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会社にばれる

 水島が店にいたのは一時間ほどではなかっただろうか。しかしその一時間は、嘘のように短くもあり、苦痛を感じるほど長くもあった。時の移ろいというものは、主観的なものであろう。ただ、長いか短いかのどちらかのはずだ。それなのに同時に両方の時間を感じてしまうとはどういうことだろう。そんな不思議に思いを至らせる余裕のない水島は、熱気の残る道を歩いている。雲の上を歩くようで覚束ない足取りではあるが、糸香を気遣ってゆっくりと歩を進めていた。

 店があるのは金融街。上階には煌々と明かりが灯り、週末だというのに残業をしているようだ。そのせいか歩道は閑散としている。すれ違う人影はほとんどなく、後に続くのは少し遅れて店を出た二人連れだけ。

 陽が落ちて僅かに風がでてきた。その微かな風に柳が揺れ、二人の影が歩道で揺れる。が、二つの影が近づくことはない。

不意に水島が立ち止まった。もう我慢できないと言い訳をしながら、ネクタイを外し、手早く襟のボタンも外した。せっかく糸香が直してくれたのだから勿体ないが、そんなことは言ってられない。その証拠に、襟に滲みができるほど汗をかいている。どうしたのだろうかと水島を見上げる糸香が、それを見てプッと吹きだした。

「もうだめ、我慢しきれない。もったいないけど、解かせてくだい」

 赤い顔をした水島が糸香に向き直り、必要以上に頭を下げた。その襟元が汗滲みになっているのを糸香は初めて知り、目を丸くして口元を押さえた。早く外してくださいと言う間もなく水島がネクタイを外すのをじっと見た。もっと早くに外せばいいのに、どうしてだろう。もっと早く気付いてあげればよかった。というか、気付かなければいけなかったのだとチョッピリ後悔した糸香は、その始末に困っている水島からネクタイを受け取り、バッグに預かったのだった。

 ありがとうと小声の水島。糸香は無言で首を振っただけ。相変わらず会話にはならないが、なんだか距離が少しだけ縮まったようだ。


 正面に駅が見えてくると、そこは賑やかな歓楽街。酒を提供する店がかたまっていて人通りが多い。二つの影は人波におされるように距離をつめ、腕が触れ合うほどになっている。店を出てからまだ十分と少し。あんな刺激的な出来事の後だけに、意識するなというのが無茶かもしれない。


 もう駅は目の前にある。いまさら通り沿いの店を探すよりも、いっそ駅の名店街へ行こうか。糸香の好みを知らないことでもあるし、駅で店選びをしよう。いくらデイト未経験の水島とはいえ、それくらいの気遣いはできる。その相談をしようと思った矢先だった。断っても馴れ馴れしくつきまとっていた男が、しつこく糸香をべつの場所へつれて行こうとした。しかも強引に。

 歓楽街の中ほどから何人もの男が気安く話しかけてきていた。仕事帰りですかとか、どちらまで帰るのですかなどと親しげに話しかけてきた。そういうことに糸香は慣れっこのようで、そのたびにきょうみありませんとか、お断りしますとはっきり拒絶の姿勢をしめしていた。ところがこの男は諦めが悪いようで、何度断ってもつきまとってきた。あげく、今の給料の何倍も稼げる働き口があるとか、これから連れて行ってやるとしつこい。いわゆるガールズキャッチという輩だ。水島は、糸香を守る責任を感じていたし、あまりの無礼さに腹が立ってもいた。

「本人が嫌がっているのだから、諦めなさいよ。つきまとわれて迷惑だ」

「おたくに用は無いんだ、引っ込んでいてくれ」

 道理もなにもない言い分だ。更に水島が制止すると、それを根にもって絡んできた。

「いけないの? 話しかける権利は俺にもあるんだ。おたくには関係ないんだから、怪我しないうちに帰ったら」

 他人と喧嘩などしたことがない水島だが、それには堪忍袋の緒が切れてしまった。強引に引き離しにかかると、それを待っていたかのように男の口調が荒くなった。

「水島さん、この人の顔写真を撮って。これだけ言ってもわからないのだから警察に被害届を出してやります」

 そういう方法があるのかと水島が従うと、こんどは肖像権の侵害だと騒ぎ出した。

「訴えなさい。警察を呼ぶから訴えなさい。断っておくけど、悪いことをしているのはあなたで、これは証拠写真だから。訴えなさいよ、そのかわり、泣くことになるわよ」

 水島がにらんだとおり糸香は強気だ。あの強い目で見返している。そして言い返すと同時に携帯電話を取り出した。まさかそこまではしまいと高をくくっていた男は、水島から携帯電話を奪うなり駆け出した。

「ひったくりー、その男を捕まえてー」

 糸香の声が響くと同時に駆け出した者がいる。少し遅れて店を出た二人だった。見かけはサラリーマンだが、やけに敏捷だ。一人が逃げる男の前を塞ぎ、もう一人は男のベルトを掴んでいた。

「暴れるな、警察だ」

 そんなに都合よく警察官がいるはずがない。そう思ったのは水島だけではない。捕まった男が一番悔やんだはずだ。

「糸香さん、とんだ災難だったね」

 その一人が声をかけてきた。

「あら、もうお帰りになったのではなかったのですか」

 答えるところをみると知り合いのようだ。それも警察の。


 男を逮捕してそれで終わりではなく、二人はうんざりするほど引き止められた。事件の発端から説明すると、捕らえた警察官がニヤリとした。ひったくりの現行犯のほかに、無許可の職業斡旋が上乗せできそうだという。依頼した者の奈を自供させれば、すこしはこの地域が安全になるという。その警察官は、生活安全課と薬物担当の刑事だそうで、店の営業内容から、定期的に査察に来ているのだそうだ。とはいえ、気軽に応じたのは最初の二度ほどで、それ以降は客として来店してもらっていると糸香が言った。たまたま査察に来たのが今日だったこと、店を出た時刻がほぼ同じという幸運に恵まれた事件だった。

「ところで糸香さん。立ち入ったことをお訊ねしますが、この方とはどういう関係で?」

 訊ねられて糸香が俯いてしまうと、警察官は察したようで、せっかくの時間をつぶしてしまったと申し訳なさそうに詫びていた。

 どこかへち寄るにはもう晩い。が、明日という日がある。なにも慌てることはない。それくらいの分別はつくようで、二人は真っ直ぐに駅へ向かった。

 水島は考えていた。若い娘が出歩くにはもう晩い時刻になっている。糸香の家がどんな環境かは知らない。明るいところばかりではないだろう。いきなり自宅まで送るというのは無作法だくらいは承知している。だけど、もし途中で間違いでもあったらどうするつもりだと。そんなことを申し出たら嫌がられるだろうか、受け入れてくれるだろうか。またしても迷いが出る。しかし、今の自分がなすべきことを考えると、迷ってなどいられない。無事に帰宅させることが何よりも優先すると答を出したから。

 家まで送るという申し出を、きっと糸香は嫌がる。水島は覚悟していた。きっと迷惑だろう、ストーカーをされたらと不安に思うかもしれないだろう。しかし糸香は単に遠慮しただけで、強いて拒みはしなかった。そして電車を待つ間に水島は大事なことを思い出した。糸香の連絡先を教えてもらっていなかったのだ。大急ぎで名刺とペンを差し出すと、糸香はサラサラと達筆だった。


「ごめんなさい、電車は正反対ですね。ご迷惑をおかけします」

 隣の席で申し訳なさそうに囁く糸香。

「いえ、こうしないと安心できませんから。それに僕、電車が好きなんです」

「鉄道マニアなんですか?」

「とんでもない。鉄道愛好家です」

 どうしたことだろう。少しも気負わずに言葉が出てくる。どんな話をしようかと頭を悩ませていたのが嘘のようだ。相槌をうちながら糸香は、自然の中にいるときが一番好きだと言った。なら、自然の残る土地へ行ってみようかと意気投合した。知らぬ間に会話の声が大きくなっている。意識せずに糸香と視線を交わしている。本当に素晴らしい一日だったと水島は思った。

「そういえば、何も食べていないですね。お腹すいたでしょう」

 調書を作成するのにあれほどの時間がかかるとは思ってもみなかった。食事どころか飲み物すら口にしていないことを気遣うと、

「水島さんこそ、あれから一本も」

 糸香に言われて、まったくタバコを喫んでいなかったことに水島は気付いた。


 見渡すかぎり家々の灯り。その隙間を縫うように白い帯が延びる。その帯には様々な想いが載っている。一歩を踏み出したばかりの二人も乗客だ。ただ、水島は少し残念でもあった。各駅停車ならもう少しいっしょにいられるのにと。


 水島にとって、男女交際は憧れではあった。友達が楽しそうにしているのを羨みもしたし好意を抱く女性がいなかったわけではない。なのに、どうして交際に発展しなかったのだろう。心の奥底ではそうなることを望んでいなかったということだろうか。いや、そうとばかりはいえまい。では、糸香とのことはどうなのだろう。なるほど背中を押してもらったことで踏ん切りがついたのは確かだ。が、断ることはできた。しかし、強く望んだことだ。そして信じられないことに、糸香も同じ気持ちらしい。これこそが二人の縁というものだろう。こうして巡り会わねばならないから、他の異性に消極的だったのだろうか。交際を始めると、気がつかぬ間に相手を変化させ、自分をも変化させるようだ。それが憧れの相手なら尚更。この縁を失いたくないと願い、より強くしたいと願う。それは水島自身に活力を与えた。


 初めてのデイトをした翌日、彼は朝一番で機屋に赴いた。そこで試作品を見せてもらい、まだ改善の余地があることを訴えた。相手は年季を積んだ職人で、自分の父親よりも年長だ。しかし、思い切って考えを述べてみた。糸を何本か生地の上に並べる程度の説明しかできなかったのだが、訴え続けるうちに相手が耳を貸してくれるようになった。生糸にはさまざまな色がある。会社が要求したのは無地だ。つまり、色むらがないということだ。しかしそれでは面白みがないと水島は考えていた。そこで、僅かに色の違う糸を配置すれば、一見無地のようでいて縞柄が浮き出るのではないかと考えたのだ。もちろんそれは会社の要求から外れている。だが、そういう生地なら高く売れるのではないか。機屋の利益にもつながるのではないかと訴えた。もちろん自分勝手な判断だ。

 少量織るだけならむしろ手織りのほうが速いとはいえ、三十センチほど織れたのは三時を過ぎていた。

 勇んで会社に戻った水島は、居合わせた上司にそれを見せてみた。しかし、返ってきたのは叱声だった。

 翌朝のこと、上司が水島の独断専行を社長に報告すると、鬼のような形相で呼びつけられた。そして、勝手なことはするなとさんざん叱られた末に、見本を出せと言われた。さんざん叱られた後なので言い訳する気も失せ、それを差し出したのだが、社長のトーンが下がってきた。

「これは誰の発案だ?」

 そう問われて嘘はつけない。作ったのはほんの三十センチほどだから、会社に大損させたわけではない。黙って叱られようと思っていた。

「無地といえば無地だが、遠目には縞物に見える。どういうことだ」

 つぶやきと唸りを交互に繰り返している。そして説明を求められた。

 そしてまた社長が唸る。他の者は災難をおそれて外回りにでかけてしまったが、水島はその場を離れることなどできない。

 社長が顔をあげたのは、たっぷり一時間ほど経ってからだった。その間ずっと水島は立ち尽くしていた。

「水島、機屋へ行くぞ」

 社長が突然に言い出したのだ。今からでは昼前の到着になるがと恐るおそる申し出たのだが、鶴の一声は絶対だ。

 昨日の今日で水島が再訪し、社長までついてきている。事によれば一荒れあると覚悟したのか、機屋はいたって低姿勢だった。ところが、社長は苦情を言うどころかもう一工夫するよう申し出た。それこそ驚きの出来事だった。

「この工夫だけどね、これはこれで良いと思うのだが、どうだろう、真ん中より端のほうが引き立つような気がするのですよ。それと、これでは縞が目立ちすぎてしまう。もっとさりげなくする工夫はないだろうか」

 会社にいるときとは大違い。これこそ紳士だと言わんばかりの言葉遣いだ。

 水島は、ある程度目立たせることを考えて色の異なる縦糸を三本並べた。それで目立ちすぎるというのなら二本にするしかない。しかし、それは反って逆効果ではないかと思った。一方の機屋も、首をひねるばかりだ。

「社長、どうでしょうね、こういうのは」

 水島は、見本の生地に色の異なる糸を二本並べ、二本分の間を空けてもう一本置いてみせた。間に基本となる糸を挟むことでぼかす効果が生まれないかと考えたのだ。

「試してみましょうか。ただ考えるだけでは埒が明きませんから」

 そういうことになると職人のほうが決断は早い。

 水島の案で幾分の改善はあった。しかし社長が思い描くものとは違う。そこで間に挟む糸を三本にしてみた。同じように四本にしたものも織ってもらった。

 間の糸を増やすと縞が目立たなくなり、手に取って見るかぎりは無地に見える。

「第一段階はこれくらいで良いとして、問題は陽の下でどう見えるかだ」

 大胆にも電柱に生地を貼り付け、場所を移動しながら見え具合を確かめていた社長が手招きをした。

「ここからが一番良く見える。どうだ、どう見える」

 なるほど、陽の当り具合で縦縞がはっきりと姿を現した。昨日織ったものは存在を強く主張して見える。対して今日織ったものは、主張を弱めた代わりに後ろ髪を流しているような印象だ。

 おもしろい見かたをすると社長が言った。では、自分ならどれを取ると問われ、水島は三本離したものを選んだ、それは、芯になる縞の後ろが窪んでいるように見えたからだ。が、社長が選んだのは四本離したものだった。これだと縞の後ろがモヤモヤッとしているところが良いと言うのだ。

「主張も大事だ、主張せにゃいかん。だけど、あまりに声高になると我となる。それは雑味だ。そして他を受け入れる度量をなくしてはいかん。ということで、私はこれを採る」

「でしたら、糸を替えてみるのはどうでしょう。撚りの弱い糸にすれば皺の具合が変わるのではないでしょうか。

 言ってしまってから水島は自分の愚かさに息を呑んだ。社長の判断にケチをつけてしまった。帰りの道中が思いやられる。

「撚りか。撚りが弱ければそこだけ沈むということか。……試してみる価値がありますな、社長。面倒かけますが、水島の言うようにしてくださらんか。それを見たうえで判断させてもらいます。それと、この件については水島に全部させますからな」

 ふと気付くともう四時。今から帰れば六時に間に合うかどうか気が気でない。どこかで食事をと社長が言ってくれるのだが、約束があるからと宥めてハンドルを握る水島だった。

 次から次へと繰り出される世間話に適当な相槌を打っていると、電話の着信音がした。反射的に受信スイッチを入れると女性の声が流れてくる。

「京極です。店でお待ちすれば良いですね。七時までならお待ちしますので」

 糸香のヒソヒソ声だ。おそらく人目を盗んで掛けてきたのだろう。その声を社長がしっかり聞いている。水島は、高速道路を走っているからと告げるだけで切ってしまった。

「誰かね、今の相手は。約束があるというのはこの女性か、隅に置けんな」

 隣で何を言われようとも答えることなどできず、水島はただハンドルを握るしかない。


 一日おいて見本の生地が送られてきた。撚りの弱い縦糸に取り替えたものだ。ほんに微妙だがその部分だけ沈んでいる。だけど色が濃いからパッと見は均一に感じられる。社長は陽にかざして満足そうだ。

「水島、これでいこう。手織りで一反仕上げてもらえ。それでお召しを仕立てる。洒落者に売り込むんだ。大丈夫、売れるぞ、これは」

 上機嫌だ。

「水島、どうだ、今夜。この前の穴埋めに食事でも」

 社長が直々に誘っても、約束があるからと水島は断ってしまった。

 反物ができあがり、わざわざ持ってきてくれた機屋を労う席でも、夕方になると水島の尻がモゾモゾしだし、とうとう中座してしまった。皆でビアガーデンに繰り出そうということになっても、やはり水島は参加しない。電話の女性だと社長は気付いた。いずれ時期をみて似合いの相手を世話してやろうと考えていただけに、どんな相手かが気になる。

 

 お疲れ様でしたと言い残してそそくさと退社する水島を、道路の反対側から社長が追った。そんなこととは全く知らない水島は、いつものようにドアをくぐった。

 どういう店なのだろうとドアの前に立つと、カフェとある。どうやら喫茶店らしい。もう少し様子をみるかと、社長は並びにあるハンバーガーショップに入った。食べたくもない品物を注文して通りを見つめていると、水島と若い女性が並んで歩いて行った。暑さをものともせず、嬉しそうに話しながら。

 どうやらあの店で待ち合わせたようだ。どんな店なのか確かめてやろうと入店してみると、一風変わってはいるが、喫茶店には違いない。ただし、入り口で妙なことを言わされたのにはまいった。客を見てみると示し合わせたようにタバコを吸っている。眉をひそめたくなる光景だが、煙も臭いも全く感じられない。いずれにせよ、如何わしい店ではなさそうだ。

 日をおいて、こんどは水島が来店する前に張り込んでみることにした。すると、見覚えのある顔が案内してくれた。服装こそ違え、水島と親しげに歩き去った女性だ。してみると、水島はこの店員と親しいのだろうか。なら、もう少し様子を窺うことにしよう。社長は周囲から顔を見られないよう注意しながら入り口に注意を向けていた。と、水島が来店した。応対した店員が案内し始めたとき、あの店員が割って入った。だらしないのはいけませんと言う声に横目で窺うと、店員がネクタイを締め直している。そして、自分が案内するからと先の店員を遠ざけてしまった。自分だって夜の街で遊んだ男だ。それだけに自信をもって言い切れる。あんな行為は滅多にないことだと。特にそういうサービスをする店ではなさそうなことから、二人が親密な関係にあると考えるのが妥当だろう。それにしても、いかに親密であっても人目を憚るものではないだろうか。それとも、そうやって骨抜きにされているのだろうか。自分の経験からいえば、そっちのほうが心配だ。だからといって別室へ消えるでもなく、カウンター席におさまった水島は他の客と同じように飲み物を飲み、タバコを吸っている。席についたときに少し言葉を交わしただけで、店員は離れている。これでは関係を相像することもできない。それから社長は二度もコーヒーをお代わりし、水島が店を出るのを待った。店の表で水島が立っている。すると、あの店員が小走りで近寄り、駅の方へ姿を消した。新手の天外デイトだろうか、それとも普通の交際だろうか。華やかな街で遊んだ経験があるだけに疑いの目で見てしまう。いずれ時機を見て二人の関係を質さねばなるまい。それにしても、あの電話が心にひっかかる。たしか京極と名乗っていた。その姓を名乗る者は決して多くない。だからこそ、ひっかかる。


 新しい生地がお召しに仕立てあがった。それを売り込むに宣伝は欠かせないので、そこでチラシを作ることになった。業者がモデルのリストをもってきたのだが、相応しい顔がひとつもない。社内では、これなら良いのではという意見もあるが、社長の目には気にいらない者ばかりだった。この生地は、絶対に洒落者がほしがると社長は自信をもっている。それだけに安っぽい顔は反ってイメージをこわしてしまう。現代受けする顔なんかに用はない。ガリガリに痩せた体型にも用はない。そこそこふくよかで品がなければイメージをこわすと決めてかかっている。

「チャラチャラした娘が買える品物ではないんだぞ。こんなけばけばしい娘に似合うか? 和風の、芯のあるモデルはおらんのか。モデルにおらんのなら、知り合いを口説け」

 これならどうだという進言をはねつけていた社長が、とうとう癇癪をおこしてしまった。いくら鶴の一声とはいえ、しゃしゃり出る者など一人もいない。

「水島、お前が一番若い。年頃の友達くらいいるだろう。連れて来い」

 とうとう水島にお鉢がまわってきた。そんな人などいないと断ったのだが、学校のときの友達はどうだとまで言い出すしまつだ。挙句の果てに、交際相手がいるだろうとまで言い出した。そんな相手などいないと水島は防戦に努めたのだが、納得しようとしない社長は、電話の女性はどうだと言った。

 事務所内がシーンとなった。仕事の最中に女性が電話をかけてくるなど無用心にもほどがある。こともあろうに社長に知られるなんて、命取りだ。誰もがそう思ったことだろう。

「声の様子では若いようじゃないか。それを口説け。そもそも、この企画の責任者は誰なんだ」

 そう言われ、退くに退けない状態となってしまった。


 拝み倒して連れて来た糸香は、社長の顔をみるなり丁寧にお辞儀をして言った。

「いつもお越しくださり、ありがとうございます」と

 その意味がわからぬまま、糸香のことを紹介すると、社長も言った。

「あなたが京極さんですか」と

 こんどは糸香が怪訝そうにしている。

「一度電話をいただいたでしょう。お店でとか言って。高速だからと言って水島はすぐに切りました。あの時、実は隣で聞いていました。盗み聞きではありませんよ、ハンズフリーだからラジオのスピーカーから聞こえてしまうのです」

 えっと驚いた糸香が口元を押さえ、水島を振り仰いだ。

 どういうことですかと訊ねるより先に、社長が主導権を奪ってしまい、とにかく袖を通してみることになった。すると、着付け室に姿を消すや否や、事務員が身を乗り出して大声を上げた。

「社長、すごくお似合いです。どうでしょう、あり合せの帯を締めてみましょうか」

 そうしてくれと社長が応え、水島の背中をパシンと張った。


 着ている服の上から羽織る格好なので襟元がおかしい。けれど、とても似合っている。清楚でありながら妖艶な部分を秘めているように見える。こうするとより似合いますよと言って、女性事務員が髪を纏め上げると、なるほど映える。社長も満足なようだが、水島はポニーテールのほうが凛々しくて好きだ。他の社員も一様に似合うと褒め、押しの一手でモデルを承諾させてしまった。

「それで、何をすれば良いのでしょうか」

 詳しい説明などなしに試着させたのだから、糸香が不安がるのは当然だ。そこで水島は、チラシ写真の撮影だと説明した。すると、せっかくだからビデオにしたらどうかと誰かが言った。

「京極さん、どうでしょう、予定を変更することはできませんか。というのは、実によく似合っている。ただスタジオで写真にするだけではもったいない。もちろん、それはこちらの思惑です。ですが、無理にポーズをとったり笑みを浮かべたりしても不自然でしょう。自由に歩いてもらうところをビデオにすれば、より生きいきすると思うのです。それに、外ならではの光がある。そう思うのです。当日が雨ならば、これまた趣のありビデオになると思います。どうでしょう、ご協力いただけませんか」

 いつの間に用意したのか、上等なケーキまでサービスしての申し出だった。

「光というのはわかる気がします。薪や蝋燭の明かりは幻想的ですから」

 ただし、店に迷惑をかけたくないので、日曜日に限ってほしいと糸香は言った。

 それから撮影場所の話になったとき、薪や蝋燭のことをもちだした理由を聞かれ、薪能の装束が美しかったからだと糸香は答えた。

 そうか、糸香はそういうことに触れてきたのか。対する自分はどうだろう、ひたすら鉄道に乗ることに興味を向けていた。話を聞いて社長は感心しているが、水島は複雑だった。

「相当に育ちの良いお譲さんだが、それならば茶の経験はどうだろうか。琴などは習っていませんか」

 社長が訊ねると、高校生のときに二年ほどお茶を習ったと糸香が答え、それなら好都合だと言って、社長が録画場所を決めたのだった。


 尾張徳川家の別邸跡には豪壮な薬医門があり、いかにも大名屋敷を思わせる。そこに続く塀も肩のあたりまで板で覆われ、和服にぴったりの風情がある。そこを糸香が小股に歩いてくる。歩道であるだけに足元が無粋ではあるが、まるで時代劇の一場面のようだ。さすがに門の周辺にはアスファルトなどなく、玉砂利を踏みながら中に消えた。壮健当時は十三万三千坪もあったという敷地も今では一割ほどしか残っていない。それでも岩壁に滝が流れ落ちる庭があり、広い池が残っている。糸香は庭を巡り、池の鯉に餌をやったりした。休日ということもあって来園者は多いのだが、さすがにプロのカメラマンだ。背景に人が映り込まないような位置取りをしている。それにしても、背筋を伸ばして歩く姿は美しく、そして気高いと水島は思った。

 次の撮影場所までの車中だけが二人並んで座れる時間だ。しかし邪魔者がいる。運転手と社長だ。その頃には手を繋ぐことを覚えた二人だけれど、まさか車内でそんなことはできず、小声で話そうとしても耳が気になる。こんなことならデイトを中止したほうがあっさり諦めがつくというものだ。抑えようとしても不満が顔に出るらしく、なにかにつけ社長の玩具にされる。こんなことを引き受けさせるのではなかったと後悔の念が湧いた。

 このように水島にとってまことに面白くない一日だったが、こんな出来事もあった。撮影の合間の小休止。他の来場者の邪魔にならないよう、隅のベンチを使わせてもらった。冷えたジュースを買ってくるのは水島の役目だった。そしてそれを配るのは糸香が買って出た。いつの間に忍ばせたのか袂からハンカチを取り出し、それで缶を持って配ったのだが、その所作に社長が小さく唸った。首をかしげて、いかにも感心しているようだ。

「水島」

 撮影を再開してから社長が小声で言ったのが耳に残っている。

「あの女性、よほどきちんとした育て方をされているぞ。まるでお嬢様のようだ」

 当然だ。自分が憧れた女性なんだから。にやけ笑いを押し殺すのに苦労する。しかし、糸香のどこを見て感心したのかを理解できない。そこで曖昧な返事を返すと、女を口説く器量のないお前が、どうやってあんな女性と知り合ってのだと不思議そうに言った。すごく失礼な発言だ。いくら社長だからといっても最低限の礼を弁えるべきだろう。だけど真っ当な疑問であるだけに答えようがない。

 どういうことですかと訊ねると、ハンカチだと社長が言った。

 ハンカチを忍ばせるくらいのことなら誰でもするだろう。しかしそれは着物を汚さないためのものだ。膝の上に掛けておいたり、飲み物が零れたときに拭うために使う。そして手の汚れを拭うのにも使う。その程度でしかない。しかし糸香は、ジュースを配るときにハンカチで包んで渡した。それはレストランの給仕が白い手袋をしているのと同じ意味だ。なるほど財界パーティーではハンカチでグラスを包んでいる者が多い。しかしあれは指が冷たいからしているだけだ。ただ気取っているだけだ。それにひきかえ、糸香は配り終えたら自分は素手で飲んでいたではないか。空き缶を集めるときも素手だった。なまなかのことで身につくことではない。

 そういうものですかと水島が聞き入っていると、足の運びも好いと社長が続けた。裾を手で抑えて歩くことを覚えたら、自分の目でも申し分ないとも言った。

 糸香が褒められているのだけれど、水島は嬉しくてたまらなくなった。

 そして茶席での撮影をして一日が終わった。


 反物の売り込みが本格化したのは、それから一週間経ってからだ。仕上がったビデオと現物を手に、社長が人脈をフルに活用し、水島は服飾メーカーへの売り込みを図った。社長が睨んだ通り富裕層がよく、中には手織りを希望する客もいた。

「水島、あのビデオだけどな、モデルを紹介しろと客がうるさいのだ。どうする?」

 見込み以上の人気に社長が気をよくしている。殊に宣伝ビデオが人気だそうで、自分のところでも起用しようということだと水島は思っていた。

「いまどきの若者は自分で結婚相手をみつけてくるものだが、どうやら気が弱いらしくてなあ」

 そこまでで十分に言わんとすることが理解できる。もちろんそんな話がのめるはずがないことは社長だってわかっているはずなのに。

「だめですよ。モデルにするのもだめです。そんなことをしたら怨みますよ。すぐに退職して彼女も店を辞めさせます。本気ですからね」

 相手が社長だろうがかまわない、断固として言う。水島は紅潮している。

「わかってるよ、そのくらい。だから丁重に断るつもりだ。ただし、もう一度だけ手伝ってくれないか。こんどは振袖でやる。狙いは卒業式。成人式もいけるだろう。ちょうど年頃も近いのだし、ピッタリじゃないか」

 水島の剣幕に社長は少したじろいだようだ。しかし諦めるどころか、更なる協力を求めたのだった。話が違う。一度だけのはずではなかったかと水島の表情が言っている。こんな調子だと、次から次へと協力を求められるに決まっている。デイトもなにも、全く予定が立たなくなってしまうではないか。すると社長は、どうしてもお前が協力しないのなら、直接糸香に協力を求めるとまで言った。糸香とのことをはっきり説明していないから社長は身勝手なことを言うのではないか。私生活を乱すようなことはするなと直言すべきだろうかとまで考えたのだが、その日はそれ以上の話をせぬままに終わりはしたのだが、最高に気分の悪い一日となってしまった。

 そんな日も水島は霧隠れへ足を向けた。いや、そんな日だからこそ行かずにはおれなかった。


「いらっしゃ……、どうしたの、プンプンして」

 会社で厭なことがあったとだけ答えた。バーテンダーが眉をひそめるようなタバコの喫み方だった。

 いつものように駅までの帰り道で、水島はようやく仔細を糸香に語ったのだった。すると、糸香が水島の腕にぶら下がってきた、私には健一さんしかいないと言って。そんなことを糸香がするのは初めてのことで、それだけで水島の気分は晴れたのだった。

「おなかがすかない? カレーライスでも食べませんか?」

 二人は気の利いた店には立ち入らない。水島はもちろんのこと、糸香も庶民的な店を好む。たとえば二人でお好み焼きの出来を競うのが楽しいように。

「糸香さん、魚釣りをしたことはありますか」

 料理を待つ間に訊ねてみると、一度もないと言う。そこで水島は次の休みに魚釣りをしようと提案した。たしかハゼなら今頃がよく釣れる時期だし、それなら岸から釣ることができるので安全だ。初心者向けの魚で、なにより美味しいのだ。

 もうすっかり機嫌を直した水島は、今夜も家まで送ることにした。

 そして日曜日、張り切って海へ来た。早朝が特によく釣れると父親に教えられ、日の出前から出かけてきた。今夜のおかずは任せておけと大見得を切ったのだが、まったく釣れない。近くの親子連れが盛んに歓声を上げているというのに、一匹も釣れなかった。そうなると、海を眺めるどころではなくなり、口数が減った。対する糸香は、鳥のさえずりを楽しみながら沖ゆく船を珍しそうに眺めていた。

 帰りの車の中で、魚がいなかったのだと糸香がなぐさめてくれるのだが、好い所を見せられなかったことで気持ちが沈む。そんな水島の手を握っていた糸香が、いつの間にか居眠りを始めた。安心しているのだ、信頼しきっているのだ。それにひきかえ、自分は魚が釣れなかったことで沈んでいる。なんて情けないことがろう。強くならねばいけないと気を引き締める。水島だった。


 社長が糸香に直接交渉したというのを知ったのは、火曜日だった。遠回しに断ると、こんどは連絡先を教えろと粘ったらしい。もちろんそれも断ったのだが、それなら毎日頼みに来ると半ば脅したようだ。そんなことをされては店に迷惑がかかるので、つい携帯電話の番号を教えてしまったらしい。それを知って水島は燃え上がった。いくら社長だからといって個人の領域に踏み込んでいいはずがない。

「話が違うではないですか、仕事先へおしかけて協力を迫るとはどういうことですか」

 抗議をしたのは翌水曜日の朝のことだ。しかし社長は涼しいかおで余裕さえみせている。そしてこう言ったのだ。

「京極さんのことだな。すまんが、彼女は承諾してくれたよ。振袖のビデオだけだ。これは約束する」

 糸香から情報を受けたのは昨日の夕方のことだ。そして水島は家に送り届けている。糸香を承諾させる時間などないはずだ。

「なんだ、嘘だと言いたいのか? だったら彼女に聞いてみればいい。今から確かめてきてもいいぞ」

 余裕綽々だ。それならということで確かめに走ると、バツが悪そうに糸香が認めた。水島と別れて暫くして社長が電話をしてきて、何度も断ったのだが、とうとう根負けしたのだそうだ。ただし、これきりということを念押ししたのだと言った。

「ところで水島、魚釣りに行ったのだって? ボウズだったそうだな。そこでだ、お詫びとして魚釣りに連れて行ってやる。初心者でも連れるようにハゼを狙う。そのとき次第だが、キスも釣らせてやる」

 まるで営業の仕方を知らぬのかと言いたげに勝ち誇っている。余計に腹立たしいことに、魚釣りの惨敗まで聞き出していた。

「いまさらオベッカ使わなくてもいいです」

 水島は不満の意思表示をしたのだが、既に糸香の返事をもらっていると、社長は更に腹立たしいことを言った。


 約束の日、指定された場所で待っていると社長が小型ボートで現れた。木曽川の河口には冬になってもハゼが釣れる場所があるのだそうだ。時期的にまだ深場には落ちていないだろうから、遊園地の沖へ行くとのことだ。水島も糸香もこういうボートは初めてで、船酔いせぬかと不安になるのだが、社長は海から見える景色ばかりを指差していた。

 そして、教えられたようにやってみると……、釣れる。面白いほど釣れる。しかし呑み込んだ針を取ってやったり、餌をつけてやったりで水島自身は魚釣りにならない。気がつけば自分の竿が盛んにビクビクしている。上げてみると、しっかり呑み込まれていた。しかし、糸香がはしゃぐのが嬉しくて、釣りなどどうでもよかった。どれほど時間が経ったのだろうか、バケツの中は口をパクパクさせるハゼでいっぱいだ。

「京極さんは何人家族かな?」

 頃合をみて社長がそう訊ねた。糸香の家族と水島の家族が食べるに十分な収穫があるのかを確かめるのだと言ったが、その実、家族構成を聞き出しているのかもしれない。社長が釣ったのを合わせると百匹くらいになっているだろうか。

「ハゼはこれくらいにしておこう。ちょっと場所を移動して、こんどはキスを狙おうじゃかいか。これも素人向けの魚だけど、美味いんだ。それに、ひょっとするとお土産が釣れるかもしれんぞ」

 社長は身軽にボートの舳先へ回って碇を巻き上げたりする。老舗の社長と言っているくらいだからひ弱な人だと思い込んでいたのに、もしかすると自分より生きる力が強いかもしれない。危ないことを苦もなくするのを見て、水島は自分のことが恥ずかしくさえ思った。

 しばらく移動して、こんどはそのまま仕掛けを落とすよう言われた。満潮までのあと一時間ほどが勝負らしい。キス釣りはこうするのだと言って社長は船のエンジンを止めてしまった。碇をおろしていないので船が静かに流される。海底の仕掛けもそれにつれて流れる。その速さがちょうどいいのだそうだ。

 竿の穂先が鋭く沈み、糸香が歓声を上げる。ハゼとは比べものにならないほど暴れるようだ。大騒ぎで糸を巻き上げると、白い魚体が上がってきた。手の平ほどのキスだ。それを外して餌を付け替えてやると、糸香が針を落とす。さっきまでのように分業が始まった。キスもハゼと同じで針を呑み込んでしまうので、何度も針を外させられた水島は、つい自分の竿を渡してしまう。針を外して餌をつけ、こんどこそ釣ろうと針を落とす頃には糸香が魚を目の前にぶらさげるということの繰り返しだ。

 それは特に深くまで呑み込んだのを取っている最中におきた。竿先が引いたので、水島は強くシャクッただけで竿を放置しておいた。用心のために竿尻を踏んで針を外すことに集中していた。ブルブルッとしたら竿を立てるように言っているのに、糸香は糸だけを巻こうとする。だから呑み込まれてしまうのだとぼやいていると、すまなそうに糸香が手元を覗き込んでくる。そうして二人が頭を寄せ合っているときだった。足先にブルブルと振動が伝わってきた。ハッとして竿先を見ると、折れるのではないかと不安になるほど曲がり、竿そのものが引き摺られている。少なくともキスでないのは確かだ。針を呑み込んだ魚など放っておいて、水島は糸香に竿を持たせた。

「竿を立てて。糸を巻くのは後でいいから、とにかく竿を立てて」

 無理に糸を巻くと切れるかもしれないと教え、決して緩めないようにと励ました。さっきまでのはしゃぎ様はすっかり消え去り、顔が強張っている。

「もっと竿を立てて、糸を巻きながら少し寝かす。そうしてまた立てる。その繰り返しだよ。頑張れ」

 ウンウンと肯きながら魚と格闘している糸香が、とうとう音を上げた。これ以上すると糸が切れると弱音を吐く。それでも水島は励ましていたのだが、とうとう力負けして竿が倒れるのを見た。そして咄嗟に竿に手を沿え、ぐっと引き寄せる。糸香の手を包むようにして糸を巻いた。その二つを同時にするには、背中から覆いかぶさるしかなかった。

「頑張れ、もう少しの我慢だから」

 水島は励ましながら竿を立てた。魚を取り込むことに夢中で、どういう体勢になっているかなど眼中にない。ところが糸香にしてみれば抱きすくめられた上に、竿を胸に押し付けられ、別の意味で身をかたくしていた。決して悪気があるわけではないだろうが、身構えてしまう。事情が事情だから声を上げないだけだ。

「大丈夫だって、人間より大な魚がこんなところにいるわけ」

 そう言いかけた水島が少し考え直したようで、そういえばシャチの子が迷い込んだことがあったなと呟いた。それも耳元でだ。その瞬間に糸香は頭の中が真っ白になった。そんなものが釣れたのだとしたら海に引き摺り込まれるのではないだろうか、食べられてしまいはせぬかとさえ心配になった。

「シャチ? そんなのが釣れたの? 嘘でしょう?」

「嘘だよ、そんなのが釣れるもんか」

 それを聞いて糸香はほっとしたと同時に腹が立ってきた。

「シャチは嘘だけど、スナメリならいてもおかしくないそうだよ。知らないかな、水族館で見たじゃない、鼻ぺチャのイルカ。そいつは住み着いているそうだよ、湾内に」

 シャチもイルカも同じことだ、引き摺り込まれたらどうしよう。ほっとしたのも束の間、糸香は不安でたまらなくなった。あんなのが体当たりしてきたら、こんなボートくらい簡単にひっくり返されると思い込んでいる。

「切ろうよ。健一さん、糸を切ろうよ」

 本当に糸香は怯えている。魚なんか全部捨ててもいいから、生きて帰りたいと心底思った。

「糸香さんの怖がり。嘘だよ、冗談だよ。そんなのが釣れたら一発で糸なんか切られているって」

 糸を巻きながら水島がクスクス笑った。また騙されたのだと知って糸香は腹を立て、思わず肘鉄を食らわしてしまった。しかし、こんな身近で温もりと力強さ、屈託のない声と臭いを強く感じた出来事だった。

 うっと呻いて水島が手を離したのだが、もう魚は弱ってきているからそろそろ見えるはずだ。それにしても遠慮会釈のない一発だった。糸香をからかうのは面白いが、安全を確保してからにしようと水島は思った。

 あまり綺麗とはいえない水の中に、白い団扇のようなものが上がってきた。水面近くで最後の抵抗をみせはしたが、タモで掬われてかどうしようもなかった。

「やったよ。カレイが釣れたよ。これだけ大きけりゃ刺身にできる」

 釣り上げたのは三十センチほどもあろうかという大物だ。ついさっきまでフグのように頬をふくらませていた糸香が上機嫌になった。


 邪魔をしていいかと声がかかった。すっかり忘れていたのだが、船には社長も乗っているのだった。少し前に声をかけようとしたのだけれど、なんだかイチャイチャしていたから遠慮していたのだそうだ。そろそろ満潮で潮が止まり、全く釣れなくなるのだそうだ。だから帰ろうということだ。そして社長は自分の獲物を持自慢気に見せた。悔しいことに社長の獲物のほうが数が多く、生きているものばかりだ。しかも、カレイも混じっている。

「水島、船室に発泡スチロールの箱があるから二つ出してくれ。それと、バケツも二つ」

 言われたものを用意すると、社長は魚別に釣ったものを入れ、そこに海の水を注いで氷を入れた。自分が釣ったものも残らず入れてしまった。

「ハゼもキスも美味い魚なんだが、鱗取りが面倒だ。包丁でやってたら日が暮れてしまう。そこで、こうして網袋を使う」

 網袋に一掴みのハゼを入れて、社長はバケツの中で押し揉んだ。すぐに水が汚れてくる。水を取り替えながら揉むうちに、汚れがなくなった。どうだと言って取り出した魚に触れてみると、鱗がきれいに取れていた。

「頭を落として背開きにする。内蔵と背骨を取ったら氷水で洗え。水気を拭き取ったら衣をつけて、揚げれば天麩羅のできあがりだ。面倒でなければ刺身にするといい。料理屋でも食べられない逸品だぞ。残った魚は丸ごと煮ればきれいに食べられる。まだ昼前だから時間は十分にある。京極さんのご家族を喜ばせてやるといい。それからカレイだけど、魚屋で刺身にしてもらえ」

 と、実演を交えてわかり易く教えてくれた。

「無理を頼んだことは、これで帳消しにしてくれよ」

 最後にそう言って、頭をチョコンと下げたのだった。社長が勝手に糸香を口説いたことについて、水島はまだ面白く思っていない。けれども、こんなことをされると、自分も言いすぎたと恥ずかしくなった。社長には、どうしてもそうする必要があったのだろうと思い直すことにした。そんなことより、糸香が喜んだ。そして二人の間がまた縮まったと、水島は思った。


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