3時のヒロイン福田麻貴。
容姿イジリのネタは、傷つく人が一人でもいるならやらないのが正しいのか?
僕はそのことが疑問だが、世の中はそっちの方向でどんどん進んでいっている。
女芸人トリオの「3時のヒロイン」のネタ作り担当の福田麻貴さんが、容姿ネタを辞める宣言をしたということから少し考えてみたいと思う。
もちろん、やるネタを決めるのは彼女たちなので、そこについてあーだこーだ言う気は毛頭ないし、口出しする権利は誰にもない。そういう前提を共有した上で読んでいただけるとありがたい。
僕は、ブスも美人も、デブも痩せも、バカもかしこも個性なんじゃないのか?と思う。綺麗事ではなく。
個性であるにも関わらず、そこに言及しただけで、「差別だ!」と言う人は、その人の意識が誰かの個性を差別しているのだと思う。
ブスやデブやバカが欠点なら、美人も痩せもかしこも一般的ではないという意味では欠点なのではないだろうか?
言葉で傷つけられたら、言葉で怒ればいいだけではないのか?と思う。
例えば、そこに上下の関係が発生していて、言いたいことが言えなくなっているとしたら、それこそが問題の本質なんだと僕は思う。
人によって傷つく言葉は違うのだから。
傷つく可能性のある言葉を「差別だ!」と言ったり、排除することのほうが、個性を認めない差別だと思う。
そこに一般人も芸人も関係ないと僕は思うのだが、皆さんはどう思いますか?
余談だが、「ひょうきん族」「だいじょうぶだぁ」「ごっつええ感じ」などの昔ながらのTVコントが好きな僕としては、風刺、不謹慎、反常識、エロ、シュール、差別、暴力などのネタはお笑いのジャンルとして無くしていくべきではないと思う。
これはよく言われていることかもしれないし、古い価値観と言われるかもしれないが、毒にも薬にもならないお笑いというものは、結局のところ権力に迎合するしかないように思うからだ。
それが悪いことだと断言はしないが、古い価値観のすべてが間違っていると無条件に思うのはそれはそれで危険なことのように思う。
古い価値観のどこが間違っていたのか、それとは逆に新しい価値観のどこが正しいのかをきちんと考えるべきなのだと思う。
テレビ局はクレームが来ると厄介だからコンプライアンスという言葉を多用するようになっただけではないのか?
ネットでクレームが拡散されると困るスポンサーとテレビ局の考えで表現の自由が侵されてはいないだろうか?
視聴者はもともと、容姿ネタや、差別ネタで笑っていたはずなのに、なぜ、ここ十数年の間にここまで意識が変わってしまった(変わってしまったように思う)のかを考えると、先程、述べたような事情もあるような気がする。
現在に至る分岐点を考えると、いくつもあるだろうが、その内の一つに岡村さんの「嫌なら見るな」という発言があると思う。あの発言以降に視聴者が自分達はタレントより上の立場なんだと錯覚してしまったような気がするからだ。
ナインティナインの岡村さんはテレビ局員でもなく、ただのお笑い芸人で、個人的な感想を言っただけなのに、TVはみんなのものだ的な反論を弄した知識人たちは今のTVをどう考えているのだろうか?
多様性が大事。差別はダメ。個性は大事。イジメはダメ。どれも素晴らしい言葉だと思うが、ちゃんと考えて行動しなければ、素晴らしい思想と真逆の現実を作り出してしまう危険性があることを僕自身、肝に銘じて、コラムチックな文章を終える。