぶ。逃げようとするシスティアを、ルークが上から押さえつけてくる。
「何をするの!」
「俺とお前の結婚式だよ」
「――――っ!」
「大人しくしてればすぐ終わる」
父の悪癖のせいか、この家の中は下世話な世間話が多い。使用人と共に過ごす時間も多かったシスティアは、そういう話をよく耳にして育った。だからすぐに理解できた。
既成事実を作る気なのだと。
子どもができてしまえば、この悪魔と結婚するしかない。あの継母を本当に義母として、この義弟を夫にして、これからの一生を過ごしていかなければならない。
――一生、逃げられない。
「いやぁ! 誰か、誰か――!」
「誰も来るもんか。義父上と母上が決めたことなんだから」
「そん、な……」
継母はともかく、父まで。父までこんなことを許すなんて。
(私のことなんて、本当にどうでもいいんだ……)
ただの爵位を維持するための道具でしかないのだ。
殺される。
殺されてしまう。最後の希望も尊厳も。
悔しすぎて、悔しすぎて、せめて噛み付いてやろうと思ったのに。
ぎらぎらした目が怖くて思わず目を閉じてしまった。
ふと、身体を押さえつけていた力が消える。
息遣いも、匂いも、体温も。
恐る恐る瞼を開くと、ルークの姿が消えていた。
「ああ、やっぱり、人間は美味しい」
声に驚き顔を上げる。
ルークと交代したかのようにベッドの横に立っていたのは、先ほどまでシスティアの寝支度をしてくれていたメイドだった。
口の端からは、ルークの一部が覗いていて、それはすぐに飲み込まれて消えた。
こくりと、喉を鳴らしてメイドは微笑む。
――ああ、次は自分なのだと。自分も食べられてしまうのだとシスティアは理解した。
「お嬢様は素晴らしいですわ」
黒髪のメイドは甘い声でシスティアを称える。
「お嬢様は、ご自覚はないでしょうが、それはそれは美味しそうな香りをお持ちなのです」
「香り……?」
現実感も生きた心地もせず、ただ馬鹿のように繰り返す。
「その芳醇な香りに惹かれ、多くの悪魔がお嬢様の誕生の瞬間に駆けつけました」
メイドの姿が、ルークの姿に変わる。
システィアは悲鳴を飲み込んだ。
――悪魔だ。
本物の悪魔が、ここにいる。
「だが俺は、他の馬鹿どもとは違う」
悪魔はルークそのものに成り代わって、話を続ける。
システィアは不思議に思った。どうしてすぐに食べないのか。恐怖を与えようとしているのか。
「生まれたばかりのお前を喰うより、もっと育つまで待って、極上の美味を味わおうと思った」
「…………」
「その場にいた悪魔を全部喰って、新たにやってくる悪魔も全部喰って、いままで守ってやったんだ。感謝しろ」
それがあの夜、システィアだけが生き残っていた理由――。
この悪魔のせいで。
この悪魔がいなければ。
そのとき死んでいたほうが、何も知らずに死んでいたほうが、ずっとずっと幸福だった。
「幸福な生活を遂げた魂は、極上の美食となる。極上の素材に極上の調理法……美食家として期待が止まらない!」
悪魔の青い目が、鋭く光りシスティアを見据える。
「だからこれからも守ってやる。悪魔からも人間からも。だから俺に喰われると約束しろ。契約しろ。他の悪魔に魂を渡さないと」
青い目の中に炎が揺らいでいる。
これがきっとこの悪魔の本質。
断れば、この悪魔はいますぐシスティアを食べるのだろうか。他の悪魔に食べられないように。なんて欲望に忠実で身勝手な存在なのか。
「……いつ収穫するつもりなの」
「熟した実が自然と木から落ちるように、熟した魂は自然と肉体から離れる。その一番美味しい瞬間を食べてやる」
つまりシスティアはこれからこの悪魔に、悪魔的基準での幸福な生活を約束され、自然死するまで守られるということだ。
悪魔の契約としては、いささかシスティアに都合が良すぎないだろうか。
だがそんなことを言って契約内容を変えられても困る。
「わかりました」
システィアは契約の提案を受け入れた。
生まれたとき死んでいた方が、とは思ったが、いま、このまま死にたくはない。ならば受け入れるしかない。
悪魔と契約することがどれだけ馬鹿げているとしても。
「私が死なないように守ってください」
「もちろんだ、システィア」
にやりと笑う。
この義弟、本当に顔だけはいいと改めて思った。中身が悪魔だとは誰も思わないだろう。
「あと、私が良いと言う人間以外は食べないでください。悪魔はお好きにどうぞ。それなら契約します」
「……わかった」
不服そうな顔をしたが頷く。
システィアは改めて悪魔を見る。
悪魔で、憎い相手だが、美食というよくわからない報酬で約束された絶対的な味方だ。
少なくとも人間よりは安全だ。
「では、契約だ」
手が差し伸べられる。
システィアがその手に手を重ねると、ぐいっと引っ張られ、がぶりと指を噛まれた。
「いっ……痛いっ!」
ぱっと手が離される。
慌てて手を引き寄せ恐る恐る見てみると、薬指の付け根に噛み跡がついていて、血が溢れ出していた。
「噛みちぎられたかと、思った……」
「そんなもったいないことするか」
唇についた血を舐め、にやりと笑う。
「契約は完了だ」
どういう仕組みなのだろう。悪魔のことはわからない。
だがこれでこの悪魔がシスティアにとって無害な存在になったのなら、この痛みも悪くはない。
「ところでシスティア」
「……はい」
横柄な態度で言われると、本当の義弟に言われているかのようだった。
これなら入れ替わっても誰も気づきはしないのだろう。
悪魔の義弟は、本当に悪魔になってしまった。
「母上はこの家の財産を食い潰す悪魔だ。悪魔は食べていいんだろ?」
「……ええ、いいわ」
システィアの心も、本当の悪魔になってしまった。
◇
継母が死んで喪が明けてから、システィアとルークは正式に婚約した。
父は人が変わったかのように優しくなり、浮気もしなくなった。誰よりもシスティアに気を遣うようになった。元々気弱な、だが勘は鋭い父だ。何かを察しているのかもしれない。
害がないのなら、しばらくはこのままで置いておこうと思った。
爵位を継ぐためには準備が必要だ。もし途中で悪魔に戻れば、悪魔に片づけてもらうだけだ。
雨のない夜は、システィアは毎夜のようにバルコニーに出て、物思いにふける。
(なんて幸福な生活なのかしら)
生まれてすぐに悪魔に魅入られ、平穏な生活と家族を奪われ、そしていまは悪魔に守られるこの生活。
覆った目元から涙が零れてくる。
何故、こんなことになったのだろう。
――悪魔がいるから――
――悪魔がすべてを奪ったから――
「あんまり外に出るな。お前の香りは危険だ」
背後からルークの声がかかる。
振り返り、義弟であり、婚約者であり、未来の夫になる姿を見つめる。相変わらず天使のような姿だ。
システィアはにっこりと微笑んだ。
己の身を夜風に晒せば、匂いに惹かれた悪魔がやってくる。その悪魔をルークに食べさせれば、ルークの食事にもなる。
もしそれでルークが死んでも。
システィアが死んでも、構わない。
悪魔がすべてを奪うなら。
(――私は、悪魔にとっての悪魔になろう)
「せいぜい、私が死なないように守るといいわ。この、悪魔」
『悪魔憑き令嬢の幸福な生活』