廓あそび
サークル・シエスタ第一回課題に応じた、『カフェ霧隠れ 一周年記念日の出来事』を全面改稿しました。
紙数が倍となったので、三部に区切って公開することにしました。
鈍くさい青年の物語です。
商業の中心として発展してきた地域には十階建くらいのビルが所狭しと建ち並んでいる。三十階とか四十階という超高層ビルの建設ラッシュが続く今日にあってむしろ見劣りするようになってしまった感があるが、いまだに中心地であることに変わりはなく、多くの人々を貪欲に呑み込んでいる。
街の成り立ちは面白い。その昔、街は城を中心に形づくられていた。様々な役所が城を取り巻き、その外側に家臣の屋敷が建ち並ぶ。そして商人が店を連ねる区画が割り当てられ、職能ごとに区画が定められた。鍛冶屋町とか大工町といった具合にだ。そして特別な技能をもたない者は、更にその外側で暮らしていた。これは、為政者によって作られた、いわば人工物だ。明治になって鉄道が整備されると、こんどは駅を中心に街が形成されたものだ。格式を誇るとか歴史があるということよりも、人口の多い街に駅ができた。主要幹線がぐんぐん延び、そこから支線が地方へ延びてゆく。そうした乗り換え駅には優等列車が停車する。急坂を越えるために機関車を増結せねばならない区間もあり、優等列車といえども停車する必要があった。それがその土地の人口増加を促し、これといった産業がないにもかかわらざ大きな街を形成した土地もある。やがて鉄道技術が発達してトンネルを掘れるようになると、機関車の増結は必要なくなり、優等列車の停まった駅も、単なる通過駅となった。たまにしか列車が停まらない街から働き手が流出するのは無理からぬことで、あれよあれよという間に老人ばかりが暮らす隠れ里と化した。城中心から駅中心に変わったことから、物流によって街が作られたともいえよう。それは街の中に措いても同じだ。中心部が城の周辺から駅周辺に移ってしまう。地方都市ならいざしらず、大都市においては駅周辺に開発余地などない。当然のこととして更に周辺の土地が開発され、様々な産業が進出する。つまり、街の中心が曖昧になってきたということだ。それは名古屋市も例外ではない。
名古屋の中心地はどこかと市民に訊ねると、中年から上の人はまず間違いなく栄という地名を挙げる。若者は、名古屋駅周辺とか金山周辺と答える者が多い。このように名古屋という大都市でさえ中心部が曖昧になってきている。今もって中心だと胸を張るのは、その地域で暮らし働く者の意地だろうか。その区域は大小さまざまな建物が密集し、しかも年代ものの建物が多い。
西隣には、対照的に背の低い建物が密集している。示し合わせたように四階くらいのビルが狭い通りをはさんで向かい合わせにびっしり並んでいる。どれも年季が入った建物で、ショーウィンドウには反物や服地だ飾られ、古めかしい暖簾をかけたところもある。人通りは左程多くなく、そのかわりにトラックやライトバンがめまぐるしく行き交う一画でもある。一見すると経済発展から取り残されたような観があるが、歴史を遡ればこの一画こそ経済の中心だった。ただし、城が中心だった時代のことだ。いや、戦後の復興期もずいぶん賑わっていた街だから、名古屋ができてからずっと中心であり続けた街かもしれない。が、謳時を知る者は少ない。長者町、若者の意識にすらない繊維街だ。暮らしに無くてはならぬ繊維業だが、今となっては長者を輩出するような産業ではない。そのかわり一族会社が残っていて、家族的な気質もある。それはつまり、社長と社員の距離がないという、いささか息苦しい会社だ。だけど悪いことばかりではなく、ノルマ達成という点では鷹揚な雰囲気がある。問屋街の中でも指折りの老舗商社も、そういう面には恵まれていた。
「ですからね、一割アップというのは厳しいですよ。裁量ですか? 私のような若造にもたされては……、いえ、本当に持たされていないのです。ですので、方法を考えましょうよ。週明けの一番に伺いますので、試作品を見ながら善後策を……。そのときに、より良いアイデアをいくつか用意していただければ、張り切って客先と値交渉しますので」
若い社員が電話口でしきりと相手を宥めている。発注当初の指定値を吊り上げるのは外注の常套手段だ。同じように客先からの値下げ要請もあり、簡単に引き下がることなど許されない。いくら鷹揚だとはいっても、社長の雷が落ちるのは間違いない。ましてや一番年下であればなおさらだ。無理を押し通そうとする相手に苛立つのか、若者はタバコを銜えた。と、隣席の女事務員がすかさずそれを取り上げた。
「水島君、お客様に集中しなさい。」
押し殺しているだけあって凄みがある。
ちょっと頭をさげて謝ってみせたのだが、電話の相手が譲歩しようとしないものだから苛々が募り、二度、三度とタバコに手が伸びた。そのたびに奪い続け、業を煮やした事務員はタバコの箱にセロハンテープを貼りつけてしまう。そろそろ五時。事務員は笑いを噛殺して帰ってしまった。上役らしき中年も次々に席を立ち、事務所には水島だけになった。
「いえ、ですから週明けに一番で伺いますので、そこで相談させてください。御社が自信をもっておられるのですから芸術品なのでしょう。ですが、見せていただくと改善点がみつかるかもしれ……、決してそういう意味ではなくですね、より良い勘考が浮かぶかもしれないではないですか」
納得しない相手に苛々が高じているのか、水島は隣の机に放置されていたタバコを摘んだ。相槌をうちながら鼻の下に渡すと、それを嗅ぐ。タバコの香りが気持ちを落ち着けるようだ。言葉の端々に尖ったものが出始めていただけに、効果的な鎮静薬となったようだ。そして話の合間にそれを吸った。社内全域が禁煙となって一年、火を我慢する分別はあるようだ。
強情な機屋をなんとか宥めることができたとき、既に時計は五時半になっていた。週明けの予定表に試作品確認と書き込んで今日の仕事は終わった。今日は金曜日。先輩たちは夜の街に羽ばたいたのやら、まっすぐに帰宅したのやら。若手一人を残して退社してしまった。話し相手のいない事務所は侘しいものだ。水島もそんなふうに思っているようで、立ったり座ったりと落ち着かない。あと三十分もそうしていたら残業が一時間つくのだが、とうとうタイムカードを押してしまった。誰もいない事務所でぼんやりするよりも、超過した三十分はサービスすることにしたようだ。
通りへ出たとたん、梅雨特有の湿気と熱気が水島の顔をゆがませた。降るでもなく照るでもなく、ベタッと肌に貼りついてくる。冬は北風が吹き抜けるのに、そよとも風がない。それどころか排気ガスが淀んでいる。ますます顔をゆがめた水島は、乱暴にネクタイをくつろげた。ついでに銜えタバコでもしたさそうだ。しかし一帯は禁煙地域、同業者の目も厳しい。未練がましく胸ポケットに手をやりはしたものの、禁を犯す勇気はなさそうだ。
大通りを渡り、右に向きを変えて歩く。駅へは一直線であり、彼の通勤ルートでもある。本当なら左に向きを変えて地下鉄に乗るほうが楽だ。冷房が効いているのだから汗をかくこともない。が、敢えて彼は右に向かった。ビルが日差しを遮るのでいくらかは凌ぎやすい。けれど、ひしめく自動車の熱気が鬱陶しい。せめて柳並木がそよいでいたら気分だけでも涼しいだろうに。それでも水島は後戻りしようとはせず、駅の方に歩を進めた。しかも、どうしたわけか速足になっている。
水島の会社から三区画ほど離れたところは銀行や保険会社が集まった区域で、街の雰囲気も角ばったコンクリートの塊という印象を受ける。仕事柄か身嗜みをきちんとした人々が行き交い、ますます四角四面な印象を受ける。そんな中に、およそ金融街には似つかわしくないドアがあった。なるほどハンバーガーやドーナッツの店もあって客をオープンに誘っている。が、そのドアだけは異質だ。明らかに客を遠ざけている印象がある。木製の小さなドアと通りに面した窓は煤けたように黒く、店内を窺うことはできない。そしてドアには、店名を彫りこんだ板が打ち付けられているだけで宣伝文句の一つもない。ドアの脇に宣言文らしきものが掲示されているのだが、それを立ち止まって読むような者などいない。まるで地底世界への入り口のようで怪しげだが、そこをくぐる者がいる。それが少なくないから驚きだ。そして同じくらいの割合で出てくる。あまり長居するような場所ではないようだ。妙なことに、くぐる前に通りの様子を窺う素振りをみせるのに、出てきたときは妙にすっきりしているようにも見える。違法な代物を扱っているのではあるまい。白昼から大胆すぎるし、だいいち警察が放っておくはずがあるまい。通りの様子を窺うというのは間違いで、何事かを叫んでいるのだ。人目を憚って小声なのが多いが、中には大声で叫ぶ者もいた。
急ぎ足で歩いてきた水島がそこに立ち止まり、ドアを背にした。
「てやんでぇ、莫迦野郎!」
社長が目撃したら頭から湯気を立てそうなことは目に見えている。にもかかわらず、彼は叫んだ。
個人の権利意識が高まるのは、社会が醸成されてきた証だともいえる。様々なアピールをすることは決して間違いではない。しかし我々日本人は、安易に迎合する癖がある。一部の意見が多数になると、論拠や根拠には関係なく同調してしまう。多数意見に賛同することで安心するのだろう。しかし、それでは鰯の群れと同じではないか。タバコの健康被害を問題視する人がいる、タバコは肺がんの元凶だと。しかしタバコと肺がんの関係は、医学的に証明されたものではない。臭いを指摘する声がある。確かに嫌いな人にとっては苦痛だろう。それならば女性の化粧はどうなのだ。当人良かれと信じているのだろうが、そんな人とエレベーターに乗り合わせると、一瞬で臭いが充満するのも事実だ。それは決して甘美な香りではなく、息を詰めたくなることが多い。ならば、化粧禁止を要求しても良いのだろうか。密閉空間など論外で、街路でも化粧をして出歩くことを認めないとなったとき、潔く受け入れるのだろうか。広い世間には化粧品の臭いにアレルギーをおこす人だっているかもしれない。そんな主張に耳を傾けるだろうか。現実を見てほしい。愛煙家は耐えている。明確な根拠のない迫害を堪えている。愛煙家が収める税金が年間二兆円。そのうち国の会計には八千六百億円。県の会計に千四百億円。そして市町村の会計に八千六百億円。その分配金は、教育費とほぼ同じだという。タバコ臭い金で子供を教育してもらうことに嫌悪感はないのだろうか。また、国鉄の清算に当てられるのが千三百億円。もちろん消費税もかかっている。もし日本中で完全禁煙が実現したら、その財源はどうするのだろう。国民すべてが負担することになるのだが、それを容認するだろうか。鉄道が顕著な例だ。喫煙できる車両がなくなり、喫煙スペースすらなくなった。ホームの外れに追いやられた灰皿が撤去され、今では構内全域が禁煙になっている。そのくせ旧国鉄の借金を肩代わりさせられている、それが現実だ。鉄道会社は後ろめたくないのだろうか、上得意に酷い仕打ちをして。けれども愛煙家は辛抱している。酒を禁じてほしいと声高に叫んだりしない。酔えばこそ、喧嘩口論はなくならないし、痴漢やつきまといといった犯罪も誘発するのに、非難しない。女絡みの刃傷沙汰や家庭内暴力についても非難しない。だからせめて、至福の一服を楽しむ場を認めてほしい。
ドアの横の宣言文はこのようなものだ。
水島がくぐったドアの先は、禁煙地域にひっそりと花開く喫煙喫茶。その名を『カフェ 霧がくれ』という。
「これは水島様、お一人様ですか?」
出迎えたのは、ぴったりとフィットしたスーツ姿の女性だった。名を糸香という。喫茶店にしては服装がきっちりしており、言葉遣いが慇懃で、まるでホテルの喫茶室のようだ。ドア一枚隔てた店内は空調が行き届き、ねっとりとした汗が見る間に退いてゆく。水島は、はにかみながら今日も一人だと答えた。
「大歓迎です。今日は開店一周年なのです。そんな日にお越しくださり、ありがとうございます」
かるく会釈をすると、髪を結んだ紐がよく見えた。紅の細紐が三巻きほどしてあり、端が綺麗に結んである。
顔を上げた糸香が水島に向き直った。と、顔をくもらせる。失礼しますと断って、水島が緩めたネクタイを締め直した。
「ネクタイは、締めるか取るかはっきりなさった方がお似合いです。特に水島様は、だらしない姿は似合いません」
そう言ってにっこり微笑んだ。一方の水島は硬直している。会社で身嗜みをチェックされることはあっても、相手は中年のおばさんだ。照れ笑いくらいでその場は収まる。けれど若い女性にそんなことをされた経験などない。考えだにしなかったことをされ、表情までもが硬直している。女性と交際している友人は何人もいるけれど、彼女がネクタイを直しているところなど見たことがない。今の行為は、友人たちどころか、より親密なカップルのすることだと瞬間に思った。ましてや糸香が自発的にしてくれたのだ。思いがけないことがあると頭が真っ白になるというが、それはまったく本当だ。
この店に通い始めて九ヶ月。ようやく物怖じせずに言葉を交わすことができるようになった女性で、糸香という名だと知ったのもほんのふた月ほど前のことだ。大学を卒業していくらもたっていないようなのに、客の視線に動じない力のある眼をしている。その目でまっすぐ見つめられると、なぜか水島は気後れしてしまう。
「では、水島様の専用席にご案内します」
そう言って糸香が案内に立った。決して暗くはない店内なのに、足元で雪洞が淡い明りを放っている。それに照らされて糸香の足首がキラキラ輝いた。
通路と客席を仕切るのは葦の衝立。人目を遮るようでいて死角をつくらない伝統の建具だ。もし通りの窓が素通しなら、夏向きに模様替えした京の座敷を思い浮かべることだろう。
糸香は更に奥へと進む。水島はそのキリリとした後姿が好きで、見とれてしまうことが多い。こんな女性と交際できたらと淡い期待を抱き続けてはいる。しかし糸香は看板娘。狙っている男は多かろう。対する自分は野暮ったい若造。それに加えて女性との交際経験がない。強い憧れを抱く一方で、望むべき相手ではないと諦めている。
糸香が立ち止まって自分のことを待っているのに気づいた水島は、ぎこちなく一歩を踏み出した。ただ、さっきの出来事があまりに衝撃的で、いまだに心臓が早鐘を打っている。
最近では、タバコ喫みたさに来るのか、糸香会いたさで来るのか、自分でもわからなくなっている。
奥のカウンターの突き当たりの席。左隣には絶対に客の来ない席が水島の定席だ。混んでさえいなければ右隣に客が座ることもない静かな席。糸香が言うところの、水島専用席で、そこにだけ天井から苔玉が吊り下げてある。
「あれ? 苔玉が小さくなりましたね。瑞々しい緑で、涼しいですね」
苔玉の違いにすぐ気づいた彼は、そう糸香に訊ねた。
「釣り忍というのですよ、水島様。でも、苔玉ですよね、見るからに」
糸香がちょっとだけ睨むような仕草をみせた。店の記念日を覚えていてくださるだろう。きっと来店してくださるだろうと考え、自宅から持ってきたのだと言った。
その一言が水島の頬を赤らめたことに糸香は気付いていない。それどころか、今日は意外なほどお喋りだ。雪洞の横に花菖蒲を生けておいたのに気付いてくれたかとさえ言葉を重ねてくる。
それは水島が家で摘んだ花だ。糸香にプレゼントしたかったのだがそうとは言えず、店に飾ってほしいと渡したものだ。一度目の花が終わり、二度目の花が開いたところらしい。少し貰って自宅にも飾っていますと糸香が言ったのだが、水島は照れくさそうに俯いているだけだ。いつになく会話が続くことに、水島の心臓が再び鼓動を速くしていた。
「そうですか。糸香さんの手作りですか、器用なんですね。じゃあ、前に提がっていたのも糸香さんの手作り?」
「そんな、誰にだって作れますよ。水島様は釣り忍がお好きなようですので」
うろたえていることを誤魔化そうと水島が言葉をつなぎ、ふと糸香と目が合って急に下を向いてしまう。
「あのう……、今日はどなたかとお約束は?」
いきなり何を思ったのか、糸香がちょっと気後れした様子で小声になった。
「いいえ、約束なんてありませんよ。一服させてもらったら、まっすぐに帰宅します」
水島が答えると、糸香の頬が緩んだ。
「さっきは、あ、ありがとうございました」
キョトンとしている糸香に、ネクタイを示し、それ以上なにも言えなくなったのか、恥ずかしそうに下を向く。
「……あっ、わ、私、不躾なことをしてしまいました」
言葉の意味を悟った糸香は、慌てたように顔をかくして持ち場へ帰ってしまった。
おそらくそれが記念日のサービスに違いない。飲み物代を無料にするよりよほど記憶に残るサービスだ。しかも、憧れの糸香がしてくれた。実に意表を衝くサービスだと水島は思った。
濃い茶のカウンターは天井の仄かな照明に照らされ、テラテラと光沢を放っている。こういうところで反物を広げたらどんな模様が見えるだろう、映えるだろうか。試作品の生地を吟味するのに役立たないだろうかとつい思ってしまうのは、まだ機屋とのやりとりをひきずっているからだ。あの生地にはまだ工夫の余地がある。それを見つけることがえきれば会社も機屋も潤うはずだ。一つくらいは商品開発に携わりたいとも思う。それが高じてくると、着物がいいか、洋服がいいかと想像が膨らみ、気付いたら思い描いた衣装を糸香に着せていた。彼女なら、若さを強調するように大きな花柄を。……いや待て、彼女にはむしろ無地のほうが似合うかもしれない。後ろ襟と胸元、そして裾に小さくリンドウでもあしらったほうが似合うだろう。それを着た糸香が弓を引く。ギリギリと引き絞り、一心に的を狙う。凛々しい姿にうっとりする。
「水島様。水島様、どうされたのですか、まるで魂を吸い取られたような顔をして」
蝶タイを締めたバーテンダーが注文を待っている。たしかカウンターを見ていたはずだが、いつの間にか釣り忍を眺め、視界の中に糸香を探している。無意識の行為を悟られていないだろうか。水島はわざとらしく視線を泳がせて誤魔化すことにした。
「あっ、すみません。コーラをください。なるべく氷は少なめに」
「心得ていますよ。頭が痛くなるのですよね。ところで猫舌の水島様、二杯目はどうされますか? 水島様の場合、今から用意してちょうど飲み頃ですからね。それとも、フーフーさせましょうか、糸香さんに」
「やめてください。そんなことを考えたこともありませんから」
水島は真っ赤になって否定した。
この店の約束事の一つは入店前に叫ぶこと。それはもう済ませている。そして二つ目の約束事。それは、まず何かを飲んで気持ちを落ち着けること。
来店客は判で捺したようにタバコに飢えている。そんな相手にタバコを勧めたら、ガツガツと獣じみた喫み方になる。それでは見た目も悪いし不健康だということで、気持ちを鎮めるための一杯が約束となっている。とはいえ、喫みたい一心の客は手早く出てくるものを注文するのが常だ。それがコーラだ。
初めてこの店に足を踏み入れた日、彼はいきなり『ゴールデンバット』を注文した。が、バーテンダーは愛想笑いを浮かべるだけで応じようとはしなかった。安物を注文したのがいけなかったのかなと思い、次に『セブンスター』を注文した。だが、バーテンダーは応じようとしない。それどころか、丁寧に磨いている灰皿を出そうともしなかった。痺れを切らした水島がポケットのタバコを銜えたとき、バーテンダーが三つ目の約束事を教えてくれたのだった。
「お客様、タバコは存分に楽しんでいただきますが、持ち込みはご遠慮願います。まず喉を潤してください。それから銘柄を承ります。もしよろしければ、タバコと共に二杯目の飲み物を承ります」
噛んでふくめるように教えてくれた。言われて他の客を見てみると、決まったようにコーラを飲んでいる。気の早い客など一気にグラスを空け、好みの銘柄を注文している。そういう事かと、彼もコーラを注文した。
ぎっしり氷が詰まったグラスの口元までコーラが注がれているのを見て、彼の心に諦めがはしった。水島は猫舌なくせに冷たいものも弱いのだ。小さなアイスクリームならなんともないが、かき氷をたいらげることはできない。こめかみに錐を揉み込まれたような痛みがして身動きできなくなってしまう。となると彼にできる事といえば、融けるのをひたすら待つしかなかった。早く融けろとばかりにグラスを睨みつけ、用もないのに手洗いに立ったりしても、時は無情だ。いくらか融けただけで、そのかわりにグラスにびっしりと水滴がついている。
「どうされました? 飲み物にお手をつけておられないようですが」
肩をおとしてグラスと睨めっこする水島にバーテンダーが声をかけた。実は、冷たすぎるものが苦手なのですと水島が答えると、そのグラスはあっさりと下げられ、ほんの少し氷を浮かべたものと取り替えてくれた。二杯分の料金を支払うと水島が言ったのだが、バーテンダーはすまなそうな表情で頑なに拒んだ。客の好みを推し量ることができなかった自分の落ち度だと言ってきかないのだ。そうではなく、きちんと注文しなかった自分の落ち度だと水島も譲らなかった。一杯のコーラ代など取るに足らないことではあるが、それがきっかけで二人の間に信頼感が芽生えたのは確かである。そして水島は大切なことを教えられたと今でも思っている。それは、こういう気配りのできる人物にならなければということだ。商社の営業マンとして不可欠な武器だと思った。
「すみません、『ピースの両切り』を二本ください」
鼻の頭に炭酸の飛沫を浴びたまま指を立てると、バーテンダーは軽く肯いて陳列棚に向かった。
いよいよ本命のタバコが喫める。水島に限らず、客は身を乗り出すようにして灰皿を待つ。口を湿らせたばかりだというのに、ゴクリと喉が鳴る。そういう短い間をもたせてくれるのが釣り忍だ。水島の周囲にいつの間にか空気の煙突ができあがっている。前後左右、床から天井に向けて空気のカーテンが引かれ、隣でカレーライスを食べていようが臭いは移ってこない。もちろん通路にもカウンターのむこうにも移ることはない。その狭い空間の空気が吸い上げられ、釣り忍が僅かに震える様は、まるで水面のウキを眺めているようで気持ちが落ち着く。が、釣り忍を眺めていながら、気付けば無意識に糸香を捜している。
お待たせしましたという声がして我に返ると、クリスタルの灰皿と白磁の皿が並んでいる。薄い和紙が二つ折りにされ、注文した品が綺麗に並べてある。着火用のマッチも添えてあった。
「今日の水島様はいつもと違いますよ。気もそぞろ。先ほどは鼻の穴から魂が抜け出ていましたよ、ふわふわと。いったい何があったのですか?」
生地のことを考えていたと誤魔化そうとした水島だったが、それならどうして糸香のことばかりを見ていたのだと、更なる追求を受ける破目に追い込まれた。
「なるほど……。糸香さんを使って着せ替え遊びをしていたと。そういうことですか」
「やめてください。着せ替え遊びだなんて、人が聞いたら変に思うじゃないですか」
「今自分で仰ったばかりではないですか。脱がせて着せて、脱がせて着せると」
「脱がせてなんかいませんよ。瞬間に着替えるのですからね」
「下手な嘘はおよしなさい。ずっと目玉がキョロキョロしていました。挙句の果てに首まで回していました。全部見ているのですからね。 困りますよ、商品に手をつけられては」
水島は大慌てでそれを打ち消したのだが、それならどうしてと容赦ない追求が続き、とうとう白状させられてしまった。
「ネクタイをですか、糸香さんが? お客様と親身な関係になってはいけないと指導しているのですがねえ、大変ご迷惑をおかけしました」
生真面目に頭を下げたバーテンダーは謝罪する素振りをみせたのだが、ニヤリとして意外なことを言う。
「ですが、その程度ならどなたにも一度や二度は覚えがあるでしょう。とにかく、今後は厳しく監督いたしますので、どうかこの場はお治めください」
「初めてです、一度もしてもらったことはありません。女性と交際したことがないのですから」
見栄を張る余裕など水島にはなかった。あらぬ疑いを打ち消すことだけしか考えていない。
「これは失礼しました。水島様のような青年なら女性が放っておかないだろうと思ったものですから」
そこで一端言葉を切ったバーテンダーは、更にいたぶるように続けたのだった。
「それで、どうでした、初体験は」
天にも昇る心地だったなんて言えるはずがなく、びっくりしたの一点張りで押し通すしかない。
「嬉しかったとかありませんか?」
妙にしつこく訊ねることに疑問を感じる余裕はなく、水島はゴニョゴニョと口篭もるしかない。
「いや、失礼なことばかり申しました。ここは気分治しに一服してください」
普段の言い方に戻っている。しかしその変化にすら水島は気付いていない。
「せっかくですが、今日は帰ります」
そう言った水島は、白磁の皿に載せられたピースを紙に包み、伝票を書いてほしいと告げた。が、バーテンダーは応じようとしない。
「まあまあ、今日は開店記念日ですから、せめて一服していってください」
そう言ってタバコ盆をとりだした。
あれは去年の暮れだった。一時間の残業を終えた水島は、気分直しにこの店に立ち寄った。席についてようやく開店半年を知らされたのだ。その時バーテンダーがガキ大将のように悪戯っぽく新しいタバコを教えてくれたのだった。
「皆さんに可愛がっていただいたおかげで半年を迎えました。そこで、ぜひ皆さんに喜んでいただこうと秘蔵品を用意しました。お一人三服までなのですが、おためしになりますか?」
そっと取り出したのは時代物の煙草入れで、本の挿絵でしか見たことがない代物だ。網代編みの筒から抜き出したのは銀の煙管。彼は吸い口を丁寧に拭うと、熟れた手つきで刻みタバコを詰めた。そうして初めて刻みタバコを喫んだのだが、ただいがらっぽいだけだったのを覚えている。
「お口に合いませんか? ウィスキーでいえば、これはモルトですからねぇ。葉を刻んだだけで、香り付けすらしていませんから」
水島の顔を覗き込み、彼は朗らかに笑ったものだ。
昔の人はこんなものをありがたがっていたのかと、ちょっと呆れた。が、それはともかく、彼の手つきが粋に見えて仕方がなかった。喫み終えるたびに手に持った真鍮製の火皿に灰を叩き落し、煙管で味噌を擦るようにして葉を詰め込む。最近では時代劇でも手元を細かく見せる場面がなくなり、落語でしかその仕草を見られない。それをいとも簡単に彼がしてのけたのだ。水島は、自分にもさせてほしいと頼んだのだが、穏やかな微笑みが返ってきただけだった。
「半年前でしたね、あのときはタバコ入れを使いました。それと同じでは芸がない。今日は特別にタバコ盆を使いましょう。ということで火床を用意しますので、もう少し待ってくださいね」
焼香のときに使う炭にポッと赤味がさしたが、なかなか広がりをみせない。しきりと息をふきかけていた彼は、もうしばらくお待ちをと断って灰の上に置いた。
「せっかくですから、廓遊びをしてみましょうよ」
「くるわ遊びとは、どういうことですか」
「遊郭ですよ。東の吉原、西の丸山。華の都は島原の郷。ね、武家もお公家も坊主も町人も浮かれ騒いだ桃源郷。ここだけの話、ちょっと他所ではできない体験をさせてあげます」
そう言った彼は糸香を手招きをした。この男はいったい何を考えているのだろう。そもそも気分を害したのは、糸香のことでからかわれたからではないか。それをわざわざ呼び寄せるとは、あまりに無神経すぎる。水島が腰を浮かせかけたのは尤もなことだろう。
「まあまあ、付き合ってくださいよ、絶対に損はさせませんから」
身を乗り出して宥めようとするのだが、間にカウンターという障害物があるので思うように席につかせることができない。しかし、すぐ後ろまで近寄ってきた糸香によって通路は塞がれていた。
「糸香さんも来たことだし、機嫌を直して聞いてくださいな。元手がかかっている話ですからね、水島さんお一人に聞かせるのはもったいない」
思わせぶりなことを言った彼は、隣の席に腰掛けるよう糸香に命じ、境を仕切っていた空気を止めたのだった。しばらくすると微かな香水の香りが水島の鼻腔をくすぐった。
「では始めましょう」
糸香がきちんと着席するまで待って、彼は語り出したのだった。
「昔から、人が大勢集まるところには歓楽街ができました。これは世界のどの国にもいえることです。酒を呑んで騒ぐだけなら料理屋や飯屋で事足りる。春を鬻ぐ女はどこにだっていました。けれど、男が憧れるのはなんといっても吉原でしょう。そこには女がわんさといる、そして金で買えるのです。水島さんあたりは、男の思うがままだったと想像するでしょう? ところが、そうではなかったらしく、遊女に断られる男も珍しくはなかったそうです。だいたい、吉原の遊女はべらんめえ言葉でしたからね。オレとかテメエなんて当たり前、なんたって上州の言葉がハバをきかせていましたから。花魁とか太夫という超売れっ子など、大名さえ袖にすることがあったそうですよ」
何を語るかとおもえば吉原の薀蓄だ。そういう場所が巨大な売春地域だったことくらい誰でも知っている。遊女がベランメエというのは初耳だが、どこからそんな知識を仕入れたのだろう。しかし彼は、時折タバコ盆の炭に息を吹きかけながら続きを語る。
「いくらお大名でも、初めての席で花魁を侍らすことなどできなかったようです。それどころか、呼ぶことすら叶わない。二度、三度と通って、初めて馴染みになれたのだとか。その度に大宴会です。莫大な費用が注ぎ込まれたそうですよ。さて、席に呼ぶことができた。でもね、その日は何もしてもらえない。酌どころか、話し相手すらしてもらえない。花魁と結ばれるのはいくつもの荒波を乗り越えた末だったのです。そうしてみると、実は女性の天下だったのかもしれませんね」
水島にとってそれは初耳だった。時代劇でそういうシーンはよく見るのだが、賑やかに宴会をしているシーンばかりで、一般の者には知りようがないことだ。腰が退けていた水島だったが、いつしかバーテンダーの語る世界に引き込まれている。
「何度も言いますが、吉原は金で女を買う場所です。通りに面した溜り場に格子のある座敷があって、中で遊女が客を誘っている場面が定番ですね。実は、あの見世にもランクがあって、下から小見世、中見世、大見世だそうです。ランクによって料金がポーンと跳ね上がるのだそうですが、そういう生々しい話題は若者には毒ですので省きましょう。溜り場には派手な衣装をまとった遊女がいるわけですが、そこに必ずタバコ盆があることに気付きませんか? 実は、タバコはとても重要な小道具だったのです」
遊廓とタバコがどう関係するのか、ここに至ってようやく謎解きが始まるわけだ。なるほどそういう場面で煙管を持つ遊女が登場したことはある。しかし多くは、事が終わった後で一服する場面だ。勿体ぶった言い方をしているが、その程度なら目新しくはない。その程度なら知っているという気持ちが水島の胸に湧いた。
「時代劇でがっかりするのは、時代考証ができていないこと。それから所作がなってないことです。つまり、製作者が素人すぎるのです。もっとも、現代はそうでなければ受け入れられないのかもしれません。でもね、小道具の使い方がきちんとされていたら、情感が増すと思うのですよ。たとえばね、遊女が銘々にタバコ盆を携えていたのだけれど、そういう場面ってありませんよね。大事な仕事をしているのに、なおざりにしてしまっています。というのは」
ここでバーテンダーは言葉を切って二人に目をやった。つまらなそうにしているのか、興味をもって聞いているのかを確かめたかったのだろう。
「気のない客やひやかしの客でも、もしかしたら仕事になるかもしれない。遊女にもノルマがあって、達成できなきゃ借金を返せません。客をとるというのは、遊女にとっては切実なことです。客になりそうな相手に煙管を差し出す。つまり、遊女が誘ったわけです。で、客は気に入ればそれで一服。客に声をかけられた遊女もね、厭でなければ煙管を差し出した。交渉成立ということです。時代劇のように野卑な言葉が入り乱れたのも事実でしょう。けれど、そういう味のあることが行われていたのです。猥雑と切り捨てられることが多いのが遊郭ですが、なかなか粋なしきたりではないですか。最高峰に君臨する花魁や太夫も、やはり同じようにしていたそうですよ」
それは全くの初耳だった。遊女がそれぞれタバコ盆を用意していたことも初めて聞くことだった。つまりは、煙管が盃の代わりとしてやりとりされたということだろうか。庶民ならではの知恵だと感心する。
「ということで、廓遊びを体験してみましょう」
帰る気でいた水島だが、今はすっかり廓の話に引き込まれていた。モジモジしていた糸香でさえ、すっかり感心して聞き入っている。これが頃合と、バーテンダーは次の一手に打って出た。
「今日は、私の宝物をお貸ししますので、今話したことを実際にやってみましょう」
つまり、糸香が花魁となり、水島が客となって一場面を再現しようというのだ。すぐさま異を唱えた水島に、相手が気に入らないのかとバーテンダーが訊ねた。すると抗議は止んだのだが、頬が赤くなっている。一方の糸香は、目を見張っただけだった。そのかわり表情を強張らせ、手にしたハンカチを握り締めている。
「どうしたの、二人とも。芝居なんだから気楽にしましょうよ。それとも、相手が気に入りませんか? そういうことなら仕方ありませんが」
バーテンダーが困ったように呟くと、二人とも更に頬を染めて俯いてしまう。
「相手が不満ということではなさそうですね、安心しました。何度も言いますが、あくまで遊びですからもっと気楽にしてください」
不安そうに下がった目に力がよみがえった。ではと小さく呟いて古びた袋をカウンターに出した。
「骨董屋で手に入れたものです。どうですか、この色合い、形。これこそ私が宝物にしている煙管です」
勿体をつけて取り出したそれを、わざわざ俯いた二人の顔の前で揺らして歓心を誘う。
「なんでも、元禄の頃に作られたものだそうです。黒斑竹の羅宇に施された蒔絵を見てください、実に見事でしょう。吸い口と雁首は純銀で、殊に吸い口の象嵌が見事。これ、すべて江戸の職人が手作りでこしらえたのです。こうして一つの煙管となると、ただの道具とはいえません。見事を通り越して芸術品だ。そうは思いませんか?」
いつもの水島なら、そういう誘いに飛びついていただろう。けれど、なんだかそんな気になれない。さっきの話が尾を引いているのかといえば、そうではない。糸香が隣に掛けていることに緊張してはいるが、その糸香を相手に何をさせられるかという不安の方が大きくて、まだドキドキしている。対する糸香は、不安そうに唇を固く結んでいる。
「では糸香さん、小引き出しを開けると丸い缶が入っているから、蓋を開けてくれないかな」
気楽な物言いはバーテンダーだけ。二人の間には割れそうなほどの緊張感が漂っている。
遊び慣れた女なら粋な仕草を見せもしよう。が、躾の行き届いた娘には似合わないと、左手で摘んだ葉を火口に詰めさせた。それを炭に押しつけさせる。
「火が移ったら、少し燃やすといい。頬をかるく凹ませる程度に吸ってください。無理に吸い込む必要はないからね。そうしたら吸い口を水島さんに差し出すのです」
こうした火のつけ方も遊び慣れていないことを表すのだそうだが、バーテンダーが機転を利かせたのだろう。
火口にポッと火がともった瞬間、糸香が顔をしかめた。咳き込むまではいかないにせよ咽たのは事実で、結んだ唇の端から白い煙が勢い良く出た。目を瞬かせながら申し訳程度に吸い口を指で拭い、糸香は薄く煙のたなびく煙管を差し出した。一部始終を見ていた水島は、惚けたようにそれを受け取ると口にはこんだ。
苦い味がしたのだろうか、それとも辛いと感じたのだろうか。はたまた味も臭いも全く感じないのだろうか。ゆっくりと煙管を吸いながら陶然としている。
「糸香さん、詰め替えを」
促されて糸香は煙管を受け取った。
「灰吹に灰を落として、残った煙を吹いて出す。そうしてさっきと同じように葉を詰めて火を」
言いながらバーテンダーは身振りでやり方を教えている。すると糸香は、水島が銜えていた吸い口をそのまま口にした。フッと息を送ると、火口から一塊の煙が浮かび出た。
さっきので要領をつかんだのか、糸香の動きは滑らかだ。そして、こんどは咽ることもなく吸うことができたようだ。
どうぞとでも言ったのだろうか、糸香の口が微かに開いて薄紫の煙がゆらゆら洩れ出てきた。鼻からも薄く煙が洩れている。そのくせ目尻には涙がたまっている。
さっき、糸香は水島が銜えたところを拭わなかった。そしてこんどは、自分が口にしたところを拭わずに差し出している。どういう意味なのだろう。水島の頭の中で疑問が大きな渦を巻いている。
たった二服で儀式は終わった。味を感じる余裕も情緒を楽しむ余裕もなく、ただただ刺激的なできごとだった。
「まだですよ、水島さん、まだ終わりではないですよ」
バーテンダーの声が遠くから聞こえる。
煙管を用いての儀式にしても、糸香とのことも。夢のような出来事だった。そして、夢は覚めるもの。どう諦めるかが問題だ。
「さて、組み合わせは決まりました。だけど互いに初対面ですからね、いきなりナニするのはいけません。それでは獣に堕ちてしまいます。なんとか気分を盛り上げる必要があって、そこで重宝されたのがなのです。四つ足の膳に気の利いたつまみ。一つの猪口でやったり取ったりしているうちにその気になる。でも、位の高い遊女はそれなりに格式を重んじたようです。それなりに客の身分が高くなりますので、そうなるでしょう。朱塗りの盃で酌み交わしたのだとか。そこで、このようなものを用意しました。たしか水島さんは電車通勤でしたね」
バーテンダーが取り出したのは、三つ重ねの銀盃だった。似合いそうな高盃がないからと、黒檀の板を敷物にしている。
「こうすれば、見栄えがするでしょう」
と言いながら片口の銚子に紅白の水引きをあしらった。
何をするつもりかと訊ねるまでもなく、盃事が始まるようだ。
「では、廓遊びの第二部。盃事を始めます」
バーテンダーが真面目くさって宣言したまでは良かったのだが、肝心の水島は呆然としている。それでは埒が明かないということで、バーテンダーがいちいち指図を始めた。
一番上の盃に少しだけ酒が注がれた。注いだというより、滴を垂らした程度だ。促されてそれを飲んだ水島は、手にしたままかたまっている。今やろうとしていることは、婚礼の席で必ず行われることではないか。水島にとって、それは神聖な儀式だ。遊びですることではないと思う。しかし相手は憧れの糸香。軽々しくすることではないと思う反面、嘘でもいいから続けたい、最後までしたいと願う。それでいながら、後でがっかりするのは御免だとも思う。最初から遊びという約束なら尚更厭だ。水島の心の内で迷いが渦巻いている。ただ、これを逃したら二度と巡ってこないチャンスだろう。明と暗がめまぐるしく入れ替わり、やがて夕暮れに取り残された気分でいた。
バーテンダーに促されて正面を見ると、糸香が両手を出して盃を待っていた。慌てて渡すと、バーテンダーが滴を垂らし、糸香がそれに口をつけた。次は糸香が先に飲み、水島が同じ盃を使った。最後に大きな盃を水島が使い、糸香も注がれたものを飲み干した。
「こうして馴染みになった客は、ほかの遊女に手出しできなかったそうです。同じ妓楼の遊女などもってのほか。違う妓楼の遊女とだって浮気できないのだそうです。広いようで狭いですからね、世間は。そういう噂はすぐに駆け巡りますから、いずれ知られることになるのですね。怖いのはここからです。もしそういうことが発覚したら最後、遊女たちから袋叩きにあったのだそうですよ、客がです。金で買った買われた仲とはいえ、かりそめの契りを結び、束の間の誠を尽くしたのでしょう」
かりそめの祝言、俄か仕立ての夫婦。外聞はよろしくないだろうが、その瞬間だけは情を通わせていたのだろうことを水島は感じた。映画やドラマを見るだけでは理解することができなかったことだ。
「これで廓遊びは終わりですが、いかがでした?」
感想を聞かれても、水島には答えようがない。
「かりそめとはいえ、糸香さんと祝言を挙げてしまいましたね」
そのこと自体は嬉しい。けれど、遊女との出来事のように、煙となって消えてしまうのではないかという諦めが先にたつのだ。そのくせ、どうして糸香は拭わずに盃をよこしたのだろう。どうして吸い口を拭わなかったのだろうと考えた。糸香が強かな女で、自分を利用しようと目論んでいたのなら、そうして歓心を買ったと考えられる。逆に糸香が初心で余裕などなかったとすれば、それは意図したことではない。つまり自分に対する好意などないということだ。そしてもし、そういうことに頓着しない性格だとしたら、それこそタバコの煙。最後に残った仮説は、限りなくゼロに近いと思う。バーテンダーは好意でしてくれたのだと思いたい。しかし、あまりに残酷なことだった。今回のことを水に流して通い続けることができるか。そうするためにはどうすべきか。水島の胸中は大きな渦がいくつもぶつかり合っている。
「ところで、商売抜きの話をさせてください」
そう言ってバーテンダーは二人の前にグラスを差し出した。個人的な話というのを強調する意味でか、手を加えていない水道の水だ。氷さえ浮かべていない。そして、自分で京極と名乗り、言葉をあらためると断った。
「店の女の子の様子が奇妙なことに気付いたのは、去年の暮れでした。体調を崩したのかなと心配していたのですが、ぼんやりすることが多くなり、滅多にしないような失敗を繰り返すようになりました。でも、毎日ではありませんが、誰かを待っているようなのです。用もないのに通りをうかがったりするのでまるわかりです。誰を待っているのだろうとこっちも気になりましてね、チラチラと様子を見ていました。ああ、この男を待っているのか。すぐに察しがつきましたよ。どうやらその男に心を奪われているらしい。つまらぬ男に惚れて消せない過去を背負わせることは気の毒だと思い、じっくり問い詰めたのです。すると、睨んだ通りでした。男に思いを寄せているのです。まあ、相手が誠実でさえあれば、私が口出しすべきことではありません。だけど、その子は相手のことをほとんど知らないのです。女癖が悪いのか、浪費癖があるのか。暴力をふるうようでは困りますし、働かないのも困る。なにより、特定の交際相手がいるのかどうかもわかりません。男に面子があるように、女にだって対面ってやつがありますからね、それを守ってやりたい。経営者であるからには男気を出さなきゃいけないと思いました。幸いなことに、その男のことを私も知っています。ただし、ほんの一部だけです。薄っぺらな表面の、そのまた一部だけ。だから私は、男を観察することにしたのです、一皮めくってやろうと思ってね。ところが、悪くないのです、見てくれはともかく。女の子の家族とも親しいものですからね、父親の耳にいれてみました。そうしたら、私の目を信じると言うのです。のっぴきならないところに追い込まれたわけです。そこでね、女の子を唆したのです、ネクタイを直してやれと」
ネクタイを直す? そうさせたのは、バーテンダーの入れ知恵? 店の女の子とは誰のことだろう。糸香のほかにも三人いる。京子と美乃里は派手好みだ。髪を染め、ピアスをあちこちに付けるような女性だ。地味な男など相手にすまい。睦は派手さを好まないようだ。しかしいかにも活動的で、冷たい印象がある。残るは糸香だが、あれだけの女性だからきっと男らしい相手を選ぶだろう。とすると、店の子とは誰のことだろう。そして相手の男とはどんな奴だろう。そして、どうして自分にそんなことを話すのだろう。様々な疑問が頭の中を駆け巡る。待てよ、たしかネクタイをどうとか言ったけれど、店の子がそんなことをするのを自分は見たことがない。今日、糸香がしてくれたと同じことを誰かがしているのかもしれない。自分が知らないだけだ。だが待て、糸香が自分にしてくれたのは事実なのだから、ひょっとすると。
そうであってほしいという願望と、そんなはずはないという諦めが水島の中で堂々巡りをしている。
どうやって忘れようかとばかり考えていた水島は、早く話を終わらせてほしいとさえ願っているのに、バーテンダーはパイプに火をつけている。その甘い香りを恨めしいと水島は思った。
「なあに、若い者が誤魔化そうとしたって見破るくらいわけもない、年季が違いますもの。で、相手の気持ちを推し量ってみたのです、からかうことでね。そうしたらビックリですよ。相手もその子のことを憎からず思っている。気弱なんでしょうね、断られたらどうしようと不安でたまらない。だから言い出せない。ピンときましたよ。そこで一芝居打ちました。普段なら面白がるはずなのに、気を奪われてしまって上の空。こうして説明しているのにまだ気付いてくれない野暮です、水島さん」
水島がガバッと頭を上げた。まん丸に見開いた目でバーテンダーを見つめ、糸香を見つめ、再びバーテンダーを見つめた。
「意味がわかったかね、水島さん。念のためもう一度訊ねるけど、親密な相手は?」
水島は、ブルブルと顔を振った。
「では、お友達程度の付き合いは?」
またしてもブルブルと首を振る。しかし、恥ずかしそうだった。
「なら、糸香と付き合ってみないかね。お互いに相手のことを何も知らない同士だ。急がなくていい、相手のことを深く知るようにしたらどうかね」
そう言われて水島は椅子から立ち上がった。そうだ。糸香は水島という苗字しか知らない。住所も電話番号も教えなければ。そう気付いてポケットを探った。ペンは探り当てたが紙がない。紙、メモするものはないか。水島はすべてのポケットを探り、やっとのことで名刺があることに気付いた。が、余白がないではないか。無理をして細かい字でかきだし、裏面が使えることに気付いた。慌てて名前と住所と電話番号を書きなぐって糸香にさしだし、ペコリと頭を下げた。糸香も立ち上がり、恥ずかしそうに頭を下げる。しっかり受け取った名刺には角張った文字がおどっていた。
「水島さん、なにも今そんなことをしなくても。野暮な人だ。だけど、そこが好い。誠実さがある。ただし断っておくよ。さっき遊女のことで教えましたよね。仮にも盃事をした、契ったのだからね。もし泣かすようなことをしたら遊女たちに袋叩きにあうよ。ついでに教えてあげるけど、糸香の父親は裁判官だから。意味、わかるよね」
いやらしい笑みを浮かべてパイプを銜えた。
「さてと、私の役目はこれで終わった。二人ともさっさと帰ってくれないかな。そうそう、言い忘れてた。糸香は私の姪だからね」
裁判官と聞いてもピンとこない。なるほど世の中には裁判官なる職業が存在する。けれども、それは外国人よりも遠い存在だと思っている。むしろ、代議士や大臣だと言われたほうが身近に感じられる。だから職業聞いて驚きはしなかった。でも、糸香はバーテンダーの姪? まさかと思う。何も知らないのを良いことに自分をからかっているのだと水島は思った。そして気になることがある。バーテンダーはなんと名乗ったか。たしか京極だと言っていた。糸香も京極姓なのだろうか。珍しい姓ではあるが、まんざら知らないわけではない。仕事柄旧家の名に接することが多く、日本史にも登場する姓だ。なにか繋がりがあるのだろうか。そんなことを訊ねようとした矢先だった。
「もう、苛々するなあ。デイトにでも行けと言っているのがわからないのかね」
「デイトですか?」
糸香の想いを知ったのはつい今しがたのこと。そしていきなりデイトと言われても水島には対応のしようがない。どんな場所に行き、どんな話をすれば良いのやら見当がつかない。
「本当に苛々するね。どこかへ繰り出せとか、豪華な食事に誘えなんて一言も言っていないじゃないか。電車通勤だから駅へ行くのだろう? 糸香も電車で通っているの。だったら駅まで歩けばいいじゃないの。途中で喫茶店に入るなり、ハンバーガーを食べるなりすればいい。それだけのことじゃないの」
「でも、仕事が残っているのでは」
「とっくに勤務時間は過ぎている。サービス残業みたいなもんだ。お前も突っ立ってないで着替えてきなさい。これから夜の部が忙しくなるのだからな」
苛々がつのると、やがては呆れに変わるようで、当事者ではないバーテンダーがため息をつきだした。