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失恋とフグ毒

作者: 十川潤


 くそっ、俺が振られるなんて。ありえない。どう考えても脈ありだったろうが!


初めての失恋。俺は制服を着たまま海岸沿いをあてもなく歩いていた。陽光が凪いだ海面を照らしている。かすかな潮風が髪をゆらす。

失恋に沈んだ気持ちを持て余し、まっすぐ家に帰る気分にはならず、海辺で気持ちを落ち着けてから家に帰ろうと思ったのだが、ちっとも心は静まらない。わき上がる感情は怒りだった。あのくそ女、思わせぶりな態度とりやがって。


濁った海から漂う独特の匂い。釣りを楽しむおっさんたち。平日の昼さがりからのんきに釣りなんてしやがって。仕事してねーのかこいつらは。地元の海に情緒なんてないな。ここが沖縄とかだったらもう少しましなのかもしれないけど。



ここでは浜釣りでクロダイやスズキが狙えるため平日でも多くの釣り人が見られる。俺も小さい頃は親父に連れられて釣りをしに来たものだ。

ここらの釣り人はマナーが悪い。

 外道としてクサフグという小さなふぐがしょっちゅうかかるのだが、こいつは餌を横取りしたり、仕掛けをかみ切ったりする厄介者だ。あんまり頻繁にクサフグがかかるもんだから、腹を立てた釣り人たちはリリースせずに堤防や砂浜に生きたまま放り投げる。

釣り人たちの間で暗黙の了解になっているのだろう。だれも咎めたりはしない。今日もあちこちにかわいそうなクサフグたちが干からびて死ぬのを待っている。そのせいか、この海岸は魚屋のような生臭い匂いまで漂っている。


昔は釣り人が捨てたクサフグを食べにカモメが群れでやってきて、あちこちに内臓をぶちまけながら食い散らかしていた光景が見られた。おまけに毒にやられたのか、カモメの死骸が町中で発見されるという問題まで起こった。

最近はそんな光景は見られなくなった。カモメも学習するのだろうか、それとも馬鹿なカモメは滅びたのだろうか。



浜辺をあてもなく歩いていると、目の前から白い犬を連れたおっさんが歩いてきた。聞いたことのないメロディーの鼻歌を歌っている。足が悪いのか、少しびっこをひきながらこっちへ向かって歩いてくる。



「兄ちゃん、なに辛気くさいツラしてやがるんだ。女にフラれたか?」


顔を伏せて通り過ぎようとしたところを、いきなり声をかけられた。おっさんは俺の行く手を遮るように立ち止まった。じろじろと顔をのぞき込まれた。おっさんの両目はそれぞれ外側をむいていた。斜視のようで焦点が合っていない。


「そんなんじゃないですよ……」


気色悪いじじいだな、と思いながらおれは生返事をした。


「初めてここらを散歩するんだが、いつもこんなに魚が捨てられてるのか?」


おっさんは俺に立ちはだかったまま足を止めて話し続ける。

どうしようかと一瞬迷ったが、ちょっとだけおっさんと話してやってもいいか、気が紛れるかもしれないなと思い返事をした。


「ここは昔っからそうですよ。マナーの悪い釣り人がフグを捨てるんです」


「最悪だな。だいたいオレはよお、釣り堀だとかスポーツフィッシングなんかが大嫌いなんだよ。魚を釣り上げてリリースする。そんなの魚をいじめてるだけじゃねえか。釣った魚はきちんと食べる。それが礼儀じゃねえか。なぁ?」


「…………」


おれが黙っているとおっさんは、「なあ、ヘムヘム」と呟き、犬を抱えてその場に座り込んだ。この犬ヘムヘムって名前なのか。確かに唐草模様のほっかむりをさせたら似合いそうな子犬だ。おっさんとは対照的に清潔感のある白い毛並みと澄んだ瞳がかわいらしい。

突っ立ってねえで座ったらどうだと言われ、俺もおっさんと少し距離をとって座った。


「だいたいなんでお前さんは暗い顔してんだ? ちょっとこれもって待ってろ」


おっさんはヘムヘムのリードを俺に預けると海へ向かって歩き出した。

仕方が無いのでヘムヘムを撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。かわいい。



ヘムヘムを膝元にのせたままぼんやりしていると、おっさんがフグを片手に戻ってきた。まだかろうじて生きているフグようだ。口をパクパクさせている。フグは近くで見るとほんとにまん丸い。ソフトボールぐらいの大きさだ。


「どうしてフグを捨てるんだろうな、高級食材じゃねえか」


独り言なのか、俺に話しかけているのかよく分からない口調だ。おっさんはベストの胸ポケットから折りたたみ式ナイフを取り出すと、砂浜でフグを捌きだした。


ヒレを落とし、ナイフの先端を器用に使い腹を割くと、驚くほどの水があふれ出てくる。胃の中の消化されていないモノがいっしょに砂上にぶちまけられ、ぷんと悪臭が鼻をついた。くさい! いったいフグはなにを食べているんだ。


「お前さん、しっかりヘムヘムを抱いておけよ」


おっさんは耐えがたい悪臭にひるむことなくフグ捌き続ける。まさか食うつもりなのか? おれは呆然とおっさんの手元を見つめた。赤黒いはらわたを引きずり出し、少しずつ皮を剥ぐと白身が出てきた。手慣れた様子で三枚におろすと手のひらサイズの切り身になった。

おっさんは手で穴を掘り、砂の中へフグの残滓を埋めると、再び海へと歩きだした。


切り身を海水にさらすと、戻ってくるなり俺の顔の前に切り身を差し出してきた。


「ほら、食え」


は? 俺はあわてて首を振った。


「心配すんな、俺は昔板前をやっていた。それにふぐの毒は内臓と皮にある。身は大丈夫だ。ほら、ほら」


おっさんの勢いに恐怖を感じたおれは、声も出せずにブルブル首を振り続けた。冗談じゃない。板前? うそだろう? こんな小汚い板前がいるもんか。それに毒が無いにせよ知らない人が捌いたフグなど食えるもんか。


「なんでぇ、せっかくここまでやってやったのによ」


おっさんは諦めて切り身を放り投げた。


そのときだった。ヘムヘムが俺の膝元から切り身に向かって駆け出した。俺はリードを手放していたから、止めることができなかった。


「あっ!」


俺とおっさんの声が同時に響いた。ヘムヘムは切り身を食べていた。


「やめろヘムヘム! そんなもん食ったら死ぬだろうが!」


おっさんは叫びながらヘムヘムに足を引きずりながらも駆け寄った。ぎゃんぎゃんとヘムヘムは苦しそうな鳴き声を上げた。


おっさんはくるりとこちらを向いた。目の焦点は合っていないが、はっきりと俺の顔を見ていることが分かった。


「てめぇがしっかり綱をもってねぇから……。てめぇがフグ食わねえから……!」


手にはナイフが握られていた。ナイフにはフグの血が付着している。


こちらに向かって来た。足を引きずりながら。



俺は飛び上がると、おっさんから逃げ出した。砂に足を取られながら、振り返らずに全力で走った。



地面がアスファルトに変わり、住宅街に迷い込んだところで後ろを振り返った。おっさんは追いかけてきていなかった。俺は大きく息を吐いた。汗でワイシャツはびしょびしょになり肌にべっとりと張り付いていた。


さっきまでの失恋で落ち込んでいた気持ちは、もう、かけらも残っていない。



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